拓也の人生は、ただ凡庸であった。
 当たり前にある家族。当たり前にある学校生活。当たり前にある日々。
 良き友も、嫌いな教師も、好みの本も、苦手な食べ物もあった。
 まさか交通事故で唐突に終わるなど考えられない。
 絵に描いたような、ありふれた人生。

 二つ、胸に沸く思いがある。
 ひとつは、諦め。世界から自分の存在一つ消えたところで、何も変わりはしない。ならば、きっと自分は死すべくして死んだのだ。
 それが、運命。
 もうひとつは、怒りと哀しみ。あった筈の未来を奪われた怒りが、炎のように燃えている。二度と会えない者たちへの思慕は、哀しみの澱となって心に降り積もる。
 運命など、存在しない筈だった。

 けれど、こんな思いですら僅かな時しか保たれはしない。
 来世があるとすれば、そこに到達したとき、拓也は拓也でなくなる。
 では来世が訪れたそのとき、拓也は何者になっているのだろう。


『……しかし』
 拓也は思った。心から思った。
『俺は、無事に来世に到達できるんだろうか』
 冷めた紅茶をすすりながら、眇めた視線を送るその先。

 ――拓也を導くべき天使見習いララは、机に突っ伏して絶賛居眠り中であった。

 書類に向き合ってペンを走らせていたのは良かった。けれど次第にその頭が船を漕ぎ出し、ついに眠りの世界への突入に至ったのである。
 くうくうと無防備に眠りこける様はなんとも微笑を誘うが、それよりオマエ仕事中だろうと拓也は心から突っ込みたかった。この天使見習いの行く末は大丈夫なのだろうか。
 流石に起こしてやろうと思って手を伸ばしかけ、ふと拓也は思い止まった。幸せそうな少女を起こすことを心が咎めたのではない。それは、もう少し薄暗い思いであった。
『俺は来世で何になるんだろう』
 ララは教えられないと言ったが、気になるものは気になる。良心が痛んだが、拓也は暫く考えると、腰を浮かせてそっとララの下敷きになった書類を覗き込んだ。模造紙を半分に折りたたんだ程度の大きさがある書類には、象形文字のような不思議な文字が描かれている。ある程度予想していたが、日本語ではない。それにしても字の下手さは幼稚園児レベルだ。まさにミミズがのた打ち回った跡――いや、これ以上は何も言わないでおこう。
 眉を潜めて枠内の記載を凝視した拓也は、視線を横の分厚いファイルに移した。そういえば先ほど拾ってやったとき、日本語らしき文字の書類もあった気がする。
 流石にやめておけ、と胸の内が呟いた。けれど、足は円卓を回り込み、ファイルの前に赴く。

 ――どうせ自分は死んでしまったのだ。

 言い訳がましい考えだと、自分でも分かっていた。
 けれどルーゲンハーゲンは言った。天界の円滑な運営のために、例外なく命は天使たちに操られる。やがて拓也という存在は無に帰して、新たな生を受けるのだろう。
 消えるべき存在なら、この浅ましい想いでさえ残らないのだ。
 ならば――。

 部屋に音はない。拓也はファイルに指をかけ、恐る恐る開いてみる。華美な装飾のされた表紙は、僅かな重みと共に開かれた。音を立てぬように一枚一枚めくっていく。
 はじめの方のページにびっしりと穿たれた文字列は、きっと天使たちの規則が連なったものだろう。一文字たりとも読めはしないが、体裁を見れば分かる。消費者金融の注意書きレベルに細かなそれらは、読めといわれたら拓也でさえげんなりする量だ。ララは本当にこれらを読んだのだろうか。
 否。きっと読んだのだろうと拓也は思った。
 何故なら、その余白にはララの文字で注釈がしてあったのだから。
『ここ、だいじ』
『つぎのページのとまちがえないようにちゅうい』
『つまり、このことばはつかっちゃだめってこと』
『あとでせんせいにきく』
 何故か日本語で記載されたそれらによって、折角の緻密な書類はすっかり汚れている。けれど必死に書いたのであろうそれを笑える者が何処にいようか。
 拓也は眠るララを横目に、更にページを進めた。契約書のような紙が何十枚も続き、試験要綱に移る。そして最後の方に、突然気の抜けるページがあった。白紙に、ララの字で描かれた文章と絵。これは、日記だろうか。
『ララは、天使になりたいです』
 飛び込んでくる日本語に、拓也はじっと視線を注いだ。
『ララは天使になれるって、大天使さまがいってくれました。うれしい。ララはほんとうにお空をとぶ天使になれるんだ』
『ララが天使になれるわけをききました。びっくりしました。かなしいけど、でも、うれしい。だって、ララは、もういちど、た――』

