夜が落ちても拓也は眠れなかった。ルーゲンハーゲンによれば、拓也は明日にも浄化の間へ連れていかれるらしい。今宵が、拓也が拓也でいられる最後の晩となる。
 拓也は何度も寝返りを打っていたが、不意に起き上がった。このまま明日の朝を迎えてはいけない。何としてもララに会わなければいけなかった。
 会ってどうするのか、明確な解はない。
 逃げることは出来ないだろう。逃げ場所もないし、相手は翼を持つ天使たちだ。拓也の行動に容赦などするはずがなかった。遅かれ早かれ明日までに来世に送られる運命に変わりはない。
 けれど、考えてみれば、記憶を取り戻してからララとは言葉すら交わしていないのだ。
 拓也もララも、もうすぐ魂を浄化されてしまう。ならば、その前に顔だけでも見て別れを告げなければ。
 部屋の隅をじっと見つめている内に、目が暗闇に慣れてきた。そっとベッドを抜け出して、窓辺に寄ってみる。38階は、ぞっとする高さだった。ラプンツェルの髪でも地面までは届きはしないだろう。窓から脱出するのは不可能だ。
 拓也は振り向いて、回廊へと続く扉を見やった。己の足で、闇夜に紛れて下まで行くしかないのだ。
 しかし、拓也には僅かな期待があった。これまで天使たちの様子を見てきたが、翼のある彼らは歩くより飛んで移動する方を好む。隣の部屋に行くのも窓伝いで、回廊を歩くのはまれなのだ。
 よし、と勇気を振り絞って拓也は部屋を出ることにした。


 ゆるやかなカーブを描く回廊を、ひたひたと進む。カーペットの床は足音をうまく包んでくれた。逆に相手の音が聞こえないのは厄介だが、見回りがあるなら明かりのひとつふたつ持つはずだ。行く手に光がないことを注意深く観察しながら、拓也は足を前に進めた。
 エレベーターは流石に使えないため、拓也は非常階段を探した。歩くより飛ぶことが一般の天界に、そんな都合の良いものあるか不明だが――。
『――あった』
 数分後、煌々と灯る非常灯(緑の人が走ってるロゴマーク)を掲げた扉を前に拓也は崩れ落ちた。一体どういうスタンスで下界の文化を取り入れているのだこの天界は。
 まさか罠ではあるまいと耳をつけてみたが、音は聞こえない、意を決してそっと開いてみると、果たしてそこには下へ続く階段があった。拓也のいる地点には壁にでかでかと38Fとペンキ塗りしてあって、とってもユーザーフレンドリー。
『……38階から階段で降りるのか』
 足腰が砕けそうな所行である。拓也はげんなりしながら長い道のりを下りはじめた。

 地上階まで辿りつくと、拓也は妙な様子に眉を潜めた。ホールは無人で、入り口にすら監視されている気配がない。死者の中には拓也以外にも逃げ出したがる者がいるだろうに。
 罠の匂いがしたが、しかし拓也は首を振った。どうせ既に死んだ命だ。もう、失うものなど何もない。
 円柱の影に隠れながら外に出ると、生ぬるい風が頬を打つ。拓也が出てきたごつごつした建物の周辺を見渡す限り、ほとんどの照明が落ちており、命の気配はない。行く先の方向を見定めると、拓也は音を立てないように歩き出した。
 人通りは皆無であった。薄ら寒いものを覚えながら、拓也は石畳の道をひたひたと進む。程なくして草原に差し掛かると、遥か彼方にララが拘留されている建物が見えた。
 拓也はごくりと息を呑む。草原に出てしまえば、身を隠してくれるものは何もない。夜の暗闇はどれほど拓也の姿を隠してくれるだろう。
『ララ、待ってろ』
 自分に力をつけるために心で呟く。ぬるつく掌を服で拭うと、拓也は覚悟を決めて何もない夜の草原に踏み出した。
 建物のないそこはざわざわと揺れ、拓也の頼りない影にも風は容赦なく襲い掛かる。時折腕で顔を庇いながら、拓也は正方形の建物を目指す。
 と、遠くの方で何かが光った
「っ」
 天使か、と拓也は反射的に地に身を伏せる。しかし、それは拓也を追うわけでも、増して襲い掛かってくるわけでもわけでもなかった。
 それは流星群のような無数の光の筋であった。漆黒の空から、一つ、また一つと光が瞬き、草原や森に降り注ぐ。落ちるたびに、パーン、と星が弾けるような強い音が鳴り、拓也は同時に聞こえたものに耳を疑った。破裂音と同時に、老人の声が聞こえた気がしたのだ。
 星が降るたびに弾ける声。それは瞬く間に数を増して、拓也は言葉の渦に投げ出されたようになった。
 耳を塞いでも聞こえてくるそれらに戦慄しながら、――そして唐突に言葉が拓也の喉をついて出た。
「魂が降ってきてる」
 強い音が耳朶を叩くたびに、ざわざわと背筋に鳥肌が立つ。響きあうそれらは潰えた命たちの叫び。満ち足りて死んだ者も、絶望の内に死んだ者も、魂がまとう命が自らの生を語ろうとする。重なるそれらが次第に金槌で殴られたような重みを持ちだす。
「ぅ……」
 老若男女、ありとあらゆる言語の情報がぐちゃぐちゃに拓也の頭に入ってくる。頭が割れそうな痛みに襲われながら、拓也は逃げるように黒い草原を走り出した。
 命は語る。その固有の生き方を。命は歌う。その身が燃やされる前に、一つでも自らの歌を歌おうと。
 草を踏みしめている筈なのに、まるで深海を走るかのよう。地に落ちた輝きが、七色の火花を散らす。戦火の中を走るように拓也は走る。美しく、おぞましく、わけもなく涙が出た。

