その日、俺は死んだ。
 いや、死んでしまったのだ。本当に。悲しいが、それが事実だ。
 理由は大したことない。学校帰りに大型トラックに轢かれた。それだけだ。居眠りか飲酒か知らないが、すごい速度で突っ込んでこられた。あ、死ぬ、と思ったら本当に死んでた。笑えないが。
 しかしこんなんじゃ新聞の片隅にも載るかどうか。世の中騒ぐニュースには事欠かないから、俺の死など笑えるほど簡単に済まされるのだろう。ま、校長くらいは俺の葬式に来るんだろうな。それで言うんだ。明るく元気な子だったのに……お悔やみ申し上げます、と。ふざけんな。俺はあのハゲオヤジと会話したことは一度もない。そんなハゲに俺の何が分かるのだ。全く、世の中の建前ってやつはムカつくもんだ。
 とまあ怒っていてもしょうがない。というか、俺に怒る権利などないんだろうな。
 すいません。死にました。
 親には本当に悪いことをしたと思う。何事にも平凡な俺を、しっかりと愛情を込めて育ててくれた。泣いてるかな。申し訳ない。弟がいるから、家は寂しくならないと思うけど。弟にはその分しっかりやってほしい。いや、俺が言えた義理ではないか。
 暗い。ここは何処だろう。
 死んだらどうなるんだっけ。死んだときの痛みはなんだかあやふやで、今はどこも痛くないのだが。
 このまま目覚めたら天国で、ボインなお姉さまが薄絹まとって微笑んでてくれたら幸せだな、とか。
 そんな馬鹿なことを考えて、俺は闇の中で誰かに呼ばれるのを待った。
 声がきこえてくる。意識が引き上げられる。
 ゆっくりと目蓋を開く。光が飛び込んでくる。
 ……ああ。
 果たしてそこには美女がいたのだ。すげぇ美人。やべぇ。
 しかし、しかしだ。
 同時に微妙な気持ちにかられた俺の心情も察して欲しい。
 何故か。
 だってな。

 俺を起こしたそいつ、小学一年生くらいの小さな女の子だったんだ。







- つ ば さ を く だ さ い -







「ようこそ天界へ!」
 次第に覚醒していく意識が、笑う口元を明瞭に描き出す。ぼやけていたミルク色の滝が渦を巻く髪であるのだと知覚した瞬間、ふんわりと優しい香りが鼻をくすぐった。何処か懐かしい、安心できるそれは、いつかの記憶に引っかかって、えっと、なんだ――。
「……あの?」
 思い出の渦にたゆたう拓也を不審に思ったか、少女は不安げに眉を曇らせる。聞いているよという風に拓也が視線をあげると、彼女は意を決したように愛らしい唇を開いた。
「えっと、わたし、天使見習いのララといいます。今回、あなたの専属天使として転生手続きにおける導入説明から魂の浄化までを担当させて頂くことになりました、ご不明の点など御座いましたらなんなりとお申し付け下さいっ」
 天真爛漫、百点満点のスマイルは子犬のような印象。仰向けに横たわった拓也は、そうかと思って頷いた。
「うん、分かった。よろしく」
「……えっ?」
 ここは何処だろう。生い茂る若草に囲まれた、大樹の根元。天界とか言ってたっけ。マイナスイオン全開の空間はなんとも心地良く、しかもこんな愛らしい少女に起こされるなんて、確かに天界と呼ばずして何と呼ぼうという感じだ。そんなことを拓也が呑気に考えている横で、ララと名乗った少女(天使見習い?)は目を大きくして驚いた。
「あ、あのあのあのっ! びっくりしたりしないんですか? あなた死んじゃったんですよ? ここ何処ーとか思わないんですか!? わたし、そういうときの対応だってちゃんと勉強したんです、気とか遣わなくていいんですよっ!」
「……」
 ぼりぼりと頭をかきながら、拓也は体を起こして少女を見つめた。何故か必死の形相で掴みかかってくる少女。ミルク色の巻き毛を足元まで伸ばした様子はまさに毬球。ぽむぽむしたらさぞ心地良いに違いない。
 そんな美女の申し出なら仕方ないな、と思って拓也は息を吸った。