「拓也さん?」

 心臓を直接触られた心地で、拓也は硬直した。
「たくや、さん……?」
 まるで現実を認識することを拒否するように、ララの二つの瞳が呆然と拓也を見上げている。
「あ……」
 言葉が何一つとして出てこない。取り返しのつかないことをした事実が、亀裂となってララの口を開かせる――。
「――っ!」
 哀しみと怒りを交互に浮かべたララは何かを言いかけ、そして拓也からファイルをひったくると、弾丸のように部屋を飛び出した。
「ララっ!?」
 焼けるような自責を今更ながらに覚えて、拓也は慌てて後を追う。
「わ、悪い! 悪かった!」
 無人の回廊をひた走るが、逃げる獣のように駆けるララからはみるみる引き離されていく。
 けれど、突然少女の体が弾けるように後ろに飛んだ。回廊が直角に交差する地点で、出会いがしらに誰かとぶつかったらしい。拓也は這々の呈で追いつくと、尻餅をついたララと、立ち止まった天使を交互に見た。ララは天敵に出会ったかのように固まり、我を取り戻すと、飛び上がるように立って頭を深く下げた。
「も、もうしわけありません、ロボ様」
「……」
 ララが衝突したのは、無骨な武人を思わせる体躯をした色黒の天使であった。黒々とした髪を後ろで束ね、目は鷹のように鋭く、笑みのない口元には近寄りがたい威圧感を湛えている。拓也はララを庇うこともできず、壁に手をついているしかなかった。
 ロボと呼ばれた天使は、冷たい眼差しで少女を見下ろした。
「問題でもあったのか、ララ」
「い、いいえ」
 ファイルを抱きしめたララは俯いたまま震えている。
「何処を見ている。魂から目を離すな、それとも試験に落ちたいか?」
「っ」
 ララは哀れなほど動揺して、更に更に身を縮めるのであった。
「もうしわけありません。気をつけます」
 まるでララのものと思えない、弱々しい声。拓也に一瞥すらくれず、天使はそうかと言って去っていった。
 拓也はどう声をかけたらいいか分からず、暫くララの頼りない肩を見つめていた。不意にその肩が揺れて、拓也は目を瞬く。耳を澄ませば、押し殺した息の音が聞こえてくる。――ララは、泣いているのだ。
「ララ」
 拓也は少女の名を呼びながら近付いた。拓也は知らない。ララの涙の理由を。拓也には分からない。ララが追う天使の責務を。それでも、その頭を撫でてやりたい。そのときは、はっきりとそう思ったのだ。
 けれどララはぱっと振り向くと、その足を後ろに下げた。
 音のない拒絶に、胸に杭を打ち込まれた心地であった。ミルク色の髪の下、強張った頬と細められた瞳が拓也のそれ以上の進入を拒んでいる。拓也はあげた手を、所在なく彷徨わすことしか出来ない。
「……戻りましょう。早く書類を書き上げないと」
 ララはぽつりと呟くと、拓也の目を見ずに脇をすり抜け、回廊を戻り始めるのだった。


 ***


 天界に夜が訪れると、辺りは真の闇に包まれる。明るいのは魂の集う建屋のみ。仰ぎ見る者を驚嘆させる高さを誇る支部の屋上に、ララは一人で立っていた。その背中に、翼はない。
 優しい色をした髪と服が、はたはたと風になびく。少女は夜の闇の果てをじっと見つめ、そして、恐怖を嗅ぎ取ったかのように自らの体を抱きしめた。
「ここは冷えるよ。ララ」
 ふいに音もなく降り立った天使がひとり。優しく少女を気遣うが、その顔を振り向かせるには至らない。
 けれど天使はそれを気にした風もなく、少女の隣に座り、稚い顔を覗き込んだ。少女の頬には、はらはらと涙が伝っていた。
「これは。こんないたいけな子を泣かせたのはどいつだい?」
 ルーゲンハーゲンはおどけた調子で言いながら、長い指でそっと頬を拭ってやった。全てを知りながらわざと問うその意地の悪さに、ララは服の裾を握り、唇を噛み締めた。
「ごめん」
 ルーゲンハーゲンも、すぐに自分の失言に気付いたようだった。ララの頭を撫で、視線を足元のファイルに落とす。
「大丈夫。ロボにはうまく誤魔化しておいたよ。あんなちょっとの失敗、ばれやしないさ」
「知られていたら、ララはもうここにいなかったんですね」
「けれどララはここにいるよ」
 流麗な天使は、力付けるように言う。天使見習いが持つ重厚なファイルは、その中に天使としてのあらゆる規則、規約、そして契約が記されている。それを死せる魂に見せることは罪であり、上層部の知るところとなればララはその場で落第させられていただろう。
「でもさ、ララもちょっと無用心だったね。魂は皆、来世の姿を知りたがる。何度も授業で聞いただろう?」
 ララは俯いたままだった。ぽたぽたと、床に水滴が落ちる。
「……とおもったんです」
「うん?」
 辛抱強くララの言葉を待っていたルーゲンハーゲンは、次の言葉を聴いて辛そうに眉を潜めた。
「拓也さんは、優しいと思ったから……だから、大丈夫だって、思ってたし」
 ララはしゃくりあげながら続ける。
「安心してたから……拓也さんのそばで、わたしは」
「ララ」
 ルーゲンハーゲンは、幾分か強い声でそれを遮る。
「ヒトは優しいだけのものじゃない。彼らはとても残酷だよ」
 無垢な少女に毒を注ぐことに、きっと天使には幾ばくかのためらいがあったに違いない。けれど、天使を目指す少女にとってそれは、避けて通れない道なのだ。
「拓也さんは違う」
 ララは拒絶する。ルーゲンハーゲンは危惧を覚える。強く真っ直ぐに天使を目指して歩んできた少女が最後の最後に犯す誤りの兆候を、長らく天使を務めた彼は敏感に察する。
「ララ。君は天使になるのだろう」
 立ち上がったルーゲンハーゲンは、ララの肩を掴んで自分の方を向かせた。ララは頬を張られたように目を見開く。
「その熱い魂を黒い炎で焼かれたくなかったら、思い出すんだ。さあ、思い出してごらん」
「――」
 ララの瞳が迷いに揺れる。それを一点に射止めるために、ルーゲンハーゲンは言葉を連ねる。
「天使条項一。私たち天使の責務は」
「た――魂を導き、次の命に繋げること」
「天使条項八。その為に私たちに与えられた権限は」
「魂と語る力を得ること。第二級立ち入り禁止区域までの、出入り。魂を――必要があれば、し、支配下に、置くこと」
「天使条項十二。私たちの具体的な職務」
「ひとつ。魂と語り、その穢れを祓うこと。ふたつ。魂に関する書面の作成」
「よろしい。よく言えたね」
 ルーゲンハーゲンはララの小さな体を抱きしめた。ララは鳩尾に顔を埋めて、嗚咽をこらえている。天使見習いに最後に与えられる試練は、残酷で、罪深い。乗り越えるには苦痛を伴い、失敗すれば死よりもおぞましい運命が待っている。死してやってくる魂たちに、きっと自分たちの慟哭など届きはしない。だから、こうやって互いの傷を舐めあって、天使は生きていく。
「明日から、また頑張れるね?」
 腹の辺りに頷く気配が伝わってきて、ルーゲンハーゲンは子犬のような少女の頭を優しく撫でてやるのであった。


