小学生にあがったばかりの頃、拓也の住む都心は珍しく大雪に見舞われた。
 子供の拓也は大はしゃぎだった。ブーツと手袋を出してもらうと、コートを羽織って勢い良く家を飛び出した。見渡す限りの銀世界は、まるで眠っている間に神様がもたらしてくれたプレゼントのよう。まだ小雪がちらついているのも構わず、拓也は近くの公園でひとしきり遊ぶのであった。
 町内にチャイムの音が響き渡り、夕暮れになると、子供たちは腹を減らして家へと帰っていく。拓也もまた、帰り道を急いだ。
 だがチャイムの音が鳴ってから公園を出るのでは、夕飯の時間には間に合わない。友人と遊ぶのが楽しくて、思わずそんな時間まで帰らずにいてしまったのだ。今から帰れば母はさぞ怒るだろう。
 拓也は少し迷ってから、秘密の抜け道を使うことにした。それは大人たちからは使うなといわれた、通学路から外れた道だった。狭い道を通り、マンションの間を抜け、他人の家の庭を潜りぬければ、時間を大幅に短縮することが出来るのだ。
 一日遊んだ後の体で雪道を行くのは中々大変だったが、母の怒りはもっと恐ろしい。拓也はそっとマンションの敷地内を走り、フェンスに手をかけて越えるのだった。
 たん、と地面に着地すると、衝撃で揺れた木から雪がどさどさと落ちる。それを払いのけながら子供しか通れない壁とフェンスの間を走っていくと、拓也はふと目を瞬いた。雪とは少し違う色をした塊が複数、狭いそこに蹲っていたのだ。
 近付いた拓也は、ひっと息を呑んだ。それは野良犬の死骸だった。しかも子犬を産んでいたらしい。母犬の腹の辺りで、子犬たちも皆死んでいる。この冬の寒さと雪に耐えられなかったのだろう。哀れみと気持ち悪さが同時に込み上げ、前にも後ろにもいけず固まっていた、そのときだった。
 もぞ、と、塊の一つが動いた。耳を澄ましていなければ聞き取れない、掠れた、悲痛な鳴き声。はっとして拓也は唾を呑んだ。恐る恐る近寄ってみると、ミルク色の毛をした塊が、もう一度もぞりと動く。
 それを抱き上げるまでに、幼い拓也にどれほどの勇気が必要だったか。震える手を伸ばして、そっと背に触り、他の死骸に触らないようにしながら抱き上げる。
 そこにはまだ他の死骸と違う、生き物の感触があった。だが子犬は目を閉じ、ぐったりとしていた。体も氷のように冷たい。
「どうしよう……」
 子犬をコートの中に隠しながら、拓也は泣きたくなった。子犬は弱っているようで、もうすぐ死んでしまうかもしれない。
 拓也は冷たい唇を噛み締めて、子犬を家に連れ帰ることにした。哀れな死骸を飛び越えて、拓也は走り出した。

 コートと腹の間で体温が回復すると思ったが、子犬は家に帰ってもほとんど動かなかった。両親ははじめ驚いたがすぐに動物病院に連れていくために車を出してくれた。父が車にチェーンを取り付けている間、拓也は電子レンジで暖めたミルクを子犬の口に近づけてやった。子犬はぺろりとそれを一舐めしたが、それ以上の体力はないようだった。
「大丈夫だからな」
 拓也は車の中で子犬を抱き、力付けるように呼びかける。子犬は拓也の腕に身を預けている。
 動物病院に駆け込んで、子犬が奥の部屋に運ばれていったとき、拓也はようやくほっとした。これであの子犬は救われるだろう。
「お母さん。あの犬飼いたい」
 待合室で待っている間、拓也はそう言った。母は非常に気まずそうな顔をしたが、父は笑って肯定してくれた。
「そうだな、拓也が助けたんだ。いいんじゃないのか」
「だって、部屋中毛だらけにされますよ。世話だって誰がやるのか……」
 母はぶつぶつ言っているようだったが、父と息子はすっかり上機嫌な様子で話を進める。
「確かメスだったな。名前は何がいい?」
「ララ」
 拓也は顔を輝かせて言った。子犬を抱いて帰る間に考えてあったのだ。
「なんだ、もう決めてたのか」
「うん」
 そのとき、拓也の一家の名が呼ばれた。母は幼い弟を腕に抱き、父は荷物を持って、拓也は嬉しい気持ちで一杯で、診察室に入った。
 あの記憶は脳裏に痛みを伴って焼きついている。大人たちの足。遥か上方で繰り返される会話。医者の淡々とした声。父の静かな声。幼い拓也にも理解できる僅かな単語が、信じられない響きをもってして、拓也の耳に染みこんでくる。

