ララはよく笑い、よく喋った。
 完成した書類を高々を掲げてはファイルに仕舞い、来世の準備に必要な手続きがいるのだと拓也を部屋から連れ出した。
「それで、次は何処に行くんだ」
 初めは物珍しさもあって楽しい道中であったが、拓也は既に疲労困憊の呈であった。連れていかれた先で奇妙な光線を浴びたり(ララ曰く、『前世の穢れを祓うために云々』)、化け物のような生き物の前で禅問答をされたり(ララ曰く、『魂の質を測るために必要で云々』)、山道のような場所を延々と歩いたり(ララ曰く、『魂から余計な(以下略)』)、とまあ現世では絶対に出来ないような体験を次々とさせられているのだ。もう帰りたいと思う拓也を責められる者はきっといまい。
「えっと、次が最後になりますね」
 ララはファイルをめくりながら、気難しげに行く先を見定めた。
「やっと最後か……」
「えへへ。本当は一つか二つで済むんですけど、今回はわたしの最終試験も含んでいるので、全部やってもらっちゃいました」
「ちょ、こんな苦労してんの俺だけ!?」
「だって天界では魂になるべく負担をかけないのがモットですしー、それに」
 てへ、と舌を出しながら、ララは嬉しそうに笑った。
「拓也さんと一緒に回るの、楽しくて」
 拓也の腕を小さな手がとる。触れられた温もりに、拓也はふとその顔を見つめた。
「どうしました?」
「いや……」
 昨日から、拓也の心を離れない違和感。ララの笑顔を見るたびに、胸の奥底が波打つ感覚がある。
「んー……?」
 拓也はその正体を掴もうと、ララの瞳の奥を覗き込むようにした。ララはびくりと肩を飛び上がらせ、怯えた表情をする。
「え、あ、な、なんですか、拓也さん」
「お前さ」
「は、はい?」
「なんか、どこかで」
「あっ! そうでした!」
 拓也の声に被せるようにララは叫ぶと、ぱっと間をとり、慌ててファイルをめくる。
「次のところにはお日様が真上に来るまでに行かなきゃいけないんですー! い、急がないと」
「いや、もう真上過ぎて傾きかけてるぞ」
「はうっ!?」
 なんと下手糞な誤魔化し方であろうか。ララはわてわてと地団駄を踏んで顔をあちこちに向けている。どうやら、先ほどの問いは口に出してはいけなかったらしい。
 ――しかし、何処かでこの少女を見たことがある気がするのだ。
「……」
 拓也は少し考えて、溜息をついた。
「もういいよ。悪かった」
「え?」
 ララはぴたりと止まって拓也を見上げる。
「お前が聞くなってんなら聞かない。そっちの方がいいんだろ?」
「……あ、」
 目線を足元に落としたララは、眉を落として黙り込んだ。拓也はぼりぼりと頭をかきながら続ける。
「まあ、なんだ。本当に昨日は悪かったと思ってるから、さ。お前にも事情があるだろ。お前が嫌だってことはしないよ」
「い、嫌なんかじゃ……っ!」
 弾けるようにララは言いかけて、はっと自分の手で口を塞いだ。その一線を越えてはならないと、己の本能がそうさせたように。ララは俯き、押し殺すように呟いた。
「拓也さんは……優しすぎます」
「んー……」
 生前に優しいと言われたことなどない拓也は、気まずさと面映さにそっぽを向くしかない。
 暫く、お互いに動けず、喋れない時が続く。なんで死んでまでこんなことしてるんだ、と拓也は何度目になるか分からない溜息をついた。
 ――そう、ララの思いを理解することが出来ない拓也は。
「ごめんなさい。こんなところでぼんやりしてちゃだめですね。行きましょう」
 ララは小さく呟くと、拓也の手をとって歩き出した。