 ***


 朝からなんとも落ち着かない気分だった。拓也は所在なげに部屋を往復しながら時間を潰していた。
 昨日は最悪に気まずい気分でララと別れてしまったのだ。しかもその原因は拓也の方にある。どんな顔を向ければいいのだろう。
『ララがきたら、まず謝ろう』
 昨日はごめん。いや、ちょっと軽すぎるか。誠に申し訳御座いませんでした。いや、自分はサラリーマンか。昨日のことは悪かったと思ってる。いや、その言い方は何様だ。
「おはようございまーす!」
「っ!?」
 悶々とテーブルの周りを歩き回ってるところに、太陽が注ぐような明るい声。ぎょっとして振り向くと、ファイルを両手に抱えたララが満面の笑みで入ってくるところだった。
「朝ごはん持ってきましたよ。ご飯と、お味噌汁と、卵焼きとー」
 ララはファイルを片手に持ち変えると、開いた手で配膳台をガラガラと引っ張り込む。それをテーブルの横に寄せて、きょとんと拓也を見上げた。
「どうしました、拓也さん」
「……」
 いや、どうしたって。
「おなか痛いですか?」
「ち、ちがう」
 拓也は顔を引きつらせながら答える。ララは頬に指を添えて首を傾げた。
「あ、でもよくあるって聞きますよ? 天界二日目って、なんか気分が落ち込んじゃうらしいんですよね。マリッジブルーになぞらえてデッドブルーって言うらしいんですけど」
「……嫌なネーミングだな」
「とにかくご飯にしましょうー」
 ララは楽しそうにテーブルに食器を載せていく。ホテル並みの洋風テーブルに和食が並ぶ様はなんとも奇怪だったが、味噌汁の匂いを嗅ぐと自然と胃が反応した。やはり日本人は和食である。
「よく和食なんか用意したな」
「えへ。天界は死者の皆様に快適にお過ごしいただくため、古今東西あらゆる食事が用意できるのですー!」
「……どんな天界だ」
 席につくと、ララも向かいに座る。一緒に食べる気らしい。けれど、箸に手をつける前に、言わなければいけないことがあった。
「ララ。昨日は悪かった」
「はい?」
 ララはきょとんと目を瞬かせ、拓也を見つめる。
「そ、その……勝手なことをして、ごめん」
 がばりと頭を下げて、拓也はララの返答を待った。だがそれも僅かの間。すぐに、あっけらかんとした声が返ってくるのだった。
「そんな、気にしないでくださいー! わたしも居眠りしちゃったから、おあいこです」
 顔を恐る恐るあげると、ララはいつもの笑顔を浮かべていた。
「ほら、ご飯冷めちゃいますよ。せっかく出来立てを急いで持ってきたんですから」
「あ、ああ」
 ララの振る舞いに奇妙なものを覚えながらも、拓也は小さく頷くのであった。
 しかし心はどこか曇ったままだった。昨日のララの絶望に染まった表情。心の何処かでそれが離れなかったのである。


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