「拓也」

 父が自分の名を呼ぶ。
 聞きたくない。

「拓也、よく聞きなさい」

 父は膝を折って、肩に手を置いて、口を開く。
 やめて。聞きたくない。


「もう、助からないそうだ」


 目の前が、真っ白になる。


 最後に子犬は拓也の腕の中で、小さく鳴いて息を引き取った。




 ***


「拓也くん」
 はっとして目覚めたとき、部屋は夕暮れの黄昏に染まっていた。テーブルの反対側にルーゲンハーゲンが優雅に腰掛けている。拓也も同じように席についており、それぞれの前で紅茶が湯気を立てている。奇妙な感覚であった。つい今呼ばれたまでの記憶がない。
「拓也くん、大丈夫かい」
 ルーゲンハーゲンは心配げに繰り返した。
「……」
 拓也はわけも分からず頷く。何故自分がここにいるのか、よく分からない。
「はあ。やっぱりあの大天使様、やることキツいよ。私だってここまで物騒なことはしない」
「だいてんしさま?」
「そう。大天使ロボ様。この建物で一番偉いんだ。怖いから逆らわない方がいいよ」
 ルーゲンハーゲンは言いながら、手元の大きな書類に何かを書きつけている。誰かが書いていたものに似ている。そう、その席でペンを走らせていたのは――。

 瞬間、電光が瞬くようにあらゆる記憶を思い出し、拓也は椅子を蹴飛ばして立ち上がった。

「ララは!? ララはどうした!?」
 紅茶の水面が揺れてソーサーに溢れる。不気味なほど静まり返った室内で、ルーゲンハーゲンはつと顔をあげた。その言葉が、絶望の色を紡ぐ。
「ララは試験に落ちたよ」
 世界が遠のいた気がした。あの奇妙な小部屋で最後の記憶に触れた瞬間、ララはそこにいた。何かをしようとして、ためらった。そして、そして――。
「君の担当は私が引き継ぐことになった。少しの間だけどよろしくね」
 天使の言葉など聞こえない。そうだ、拓也は思い出したのだ。ララは。ララの正体は。
「ララは天使なんかじゃない」
 テーブルに両手をついて、唸るように告げる。ルーゲンハーゲンは紅茶に口をつけた。
「そうだよ。ララは天使じゃない、天使『見習い』だ」
「天使見習いでもない!! ララは」
「君が助けられなかった子犬だ」
 喉を杭で打たれた気がして、拓也は言葉を詰まらせた。ルーゲンハーゲンは紅茶を置くと、体を後ろに倒しかけて、薄く笑った。
「ああ、天使になると背をもたれられないから困る。種明かしをしよう。拓也くん、まずは座って。きっと長いお茶会になるから」
 諌められた拓也は、天使を睨みながらも椅子を起こして座った。湯気を立てる紅茶など、飲む気にもなれなかった。
 ルーゲンハーゲンは居住まいを改めてから、正面に拓也を見た。
「そうだね、まずは魂の話をしようか。ララから聞いたでしょう、死した魂は記憶を浄化され、次の命に生まれ変わる」
 拓也は頷いた。
「じゃあ、今度はポップコーンの話をしよう。拓也くんは作ったことがあるかな? 銀色の容器に入ったあれ。ポップコーンは火にかければほとんどが熱で膨れて弾けてくれる。でも必ず何粒か、硬い実のままのが残るでしょう」
 ルーゲンハーゲンは、ふっと目を伏せた。
「その硬い実が私たち天使の卵だ。死んだ魂の中には、存命の内に抱いた思いが強すぎて、浄化の炎でも焼けないものがあるのだよ。そんな魂には天使になる道が示され、大抵の者はそれを選ぶ」
「つまり、怨念を残して死ねば天使になると?」
「ふふ。並大抵の想いじゃ浄化の炎には勝てないよ。狂気に近い感情を抱いた者だけが至れる境地だ」
「……あんたも、そんな気持ちを持って死んだのか」
 ルーゲンハーゲンは一瞬、顔から表情を消した。そして鼻から息を抜いて笑い、紅茶のカップを僅かに揺らした。拓也はようやく自分の紅茶に手をつけた。
「私はその昔、ウーパールーパーだった」