 大きな光、小さな光。
 光は大きければ大きいほど、それだけ強い想いを詠う。
 明滅する視界に灼かれた網膜に、ふいに小さなミルク色の毛並みが映った。
 それは他のものと比較にならない巨大な光。隕石のように衝突し、大地を激震させる。

 一緒にいたい。

 ただ、それだけ。それだけの想い。
 純粋で、透徹で、狂気にも似た願望。
 もう一度だけ会えるという希望に縋り、稚い命は少女の姿をとる。掴んだ希望の正体が絶望なのだと気付かずに。否――本当は気付きながら、無理をして笑って。
「馬鹿だろう、お前」
 拓也は呟く。拓也は救えなかったのだ。もう少し早く見つけてやれば。もう少し早く走れていれば。あの小さな命を守ることが出来たかもしれないのに。後悔は、拓也の人生に暗い影を落とし続けていた。罪は拓也にあるのだ。なのに、どうして。
「どうして恨まないんだよ」
 拓也の前で無防備に眠りこけた横顔。
 ――拓也さんは、優しい。
 涙を力強く払って、ララは笑う。
「やめろ」
 輝きに体を焼かれるほど、自らの汚らしい部分を照らされるようで、拓也は首を振って拒絶する。
 そんな想いを抱かれるほど、自分は崇高な人間ではない。
 何も出来なかったのだ。何も。小さな命が死んでいくのを止められなかった自分は。
 ただの、無力な命だったのだ。
「ララ」
 時を止めた少女の姿が遥か彼方に見えた気がして、拓也は顔をあげ、ひっと息を呑んだ。
 目の前に、羽根をぴんと伸ばした天使が浮かんでいた。その瞳に暗い色を浮かべたまま。
 大天使ロボ。浅黒い肌がゆっくりともたげられ、指先に光が宿る。
 しかし拓也は止まらなかった。彼の背後に、ララが閉じ込められているのだ。ここで止まって、どうしてあの強さに報いることが出来ようか。
 命が降り注ぐ。光が踊る。拓也は叫びながら、その足に全力を込めて前に進む。
 瞬間、爪先が空を切った。大天使がその光を放った瞬間、拓也の体は宙に浮かんでいた。
「――!?」
 背後に人の気配を感じて、拓也は自らが羽交い絞めにされて空を飛んでいることに気付く。
「すいません、ロボ様。ちょっと私の監督不届きで」
 それが誰の声か確かめる余裕もなく、拓也は叫んだ。
「ララ!!」
 光に照らされて、建物はすぐ傍にある。その声が少女に届くよう、拓也は身を声にして体を捩った。
「ララ、聞こえるだろう!?」
 無力感と絶望と怒りの狭間。涙が噴き出て、叫びが震える。何を言っていいか分からない。荒ぶる感情に任せ、無茶苦茶に拓也は叫んだ。
「俺はお前の思ってるような聖人じゃないんだ、汚らしい人間なんだよ! だからお前を助けられなかった後も、のうのうと生きてた。お前のことなんかな、半分忘れてたんだ。そのくらい薄情なんだよ、俺は!」
「拓也くん」
 後ろから誰かが囁く。万力のような力で体を取り押さえられながら、だが拓也は叫び続ける。
「分かったろう、失望しただろう俺に!? なあララ、こんな奴のためにお前が悩む必要なんかないんだよ。蹴飛ばすくらいの気持ちでさっさと来世に送りゃいいんだよ! だから、だからお前は」
 生きていた頃だってこんな酷い顔になったことはない。拓也は腹から塊を押し出すように叫ぶ。あのとき助けることの出来なかった命に出来る、たった一つのこと。
「お前は天使になれ。こんな連中、ぶっとばしてやれ!! お前なら出来る、ララ――」
 後は自分が言葉を放っているのか、ただ叫んでいるのかよく分からなかった。闇に向けた叫びが一体何処まで届くのか。降り注ぐ命たちの中、その光が全身を灼き殺していくのを感じながら、拓也は意識を失うまで声を振り絞り続けた。