「わーーーっ!? ここは何処だーーー!!?」
 がばりと頭を抱え込んで悶える。悶えまくる。
「えっ、えええ?」
「俺はどうしたんだ! どうしてしまったんだーーー!!」
「えっと、えっと……こういうときの対処そのいち、相手を落ち着かせる! おおお、落ち着いて下さいっ! ここは天界です、あなたは生をまっとうしてここにやってきたんですー!」
「なんだーー! 俺は死んでしまったのかーー!? うおおーー!」
「ええっ……ええと、対応そのにっ! 事実をビシッと伝える! そうです、あなた死んじゃったんです! だからここで魂の浄化をですねぇ――」
「わーん、助けてくれーー!! 俺はどうなってしまうんだーーー!!」
「えっ、えっ、仕方ありません、対応そのさん、――相手を昏倒させる!」
「え?」
 不穏な単語にぴたりと動きを止めた拓也は、スローモーションで振り下ろされる広辞苑サイズの本を、見た。
 視界が真っ暗になった。


 ***


「……で、死んで早々、また死にそうになったわけだが」
「も、申し訳ありませんー!」
 再び目が覚めると、広辞苑アタックを仕掛けた少女がキュンキュン泣いていたものだから、拓也は怒る前に呆れてしまった。天使というよりも犬だ、これは。
「お前、本当に天使?」
「はい! 見習いですけど、ちゃんと天使なんですよー!」
 なんて一生懸命で、なんて晴れやかな笑みなのだろう。けれど、と拓也は眉根を寄せる。
「羽根ついてないぞ」
「見習いだからです」
 どう見ても幼児にしか見えない天使見習いは、ぺたんこの胸を得意げに張った。その背には、羽根はない。
「拓也さんを無事に来世に送り届けるのが見習いとしての最終試験なんです。これが終わったら貰えるんですよ。憧れの天使さまなんですよー!」
「ふーん」
 胡坐をかいて欠伸をした拓也は、顎に手をやった。
「んで、天使の見習いさん。俺はどうすればいいの?」
「はいっ! いくつか書類にサインしていただければと。窓口とのやりとりはこちらが担当しますので、その間拓也さんは部屋でごゆるりとおくつろぎ下さい」
「……ここは役所か」
「似たようなものです。大変なんですよー、届出だして来世の受け皿を探してもらって、出生準備の書類作って大天使様にショウニンしてもらって、やっと浄化の間へのご案内が許されるんです。亡くなる人は増えるいっぽうで、人手不足で苦労してるんですー」
「やけに世知辛い天界だな……」
 まるで現代日本における企業社会の悲哀をそのまま投射したかのような現実に、拓也はなんだか切なくなった。
「とにかく、来てください! ちゃっちゃとお仕事終わらせないとサテイに響くんですー!」
 天使に査定とかあんのか。
 そんなことを考えながら、小さな天使に手を引かれて立ち上がった。大型トラックにはねられた筈なのに五体満足、嗅覚も痛覚もある。だが、何故だか胸の内には己の運命に対する認識が、静かな現実として熱を放っていた。
 ――ああ。俺は死んだのだ、と。


 ***


「すげー」
 見習い天使ララに案内されて草原を歩いていくと、小高い丘の向こうに巨大な建造物を見つけた。アリクイの巣のようにいびつな形をした薄紫色の建物は、陽光を浴びて天を刺すように聳えている。
 麓には可愛らしい家が所狭しと並んでおり、それなりに活気付いてもいるようだ。前時代的ならではの温もりを感じさせる様相は、死した者への慰めなのだろうか。
「うん?」
 ふと空を見上げた拓也は、上空に鳥にしてはやけに巨大なものが飛んでいることに気付く。それは絵画でよく見たことのある、白衣をはためかせて翼を広げる天使たちであった。
 だが――。
「なあ、ララ」
「びくっ」
 器用にもそう口にだして驚いたララは、怯えた視線を拓也に向けた。
「……あいつらが運んでんの、人間じゃね?」
「ううう」
 唸るような答えを是ととった拓也は、手を目の上に翳して上空の天使たちを注視する。彼らは巨大建造物の窓辺から蜂のように四方八方に行き来している。そして戻りの天使たちの多くは、人間を羽交い絞めにして運んでいた。恐らくは死者をああして運んでいるのだろう。その為か、運ばれていくのは多くがお年寄りだ。
 丁度真上を天使に拘束されたおじいちゃんが運ばれていき、拓也は口元を引きつらせた。
「シュールだ……」
「あうあう、ごめんなさいぃ」
「なんでお前が謝る」
「本当はああやって天界本部にお越しいただくはずなんです。わたしが見習いなばっかりに、拓也さんに空中散歩を楽しんで頂けないですー!」
 ララはその場に泣き伏せた。
「いや、あれ、下手すると心臓麻痺起こす奴とかいるんじゃないのか」
 もう死んでいるからどうでも良いということなのだろうか。
 しかし高所恐怖症の人とか、相当怖いはずだ。しかも天使たちも天使たちで忙しいのか、運ぶ速度が半端ではない。たまに「あーれー」なんて声や恐怖の絶叫が聞こえてきて、薄ら寒くなる拓也である。
「元気だせよ、俺は歩く方が数万倍マシだ」
「うっうっ」
「それに俺を送り届けたらお前も翼がつくんだろ? 頑張れよ」
「あ。うう……はいー」
 弾けるように顔をあげ、えぐえぐと涙を拭いたララは、拓也の言葉に頷いた。
「お優しいんですね」
「女子供にはな」
 目の前の天使見習いが女に入るか子供に入るかは、神のみぞ知るところである。
「……拓也さんは、優しい」
 ぎゅっと目尻を強く拭って、ララは何かを吹っ切るように頷いた。
「頑張りますよ、わたし! 見てて下さいね、絶対にやりきってみせますからっ」
「ああ、楽しみにしてるよ」
 懸命なララを見て、苦笑する。こんな少女に黄泉の国を案内されるのも悪くなかった。
 それに、彼女の笑顔は天使以外の何物でもない。翼がないのが不思議なくらいだ。
 自分を来世に送ることでララが翼を持つ天使になれるのなら――。
 何故か胸が痺れたように感じられたが、拓也はそれをララの眩しさのせいだと思った。