 ぶっ。

 紅茶を水平噴射した拓也は座ったまま悶絶するに至る。
「どうしたの?」
「……お、俺は真面目に話していると思ってたんだが」
「真面目だよ、大真面目」
 ルーゲンハーゲンはやれやれと溜息をつく。
「だってララが犬だったんだ。私がウーパールーパーで何が悪いんだい?」
「う、ウーパー……」
 目の前のイケメン=半透明の白っぽい両生類。にわかに信じがたい事実である。
 ルーゲンハーゲンはそのままの調子で続けた。
「私はヒトに熱湯をかけられて死んだ」
 その言葉の意味が暫く理解できず、拓也はぽかんと口を開いたままだった。
「私を買ったヒトは最低な奴だった。珍しい生き物をあっちこっちから集めて、非道を尽くして殺すのが趣味でね。私は他の仲間が惨たらしく殺されて、目の前に死体が積み上がってくのをずーっと見てた。友達も、恋人も、みんな、みんな。彼らの悲鳴は、今でも忘れられないよ」
 小さな水槽の中の出来事だけれどね、とルーゲンハーゲンは付け足す。
「私は最後に殺された。どの程度熱い湯をかけられたら死ぬかの実験だった。ゆっくりと、周りの温度があがっていく。アルコールが落とされて、火を放たれたりしたっけ。長い時間をかけて焼かれていく間、私は、心からそのヒトを殺してやりたかった」
 背筋に鳥肌が立つ。拓也は淡々と語るルーゲンハーゲンの表情に薄ら寒いものを覚えた。
 するとルーゲンハーゲンは寂しそうに笑う。
「死んだ後、気がついたら天使たちに拾われてた。天使になるか、無理矢理浄化の炎で魂を焼くか、どっちかだと言われた。天使なんて冗談じゃないと思ったけど、天使になれば自分を殺した人にもう一度会えるって聞いたから、そっちを選んだ」
「もう一度会う? どういうことだ」
「天使見習いが天使になる最終試験だよ」
 じわじわと見えなかったものが形を現そうとしている。拓也は最後の鍵となる答えを、天使の唇から聞き取った。