 ***


「まったく君は無茶をする」
 目覚めると、ルーゲンハーゲンが寝台の横の壁にもたれて苦笑していた。がばりと体を起こした拓也は、自らを呆然と見下ろした。長い間眠っていた気がするし、つい先ほど意識を失ったばかりの気もする。
「お陰で私も寝不足だよ。あのあとこってり絞られちゃってさ……ふああ、っと失礼」
 欠伸を手で隠すルーゲンハーゲンを他所に、拓也は部屋を見回す。何時の間に連れ戻されたのだろう。窓の外は既に明るく、天使たちが翼を広げて仕事に勤しんでいる。命の降り注ぐ情景がまるで夢のようだ。
 自らが完全に無視されていることを意にも介さぬ様子で、ルーゲンハーゲンは拓也を促した。
「さあ、行こう。このまま大天使様の承認を貰って浄化の間だ」
 拓也はようやく、ぼんやりと天使の顔を見上げた。全身の力を使い切ってしまったような頼りなさがある。ルーゲンハーゲンは、くすりと笑って背を向けた。
「怒りでも憎しみでもない想いを抱いて天使になれたら、それはどんなに素敵なことだろうね」
 目を見開いて、拓也はその白く美しい羽根を見つめる。
「魂を飼いならす私たちにとって、あの子はとても眩しい。そして君もね、拓也くん」
「ルーゲンハーゲン」
 寂しそうに羽根を揺らして天使は笑った。
「君が何故昨晩あんなに簡単に逃げ出せたか分かるかい?」
「……いや」
「普通の魂は天使の力で全ての感情を操られてしまうから。逃げようなんて思いを抱く魂なんて、君くらいなものなのだよ」
 拓也は胸に手をやった。大天使の無表情に術を使った様が思い出された。ララは一度も拓也にあの術を使わなかったのだ。魂を服従させることを、少女は最後まで拒んだのであった。
「綺麗だ思うのだよ、私は。そう、君たちは綺麗だ。だから泡沫の夢にしかなれない。この空は、あの子が飛ぶには汚れすぎているのだろう」
 まるで届かないものに想いを巡らせるかのように、天使は呟く。掛布を握り締めていた拓也は、悲しげに目を伏せて、そして寝台から降り立った。
 今日、拓也の魂は浄化され、次の命が紡がれるのである。