 ***


 暫く歩く内にララは何かを振り切ったのか、数分後にはすっかり元気が戻っていた。
「もうちょっと先ですからねー」
「今後のが最後なんだったな」
「はい。でも今度のは、うーん、大丈夫かな」
 そう意味ありげに拓也を見上げる。
「なんだ、面倒なところなのか?」
「いえー。ただ、失敗すると魂が消滅するので」
「待てオイ」
 拓也は全力でツッコミを入れた。
「うぅ、そんなことほとんど起きませんよ、素敵なものが見えることの方が多いんですから。心を楽にもってくださればへっちゃらです」
 ララはにっこり笑うと、拓也の腕を引いた。
「さあ、行きましょう!」
 草原を二人で歩く。空には天使たちが翼を広げ、陽光を浴びて自由に舞っている。
 建物の群れに入り、暫く歩くと、ララはきのこの形をした家の一つの前で足を止めた。
「なんだこりゃ」
「えっと、何も考えずに入ってください」
「……オイ天使見習い、説明なしに得体の知れない建屋に入れというか」
「あ、そうだ! まず初めに言わなきゃいけないことがあるんでした」
「なんだ」
「この家は怖くないです」
「その説明が一番怖いわ!?」
 ファイルに記載された通り読み上げたララの頭を、拓也はわしょわしょとかき回してやった。
「きゃうー!? 目がまわりますー!?」
「全く」
 拓也は息を抜くと、扉に近付いていった。昨日の出来事の手前、ララの言うことには従おうと思ったのだ。
 扉は屈まないと入れないほどに小さかったが、押すとすぐに開いた。
 中は白い壁に覆われたがらんどうの空間である。そこに踏み入ると、ララは扉の隙間から拓也へ不安げに声をかけた。
「あぅ、大丈夫ですか? 気持ちを落ち着けてくださいね? 楽ーにして。見えないものを無理矢理見ようとしちゃだめですよ」
 大丈夫だよ、と手をあげてやると、ララはじっと拓也を見つめた。そして寂しそうに笑うと、扉を閉めた。
「うん?」
 何故ララはあんな顔をしたのだろう。拓也が不思議に思う間にも、辺りは寒気がするほどの無音の空間となる。
 ――と、ぱちぱちと火が爆ぜるような音がした。辺りを見回した瞬間、胃が持ち上がる感覚にぎょっとする。拓也の立っていた地面が溶けるように消えてなくなったのだ。
「――」
 そのまま拓也は落ちていく。白の渦に吸い込まれていく。
 唐突に頭の隅で何かが光った。同時に拓也は母を思い出した。まだその腕に抱かれていた頃の記憶。暖かな、優しい想い。
 かと思うと、友と遊んだ記憶がふっと浮かぶ。夕日が落ちるまで、全身を風にして走った記憶。笑い声とはしゃぎ声。
 次に思い出したのは家族で山に行ったときのこと。ランドセルを買ってもらったときのこと。弟と二人で悪戯をしたときのこと。
 泡が弾けるように次々と、鮮やかな、楽しい記憶が蘇る。その心地よさに包まれて、拓也は何処までも落ちていく。
 しかし、何故だろう。こんなにも幸福なのに、背中がざわざわしている。心を楽にしていれば忘れてしまうほどだが、僅かな違和感がある。
 そう、自分は何かを忘れている。とても大切な何かがあったのに、幸福な何かがあったのに、それを思い出すことが出来ない――。
 拓也はゆっくりと目を開く。それさえ思い出せば、全てが幸福になる。なのに、痒いところにあと一歩で手が届かない。
『何も考えずに入ってください』
『見えないものを無理矢理見ようとしちゃだめですよ』
 ララが何かを言っている。しかし泡がぱちぱちと弾ける音にかき消されてしまう。その声の響きだけが耳に残る。何故かその音は、拓也に手を伸ばせと言っているかのようだった。拓也は深みに手を伸ばそうとする。その正体を見極めたいと思ってしまう。
 それはいくつもの思い出の最果てにある記憶。もうすぐ消えてしまう拓也だけの想い。ならば、それを拓也以外の誰が覚えていてくれるというのか。
 やめろ、と本能が呟いた。
 それでも、と別の本能が叫んだ。
 とても大切な想いだったのだ。失くしてしまいたくない。