 ララに連れられて、きのこの形をした家々を横目に巨大建造物へと足を踏み入れる。
 一階は巨大なホールになっていた。中の空気はひんやりとしており、耳が痛くなるような張り詰めた緊張に――。
 ――満ちてはいなかった。
「はい、はいっ! 二列に並んで下さい! 前の方と間隔をあけずに二列にーっ!」
「押さないで! 押さないでーっ! 受け皿は逃げたりしませんからーっ!」
 押し合いへし合いする死者たちを必死で誘導する天使たち。
 受付の向こうで馬車馬のごとく書類を捌いていく天使。鳴り響く電話と怒号。
 隅の方には『お手洗いはこちら!』と各国の言葉で書かれた看板がぶらさがっている。
 拓也は、なんだか気が遠くなった。
「……俺が中学のときに想像した天国は、こんなじゃなかった」
 こみあげてくる涙を必死でこらえるしかない。
「す、すみません〜。ここ、来世の魂の受け皿が決定した人に証書を配布するところなんです。ほら、みなさん、来世はどうなるのかって気になるみたいで」
「そりゃそうだろうがなぁ……」
 見せ付けられる現実に、切なくなる拓也である。
「拓也さんはまずお部屋に案内させて頂きます。どうぞこちらへー」
 ホールの狂騒から逃れるように、ララと拓也は端の方を歩いてエレベーターらしき乗り物に乗った。
「なんだ、都合のいいところだけ現実的だな」
「足腰の悪いお年寄りが多いからですー」
「……もう夢を壊さないでくれ」
 拓也は顔を手で覆った。エレベーターは無情にも耳鳴りと共に階上へと昇っていく。
「つきました! 38階、ここが拓也さんに待機して頂くお部屋の階です」
 分厚いファイルを大事そうに抱えたララが先導していく。足元は上質な葡萄酒色のカーペットが布かれており、壁には風景の絵画。まるでホテルのようだ。
 狭い歩幅で必死に歩いていったララは、通路を曲がった先に背の高い天使を見つけて目を輝かせた。
「ルーゲンハーゲンさん!」
「お。よくできたみたいだな。お帰り」
 ララは一気に駆け寄っていって、待ち受けた天使の腕の中に飛び込んだ。
「やりました! 一人でご案内できましたよー!」
「うむうむ。愚直なまでに単調な練習の成果だな、私は嬉しいよ」
 そうララの頭を撫でるのは、流麗な男性の天使であった。動くたびにさらさらと揺れる巻き毛の銀髪、冷たくも魅力的な赤い瞳、微笑みを湛えた口元。長くしなやかな指、細くも男性らしい体躯。
 ――俺よりイケてる。
 拓也は出会って三秒で敗北感に苛まれた。
「彼が始めてのお客さんか。いらっしゃい、ようこそ天界へ。いや、お疲れ様、と言った方がいいかな」
 余裕のある微笑みを向けられ、拓也は己が死者であることを思い出した。
「……あんまり、人生をまっとうした気がしないんですけど」
 胸の内に、痛みや苦しみ、寂しさといった感情はない。奇妙なほどに、死んだときの記憶が曖昧なのだ。
 するとルーゲンハーゲンと呼ばれた天使は、ぞっとするようなことを唇に乗せた。
「そりゃね。天界の運営に不都合な記憶や感情はいじらせて貰ってるから」
「っ?」
「る、ルーゲンハーゲンさん! それ言っちゃ駄目って先生に言われたことですー!」
「なーに、頭のカタい連中の言うことを一々守ってたらキリがないよ、ララ。それに、物分りの悪い子でもなさそうだ。なあ、拓也くん?」
 自分の名前を知られていることに、拓也は何故かぎくりとした。ルーゲンハーゲンは軽薄な表情を湛え、はらはらと手を振る。
「さ、立ち話もなんだ。部屋に入ろうじゃないか。ララ、ご案内して差し上げなさい」
「ルーゲンハーゲンさん、お仕事は?」
 ララの顔を覗き込んだルーゲンハーゲンは、真理を告げるかのごとく言った。
「仕事はサボるためにあるものだよ、ララ」