 空を飛んでいくかい、と聞かれて、拓也は首を横に振った。
 最後まで自分の足で歩きたかったのだ。その隣にもう翼を夢見る少女はいなかったけれども。
 外に出ると、強い陽光が目蓋を刺した。天界には雨が降らないのだという。濃い色をした草が揺れる頭上、空は吸い込まれるほどに高く青く、白い翼が自由に舞っている。きっと昨晩落ちてきた魂を運んでいるのだろう。
 ルーゲンハーゲンは翼を持っているのに、拓也の隣で歩くことを厭わなかった。拓也より頭一つ分は高いところで、彼は時折視線を遠くに向けるのだった。
 彼に習って首を回すと、ララが拘留されている建物も遠くに見えた。ララは拓也より前に焼かれるのだろうか。それとも後だろうか。幾重もの魂の輪廻の果て、いつか出会うことはできるだろうか。冷たい雪と絶望の中ではなく、今度は暖かな陽だまりの中で。
 それが今の拓也にとっての僅かな希望だった。
 拓也が連れていかれたのは屋外に設けられた広場であった。天使に付き添われた魂がたむろっていたが、拓也はその様子に寒気を覚えた。人々は活気のある様子で天使からあれこれ説明を受けている。しかし、よくよく見ると違和感があるのだ。死んで尚生きているように振舞う人々は、異様であった。彼らの表情には哀しみも苦しみもまるでなく、純白の布のような清廉な笑みに彩られている。拓也にとって、それはまるで天使たちが見えない糸をつかって人間を操っているかのように見えたのだ。
 ララが特別だったのだと、今更ながらに拓也は思い知るのだった。拓也は彼女の優しさに守られて、拓也であり続けることが出来たのだ。
 同時に悔しさが込み上げて、拓也は広場の中央に座す天使を睨み上げた。そこには、大天使ロボが神のような威光を湛え、高い御座に肘をもたれている。
 天使たちは手にもつ書類をロボに渡し、ロボは次々とそれに目を通して印を施す。流れるような彼の動作に、次々と魂は捌かれていく。
「行こう」
 拓也と共に立ち止まってじっと大天使を見つめていたルーゲンハーゲンは、一度地平の彼方に目を向けてから歩き出した。拓也は胃の腑が畏怖に強張るのを感じながら、威容を誇る大天使へと近付いていった。
「遅いぞ、ルーゲンハーゲン」
 大天使の隣にいた天使が厳しい声で呼びかける。
「すみません。拓也くんの寝顔って可愛いなと思ってたら、つい」
「ちょっ……!?」
「冗談です。拓也くんの寝起きが悪かったからです」
「……」
 飄々とルーゲンハーゲンは小言をやり過ごしたが、拓也は広場の空気が僅かに強張ったのを感じ取った。敵意を露にする者はいなかったが、他の天使は皆ルーゲンハーゲンを無言で弾劾するようだった。
 拓也は不安になってルーゲンハーゲンを見上げる。
 不敵な笑みを浮かべたルーゲンハーゲンが軽く手で空を払うと、そこに書類の束が現れる。拓也として生きた命の記録だ。拓也は唇を噛み締め、ララを捕らえた大天使に挑んだ。
 大天使ロボは巌のような顔で二人を迎え、ルーゲンハーゲンが差し出した書類を受け取った。拓也に一瞥すらくれずに文書に目を通し――そうして、僅かに眉を潜める。
「これは何だ」
 背筋が産毛立つような低い声。足を竦ませた拓也の横で、ルーゲンハーゲンは晴れ晴れとした顔をしていた。
「不備がございましたか?」
 ルーゲンハーゲンがきっぱりと言ってのけると、大天使ロボは目を細めた。慌てて大天使から書類を受け取った控えの天使が、仰天したように声をあげる。
「き、貴様、何も書いていないではないか!」
「え? あれ、おかしいですね。きちんと全部埋めたのですが」
 不思議そうにルーゲンハーゲンは眉を上げてみせる。そして、困ったように笑った。
「これじゃ拓也くんの魂の受け皿が貰えませんね。どうしようか、拓也くん」
「え」
 突然話を振られて拓也は口元を引きつらせる。ルーゲンハーゲンは呑気にも、うーんと顎に手をやって悩んでいる。あまり考えたことがなかったが、もしかするとこの天使も相当な問題児なのかもしれない。
「貴様、ふざけているのか! すぐに体裁を整えて――」
「そんなことをする必要はないと思いますよ」
 銀の巻き毛を風に遊ばせて、ルーゲンハーゲンはふんわりと笑った。その紅の瞳には相手に切り込むかのような挑戦的な眼光が輝いており、控えの天使は怪訝そうにたじろぐ。
 ルーゲンハーゲンが満足げに唇の端を歪めた、そのときだった。


 ざわり、と心が沸き立った。
 全身が熱くなったような、冷たくなったような。振り向きたい。振り向きたくない。歓喜とも畏怖ともつかぬ感情に襲われ、拓也は電流に打たれたように直立した。
 風が吹く。草原をざわめかせて何処までも。吸い込まれそうな空の下、光輝をその地に振りまくように。

 命の脈動を漲らせ、力強く走る足。

 そう、それは叶わぬ願いの筈だった。
 膨らませたまま消えてしまった夢。たった一夜の淡い想い。けれど忘れたことなどない。もしも、もしもと。届かない幻に手を伸ばして、頬を歪めた夜があった。

 小さな命は、息を切らして前を目指す。

 自分の愚かさに拓也は戦慄する。そうだ。何故気付かなかったのだ。
 落ちた書類。かき集めてやったときに見つけたもの。その片隅に描かれた、拙い絵。太陽、花、人と子犬と。


 それは、拓也が夢見た情景ではないか。
 ――それは、拓也も夢見た情景ではないか。


「拓也さん!!」
 世界の果てまで響き渡るかのような、己の名。
 振り向くと、そこに分厚いファイルを抱きしめた少女がひとり。
 青空と草原を背景に、その足で燦然と立つ。
 大きな瞳に揺るがぬ決意を湛え、――ああ、こんなにも小さな身体で。