「最終試験の内容は、見習い天使がその感情を抱く原因となった魂を、来世に導くこと」

 ルーゲンハーゲンは剃刀のように冷たい瞳で、流れるように己の感情を語った。
「残酷でしょう。私の場合は己を殺した相手を、そ知らぬ顔で次の命に送り出さなければいけなかった。でも天使になるには必要なことなんだよ。どんなに見知った魂の担当になっても、天使はそれを来世へ送らなければいけないのだから」
「……あんたはやったのか」
「私はね、天使になることなんてどうでも良かった。ただ、あのヒトに会ったら私が味わったのと同じ苦痛を与えて殺そうとだけ考えてた」
 沸き立つ復讐を語る唇は、何処か空虚だ。その通り、ルーゲンハーゲンは、首を振ってそれが達せられなかったことを告げるのであった。
「許した……のか?」
「冗談じゃない。許すことなんて、ありえない。でもね、なんだろうね……あの気持ちは」
 ルーゲンハーゲンは窓の向こうに広がる焼けた空に視線を向ける。
「どうでも良くなった。目の前に引きずり出された魂は、老いて、色んなヒトから見捨てられて、ぼろぼろで、怯えていた。それ見たら、なんだか馬鹿らしくなってね。何もせずに次の世に送ってやった」
 窓から注ぐ茜の光が、ルーゲンハーゲンの白い翼を染めている。そしてルーゲンハーゲンは突然、拓也の顔をじっと見つめた。
「天使なんて皆そんなものなんだ。怒りや、憎しみ――そんな燃せない負の想いが、天使の卵をつくる。そしてみんな、虚しい天使になる。だから私はね、ララに尊さを感じたのだよ」
 突然ララの名前を出されて、拓也は顔を僅かに歪めた。ルーゲンハーゲンの話を聞きながら、薄々気付いていたのだ。ララが何故天使を志したのか。
「ララは君にもう一度会いたいという気持ちだけで、浄化の炎を跳ね返してしまった。こんなことは初めてだ。きっと大天使たちも仰天したろうね」
 ララの笑顔や仕草が痛みと共に思い出された。どれほどの想いを隠して、ララは拓也を迎えに来たのだろう。
「拓也くん。君はララの記憶を思い出してはいけなかった。その為に記憶が操作されていたはずだ。それを君は幻想の間で無理矢理掘り起こしてしまった。あそこは君にとっての優しい記憶を思い出すためのところだったから。そして――ララはそれを止められなかった。いや。止めなかった。君に、忘れた記憶を思い出してほしいと願ってしまった」
 拓也はそれを聞いて、怒りが腑の辺りを這いずり回るのを感じた。
「なんで、どうして思い出しちゃいけないんですか! 別にララと俺が思い出したって、ララの仕事ができないってわけじゃ――」
「なら、全てを知った今、ララと別れることは出来るかい?」
 切り込んだ先に茨の藪が待っていたかのように、拓也は声を詰まらせた。忘れられるわけがない、あの小さな温もり。一時とはいえ忘れていたのが恐ろしいほど、それは拓也にとって大切で、悲しい記憶であった。名を呼んで、一緒に歩いて、一緒に暮らしたかった。ようやく巡り会えて、それが永久の別れの挨拶など、あんまりだ。
「それにね、拓也くん」
 拓也は嫌な予感がした。この天使はきっとこれから、最悪な台詞を吐く。
「魂は平等なんだ」
 そして自分はきっと何も言い返せない。
「だから君の記憶を操作できなかった時点で、ララは天使失格なんだよ」
 拓也は目を閉じた。ルーゲンハーゲンの言葉は理解できる。天使たちにとって、命に特別があってはならない。だからララと拓也は、主と家畜の関係でいなければならない。
 分かっている。分かっていた。そこまで自分の頭は馬鹿ではない。
「……ララは、今、何処に」
「落第生は西の方の施設に拘留される。ほら、あそこだ」
 ルーゲンハーゲンに倣って体を捻り窓の外を見ると、広がる草原の向こうにぽつりと正方形の建物が見える。
「たぶん、何日もせずに魂の浄化が行われるはずだよ」
「ララの魂は焼けないんでしょう」
「特別に火力を強めれば、焼けないこともない」
 嫌悪感を露に拓也は顔を強張らせた。ルーゲンハーゲンはそれを哀れみを込めて見つめながら、ペンをとった。
「拓也くん。自分の来世に希望はあるかい? 備考欄に書いておいてあげよう」
 天界の夕暮れは静寂だ。天使たちは己の職務に励み、次々と命を来世に送る。不都合があれば指に光を点して命を操り、服従させながら。
「……そんなもの、ない」
 吐き気を覚えながら、拓也は押し出すように答えた。


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