 だって、それは。


 伸ばした指先に、泡が触れた。
 拓也は、自分が禁断の小箱を開いたことを自覚した。
 泡が弾ける。
 それは、とても甘く、優しい――。

「拓也さん!!」

 鞠玉のように飛び込んできたのはララだった。拓也の胴体に体ごとぶつかり、引き倒す。
「――ぅ、ぁああ!」
「拓也さんっ」
 ララの声が遠い。自分が悲鳴をあげていることすら気付かず、拓也は身を捩る。吐き気も眩暈も越えた、魂そのものを引きちぎられそうになる途方もない痛みが、全身を支配していた。
「……!」
 ララは何があったかをすぐに理解し、右手を掲げた。その指先に光が集まる。悲鳴を絞りきった後、拓也はぐったりと動かなくなった。ララはこれから自分がすることに、顔を歪めた。
 ――君は天使になるんだろう?
 ルーゲンハーゲンの声が蘇る。それは確かに正しい言葉だった。天使の意に従わない拓也が悪いのだ。だからこれからすることは、『仕方がない』。
 意を決すると、ララは集めた光を拓也の胸に当てようとした。
 しかし、その手が止まる。
 力なく開いた唇が、小さく呟いたのだ。その言葉は、まるで、最後の光を求めて手を伸ばすかのように。
「ララ……」
 その呼び方が、巨大な手となってララの心を掴んで揺さぶる。
「ぁ……」
 ララは手を掲げたまま呆然と拓也を見下ろした。天使になろうとして、ララは拓也の案内人となった。拓也を導かなければ天使にはなれない。涙が浮いた。天使になりたかった。天使になるためならどんな苦しみも耐えられると思った。けれど、けれどけれどけれどけれど――!!


 このヒトとの思い出を、どうして忘れたままにしていられようか。


「ララ……?」
 ぱたり、と腕を下ろした少女を、ぼんやりと拓也は見上げる。
 一粒の涙が少女の頬を伝い、地に落ちる。
「拓也さんには分かりますか」
 小さく弱々しい声。けれど身を振り絞るような想いが込められたそれは、聞くだけでわけもなく胸を締め付けられる。わけもなく? 違う。自分はそれを知っている。頭が痛い。自分は大切なものを忘れている。それを思い出してはいけないと分かっている。散らばった違和感を、形にしてはいけないと分かっている。
「寒くて、冷たくて、誰もいなくて、気が遠くなって。そんなときに差し伸べられた手が、どんなに温かかったか」
「――」
 いけない、と心が呟いた。その扉を開いてはいけない。何も知らずにいねばならない。
 ララの笑顔を守らねば。
 そう思うのに、拓也は閉められた扉に手を伸ばしてしまう。
「わたしは」
 ララは歪むように笑った。それは罪を犯したことを知っている、笑みと涙の入り混じった顔。
「わたしは、あなたに会いたかった」
 悲痛な告白に、――扉が開く。
 何故最後に思い出した幸福な記憶が閉じ込められていたのか。
 それは、それが最も悲しい記憶と重なるから。

 ああ、と拓也は思った。
 思い出した。どうして忘れていたのだろう。思い出すことが出来なかったのだろう。

「お前、ララなのか?」

 少女の頬を、涙が伝う。
 拓也が震える手を伸ばした。
「ララ」

 大切な名前が紡がれることはあったけれども。
 しかし、その指が触れることはない。

 巨大な翼がはためく。まるで魔法のように立ち現れた一人の天使。けれど武人のような腕で無慈悲にララの首根を掴み上げる様は、まるで死神のよう。
 人形のように持ち上げられたララは恐怖の表情で振り向き、そして凍りついた。それは取り返しのつかないことをしたものがする仕草。天使は冷徹な眼差しで小さく何かを呟く。
「や、やめろ!!」
 叫びが届ければどれほど良かったか。ララの小さな体は一度輝いたかと思うと霧散して、跡一つすら残らない。
 嘆く余裕すら与えずに、天使は拓也に肉薄する。その指に光を宿して。
「お、お前、お前ぇええッ!!」
 許されることなら殴りかかりたかった。だが拓也の弱い体は地に伏したまま。胸に天使の指が当たり、食い込む。
 瞬間、全身に電流が走ったようになり、拓也は絶叫した。優しい記憶、悲しい記憶、いたわりと怒りがぐちゃぐちゃに視界を明滅させ、ぶつりと意識が途絶えた。


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