 ララは拓也をひたと見据え、頭を下げた。声をかけるより前に、少女は大天使を見上げて口を開く。
「拓也さんの転生手続きに必要な書類を全て、持ってきました。確認の上、承認をお願いします」
 驚くほど大人びた口調で、ララはファイルから文書を何枚か取り出すと、ファイルを地面に置き、両手で差し出した。
「お、お前。どうやってここまで来たのだ」
 控えの天使の声に、ララは反応しなかった。辺りの天使たちは呆気に取られて少女を見つめている。大天使ロボだけが変わらぬ冷たい眼差しで少女を眺め下ろすが、少女は自らを幽閉した天使を、唇を噛んで睨み続けていた。
 すると大天使ロボは、低い声で少女に問うた。
「条項を破り作られた書面を提出する理由は?」
「天使条項二。天使は魂の送還を職務とし、あらゆる事由が本項に最優先される」
 淀みなく言葉を紡ぐララに、容赦なく大天使ロボは質問を重ねた。
「天使条項三十三。本条項を破り天使の権限を剥奪された者には一切の職務遂行を許さぬものとする」
 ララは僅かに怯んだ。そのとき、ぼそりとルーゲンハーゲンが呟いた。
「六十四項」
 電流が走ったように、ララは目を見開いた。そして燦然と言い放った。
「天使条項六十四。天使は魂の転生期間を最短で済ませるよう力を尽くすこと。不当な理由に因って、天界に魂を置くことを禁ずる。――わたしが天使の権限を剥奪されたのはこの条項に因ります」
「今更何を言っているんだ!」
 控えの天使の鞭を打つような叱責に、ララはロボだけを見据えて反論した。
「わたしは拓也さんの記憶を取り戻させただけ。提出していた予定に遅れを生じさせてはいません。よって権限を剥奪されるのは不当と考えます」
「その魂と無用な時間を過ごすために記憶を取り戻させたのだろう」
「違います」
 はっきりと。
 ララは、優しい願いを断ち切るように否定した。
「残りの時間を幸せに過ごすために、わたしは記憶を蘇らせました」
 控えの天使は軽蔑を込めて失笑する。けれど、ララは書類を捧げ持つ手を下ろさない。
「何も知らせずに魂を来世に送ることは簡単です。でもわたしは嫌です。わたしだって、命だから。嘘なんてつきたくないんです。笑って次の命に送り出してあげたい。この考え方は条項に反していますか」
「愛した者を、迷いなく浄化できると?」
 大天使の問いに、ララは歪むように笑った。
「いいえ、迷うでしょう。お別れするのはとても悲しいです。でも、わたし……記憶を思い出していただいたことに、後悔なんてしてません。全てを思い出した拓也さんの気持ちを知ることができたからです。拓也さんは、わたしに天使になれって、大声で言ってくれた。それがわたしにとってどんな大きな力になったか、きっと大天使さまには分からないです」
「貴様!」
 控えの天使が殺気を露にしたが、大天使ロボはそれを視線で制した。
「だからわたしは拓也さんを次の命に導いて、天使になります。わたしは絶対に魂を服従させたりなんかしません。傷ついたって、苦しくたって、わたしは魂と語る天使であり続けます。それがわたしのやり方です」
「ララ」
 拓也はその名を呼んだ。膝をつきたかったが、ついてしまうわけにはいかなかった。少女がこれほどまでに戦っているのだ。どうしてそんな無様を見せることが出来ようか。
 しかし拓也は知っていた。大地に真っ直ぐと立つ少女が、どれほどの恐れと迷いをこらえてここに立っているのか。稚い唇は蒼白で、震えぬように必死で両足を突っ張っている。瞳が大天使を捉えて逸らさぬのは、他を見れば恐怖に竦んでしまうことを知っているからこそ。
 ララはぐっと指に力を込めて、手にしたそれをもう一度突き出した。
「あなたにわたしが天使になるのを止めるなんでできないです。さあ、書類を受け取ってください!」

 そのとき、きっと大天使ロボが指を一振りすれば、少女の身体は消し飛んだのだろう。
 しかし、感情のない瞳で少女を見下ろしていた大天使は、大儀そうに身体を伸ばした。
 その手が、少女の書類を――掴む。
 ララは恐ろしさに身を凍らせながら、書類に目を走らせる大天使を見つめていた。
 呼吸をするのも阻まれるような緊張に、拓也も、ルーゲンハーゲンも、一言も口を利くことができなかった。
 そうして、沈黙を破ったのは、大天使の呟くような声。
「見るに耐えんな」
 ひっとララが息を呑み、体を竦ませる。せめて最後に少女を守ろうと、拓也が足を踏み出しかけたとき、突然書類が拓也の方に突き出された。
 それはララが必死に書き付けていた、一番大きな書類だった。
「お前という命の一生の記録だ」
 全身の毛穴が開き、鼓動が一気に早くなる。大天使の圧倒的な威圧感が、いま拓也に向けられているのだ。
「どう思う」
 不意に問われて、舌が痺れたように動かなくなった。代わりに拓也は目を動かして、書類の内容を読もうとした。――そして、不意に眉を下げた。
「……」
 言葉が出なかった。
 ルーゲンハーゲンは白紙で書類を出した。ララのそれは違う。丁寧に、ほぼ全ての枠が埋められている。
 けれど、見るに耐えない、と言った大天使の言葉を、拓也はよく理解した。
 相変わらずの下手な文字。数え切れないほどに散らばる訂正印の跡。不器用にもインクは至るところで滲んで掠れ、体裁などあったものではない仕上がりだ。
「……はは」
 拓也は手で目頭を覆った。
 ぼろぼろの書類。
 それがある日突然命を奪われた自分の証。
 本当に見ていられない。その想いの純粋さ。無力さ。どこまで愚直に走れば気が済むのだろう。
「拓也さん……」
 呼びかけられる声は今にも泣きそうで。だから自分が泣いてはいけない。拓也は乱暴に目元を拭うと、大天使を見上げた。
 ――その口元が、にやりと笑う。
「何かこの書類に不備でも?」
 ざわっと空気が沸き立つようだった。周囲の驚愕が怒りに変わる前に、拓也は一人で言い切った。
「俺の人生のこと、よろしく書いてくれてるんでしょう」
 そうして息を吸い、再度問いを腹から繰り出す。
「この書類に何か問題があるんですか!?」
 空気が痺れたように震え、そしてまた静寂が戻ってきた。
 拓也とララは挑むように大天使を見上げ、大天使は色のない顔でそれを見返していた。
 ――つと、僅かにロボの口元が笑った気がした。
「っ」
 ララが肩を飛び跳ねさせる。ロボはゆっくりと左手を掲げると、指輪の飾りを書類に押し当てた。
「不備はない」
 ぱっと視界が開けた気がして、拓也は口を開け閉めした。書類に小さな煙があがり、右下の空欄に朱色の印が押される。――大天使の承認印であった。
「あ……」
 震える手でそれを受け取ったララは、へたりとその場に座り込んだ。自らの全てを賭けて作った書類を、我が胸に抱いて。
 拓也は呆然とそれを見つめていたが、ようやく我を取り戻すと、少女に駆け寄り、腕を引っ張り上げた。
「きゃうっ!?」
「オイ、いつまでぼさっと座りこんでんだ! そこの陰険野郎の気が変わらない内に、行くぞっ!」
「お、おい貴様、ロボ様になんてことを――」
「わあっ。拓也さん、待ってくださいー!!」
 急かされたララはファイルを持って立ち上がると、走り出しかけて一度振り向き、大天使ロボにがばりと頭を下げた。
「ありがとうございましたっ!!」
 幼い少女は、少年に腕を引かれ、ミルク色の髪を翻して走り去っていく。


「……貴様が手引きしたか」
「何のことです?」
 残されたルーゲンハーゲンはこともなげに白を切る。頬杖をついた大天使は、気にした風もなく草原を眺めている。その先にある二つの影は、今はもう遠い。
「大天使様は、感動ってものをしたことがありますか?」
 ルーゲンハーゲンは、不意にぽつりと呟いた。
「私は生きている間にはありませんでした。天使になってからも。生きていれば生きているほど、心は震えることを忘れていくものです」
 風を心地良さそうに受けながら、ルーゲンハーゲンは翼を揺らす。その口元に、苦笑を浮かべて。
「私はララがただ天使になれば良いと思っていました。なのにララは危なっかしい道を走り抜けていく。けれどそれは時に、凍った心をも動かしていく。これが感動ってものなら、悪くない感情だと思うんですよ」
 そうして、ルーゲンハーゲンは大天使を見上げた。
「にしたって、『大天使様にわたしの気持ちは分かりません』は言いすぎですね。後で叱っておきますよ」
 口では叱ると言いながらも、はっきりとララの言葉を復唱してみせて、天使は意地悪そうに笑った。
「……昔のことを思い出した」
「はい?」
 ルーゲンハーゲンはふと怪訝そうな顔をする。相変わらず淡々とした大天使は、微動だにする様子がない。
「最終試験で私が殺そうとしたニンゲンはこう言った。お前には空を自由に舞う翼がよく似合うだろう、と」
「――」
 何かを言う前に、大天使ロボは音もなく立ち上がり、翼を広げた。その身体は大地から解き離れて舞い上がり、一気に上空へと消えていく。
 誰も知ることのない大天使の深遠を垣間見たルーゲンハーゲンは、控えの天使と共に暫し呆然とし、そしてまいったように髪に手を突っ込んだ。
「空を自由に舞う翼、か」
 空位となった玉座を前に、控えの天使は慌てて主人の後を追う。捨て台詞にいくつか嫌味を言われた気がしたが、ルーゲンハーゲンの耳には入っていなかった。
 銀髪の天使は、苦笑と共に二人が消えた草原を暫く眺め、手を掲げる。別れを乗り越えていくのであろう二つの魂に、祝福を捧げるために。
「そういえば、人は空飛ぶ翼を夢見るんだったね」
 自分たちが持つ翼は、束縛と空虚、単調な生活の象徴でしかないけれど。
 ララならその灰色ですら明るい色で塗りつぶしてしまうのだろうと、ルーゲンハーゲンはいよいよ青い空を見上げ、目を細めた。


 ***


 来世の受け皿の証書は、中を覗いても何が書いてあるか分からなかった。やはり来世の行く末は、生まれてみないと分からないらしい。
 ララは証書を誇らしげな眼差しで見つめ、浮いた涙を手の甲で拭った。
「良かったです。本当に良かった」
「ああ。これでお前も晴れて天使だな」
「……ぐすっ」
 拓也が頭を撫でてやると、ララはようやく安堵したのか、何度かしゃくりあげた。
「で、このまま浄化の間ってのに行けばいいのか?」
 これ以上泣いているララを見ていると、別れが惜しくなってしまいそうで、拓也は口早に尋ねた。
「はい、ご案内します」
 ララは涙を払うと、拓也を一階の大ホールから地下へといざなった。
 階段を下りると息を呑むような巨大な門があり、天使が暇そうに椅子に座している。
 ララが爪先立ちになって書類を渡すと、天使は中身に軽く目を通して扉を開けてくれた。
「拓也さん」
 開かれた扉の向こうは闇である。ララは拓也の手をしっかりと握り、足を踏み出した。
 ひんやりとした空気が流れてくる通路に入ると、背後で重たい音を立てて扉が閉まる。腹が竦むような音は、もう後戻りできないことを拓也に思い知らせるのであった。
 一気に視界が暗くなったが、歩いていく内に次第に目が慣れてくる。仄暗い壁は曲線を描いており、思っていたより天井が低い。胎内を思わせる、生ぬるい空間だ。
 二人の間は無言だった。拓也は何を話せばいいか分からなくて、喉元まで言葉が出掛かっても、結局口を噤んでしまうのだった。
 ララも同じ気分なのかもしれない。拓也の手を握ったまま、俯きがちに歩を進めている。
 拓也はその温もりを感じ取りながら、不思議な気分にかられていた。こうやって手を繋いでいるが、拓也もララも死者なのだ。現世から解き離れ、思惟だけとなった存在だ。
 いくら心を通わせても、拓也の思惟は燃えて消えていく。
 天使たちがいくら心を注いでも、浄化された魂は全てを忘れていく。
 だというなら、天使とはなんと報われぬ存在なのだろう。
 自らの思惟によって、たった一人会いたい人に会うために天使を目指し、天使となってからは連綿と続く虚しい日常に埋没していく。
 ララは拓也に会いたいがために天使を志したのだという。拓也は不意に不安になるのだ。自分はララに、残酷な道を選ばせてしまったのではないかと。
 ――鼻から息を抜く。ララの魂が燃されると知ればそれを止めようとし、天使として生きると決まればその未来を憂う己の身勝手を自嘲して。
「ねえ、拓也さん」
 呼びかけは低い壁に反響して、拓也はどきりとした。ララは前を向いたまま、思い巡らすように目を伏せている。
「拓也さんはいま、なにを考えています?」
「……」
 拓也は頬を歪め、溜息をつくように言った。
「俺がいなくなっても、お前がちゃんとやっていけるかと思ってたよ」
 ララは短く笑った。
「わたしは大丈夫です。だって、とても嬉しいから」
「翼が貰えることがか?」
「それも嬉しいですけど、でもいちばんは……」
 僅かに言いよどんで、しかしララは顎をあげると、静かに続けた。
「わたし、ほんの少しの間しか生きることができなかったから」
 胸が痺れたようになって、拓也はララを見下ろした。自らの手の中で、冷たくなっていった小さな命。助けられなかったのは自分のせいだと、ずっと己を責めていた。
「天使になったら、空を飛んで、ずっと生きていける。お仕事はとても大変だけど、でも、大好きな拓也さんを覚えていられるんです。こんな嬉しいことってないです」
「ララ」
「わたし、大空を飛ぶんです。色んな魂とお話するんです。楽しいことも、悲しいことも、みんな抱きしめてあげるんです。拓也さんがわたしにそうしてくれたみたいに」
 拓也の声を掻き消すように、ララは言う。拓也は知っている。それが少女の、必死に強がりであることを。しかしその意思を、――その燦然と声を放つ横顔を、どうして否定することが出来ようか。
 だから拓也は言葉の代わりに繋いだララの手を強く握った。
「わたし……」
 ララは不意に声を震わせる。恐れと喜びと哀しみと。幼いが故の純粋な想いが、繋がれた手を通して伝わってくる。
「わたし、拓也さんに謝らないといけないです」
 大きな二つの目が拓也を見上げる。そこに透明な涙を湛えて。
「なんだ、お前が謝ることなんてなにも……」
 ララは拓也を遮って、掠れた声で呟いた。

「死んでしまってごめんなさい」

 拓也は――足を止めかける。
 しかしララが歩くから。ララが前へ進むから。拓也も歩く。拓也も前へ進む。
「わたしがもう少し強かったら、拓也さんと、もっと一緒にいられたのに。わたしは、生きることができませんでした」
 前方に光が見える。長い回廊が終わりを迎えようとしている。拓也は首を振る。
「違う、俺が……俺がお前を助けられなかったんだ」
「いいえ。あの日、おかあさんが死んで、にいさんも、ねえさんも死んでいって、わたしもだんだん眠くなって……拓也さんに抱き上げてもらったとき、わたしは、それが」
 ぱっと光が弾ける。回廊の終点。視界が開けるそこに到達すると共に、ララは言った。
「それが、天使さまに抱き上げてもらったみたいだったんです」
 あなたのことが好きでした。
 あなたのことが大好きでした。
 あなたの傍で生きたかった。
 あなたの腕の中で生きたかった。
 けれどそれが叶わなかったから、代わりに。
「今度はわたしが魂を抱きしめる番です。今のこの時はきっと奇跡なんです。わたしが拓也さんにもう一度会って、ありがとうを言って、ごめんなさいを言って、――わたしは、魂と語り、魂を運ぶ天使になります」
 眩しすぎる光が、天空から溢れていた。半球の形をした大理石の空間は息を呑むほどに広く、そして空虚であった。何もない。何もない。あるとすれば、光の注ぐ中央に濃色で描かれた美しい円。
 拓也は目尻を拭った。口を開くと、嗚咽が漏れた。
「ララ」
 お前を拾ったのはこんなに情けない奴だ。
 なのに、どうして。
 泣きながらも、笑っていられるんだ。
「えへ。いつか、生まれ変わった拓也さんのところに遊びに行きますね。そのときのわたしには、翼がありますから」
 ララはファイルを地において、手を伸ばす。拓也を抱きしめる。たった一度だけ。彼らに許された、奇跡の中で。
「きっと」
 拓也は翼のない少女を見下ろして、その頭を腕で包んだ。
「きっと綺麗な翼だろうな」
 拓也はその背に翼を見ることは叶わない。しかし見える気がした。ララが笑いながら、自由に空を舞う姿を。
 ――二人は静かに身を離すと、決まっていたかのように歩き出す。拓也は円の中央に。ファイルを拾い上げたララはその外側に。
 上天から光が降り注ぐ。そこに立つだけで、意識がゆっくりと遠のいていく。拓也は白く染まっていく視界に、少女と視線を通わせる。二人は向かい合わせになり、お互いを見詰め合う。
 ララは分厚いファイルを捧げ持ち、唇を引き縛る。天使見習いとしての最後の試験。最も強い想いを抱いた相手を、次なる命に導くこと。己の想いに別れを告げ、浄化の炎でも焼くことのできぬ己の想いを焼き尽くすこと。
 しかしララは別れを口にしない。ララは継ぐ者であるから。想いを持ったその手で魂を抱く者であるから。
「ここに、浄化の儀式を執り行います。わたしの名はララ。願わくば、天命をまっとうした拓也さんの魂に幸いがありますように」
 拓也をしっかりとその目に捉えたまま、ララは祈りを紡ぐ。地響きと共に、その手のファイルが輝きだす。翼を持つ天使たちが持っていなかったそれの正体を、拓也は初めて知る。ファイルから溢れ出した光が、尾を引いてララの背へと流れこんでいるのだ。
「ララ……」
 拓也は笑う。気が突けば光の強さに部屋の作りすら分からなくなっている。光は天だけでなく、拓也を取り囲む円の淵からも零れ、次第に橙色のそれが勢いよく噴き出してくる。同時に四肢の感覚が失せていく。
「ララ!!」
 拓也は叫んだ。白衣をはためかせたララは目から涙を溢れさせ、祈りを紡いでいる。
「負けるなよ。頑張れよ。自分を信じて進んでくれ」
 命が振り絞る最後の輝きに、歓喜するかのように光の嵐が舞い踊る。
 ララはその様を焼き付けるかのように見つめて、そうして。
 微かに笑って。


「拓也さん。大好き」


 ファイルが光の塊となって弾け飛んだ。同時に拓也の足元が崩壊する。吸い込まれる直前、最後に見たその涙。恐ろしい速度で落ちていく拓也の手にはもう届くこともない。
「ララ」
 全てが白に染まっていく。そして遥か上方から聞こえる、耳朶を叩く強い声。
「つばさを」
 願いに全てを吹き込めるように。
「つばさを、ください」


 想いを継ぐ者の願いは、ついに形を成して。
 伸ばした拓也の手に、空から降ってきた無数の羽根。
 ああ、と拓也は唇を歪めて笑う。その指が羽根に、触れる。

 瞬間、拓也の身体は炎に包まれ、あっという間に輝きの雫を散らして燃え尽きた。


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