 ***


「……あの、記憶をいじられてるってのは」
「う、うー」
 拓也はルーゲンハーゲンに問いかけたつもりたったが、ララの唸り声を聞いてそれ以上強く言うことが出来なかった。
 案内された部屋は現代人に配慮された作りになっており、(ララ曰く「天使たちの日夜の努力の賜物」らしい)設えられたテーブルには紅茶が湯気を立てている。
 翼を器用に曲げていじっていたルーゲンハーゲンは、拓也の方を見ずに薄く笑った。
「死者は多かれ少なかれ生前に未練がある。そんな死者たちにむずがられては、こっちも仕事にならないからね」
「うー、それはキミツジョーホーって先生がー」
「ここに来る前に、君は既に仮浄化を受けている。面倒な記憶や感情が排除されているということだ」
「ジョウホウロウエイがー。天界のイシンがー」
 ララは頭を抱えて唸っている。
「……それって、洗脳みたいなものですか」
 困惑と苛立ちが、拓也の声を低くする。記憶と感情を統制されているのだとしたら、ここには人権などあったものではない。
「家畜並じゃないですか、俺たち」
「家畜の命も、君たちと変わらぬ命だよ。拓也くん」
 流し目を向けられて、拓也は口を噤んだ。
 目の前にいる天使は、人ではない。人の上に君臨するものだ。ならば、人が家畜を扱うのと、彼らが人を家畜として扱うのはさして変わらない。被食者は無知で無力だ。いつだって。
「ここは天界の霊長類ヒト科支部。支部は生命の種類だけ存在する。組織の円滑な運営に、例外は認められない。ヒトは特別ではないのだよ」
「拓也さん!」
 青褪めた拓也の腕を、幼い手が掴み取った。ララだ。幼い塊は、その腕にしがみつくようにして顔を寄せた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。あなたの大切な魂、傷つけてしまいました。許して下さい……でも、ちゃんと導きますから。最後まで、お供しますから」
 上げた表情を歪めたかと思うと、大きな瞳に激情を宿してルーゲンハーゲンを睨む。
「ルーゲンハーゲンさん、言いすぎです! 拓也さんに嫌な思いさせないでください」
 瞬き一つせずにルーゲンハーゲンは怒りを受け止めると、不意に唇を歪めた。
「――ごめんごめん。ララが初めて担当するお客だからさ、からかいたくなっちゃってね。ほら、拓也くん。大丈夫かい?」
「……」
 拓也は張り付いた唇を開くことが出来なかった。天使たちの会話が、薄膜の向こうにあるもののように感じられた。
 ここは、天使が支配する天の世界。死者に与えられる権利など、なきに等しいのだ。
「くす。私はお邪魔なようだね。ララ、死者の心理管理も天使の大切な仕事だ。傷ついた彼の心をしっかり見守ってあげなさい」
「る、ルーゲンハーゲンさんが変なこと言うからいけないんじゃないですかー!」
「だって、初めの拓也くんのままじゃ、最終試験に際して簡単すぎるからね。これも君の為を思ってのことだよ――天使の仕事は楽ではないのだから」
「う、ううー……」
 肩をいからせ、子犬のように唸ったララは、膝の上で拳を握る。言いたいことはあるが、先輩の言うこともよく分かっているという顔であった。
 ルーゲンハーゲンは愉しげに笑いながら窓を開くと、そこからひらりと翼を翻して姿を消した。
 暫くは気まずい沈黙が落ちたが、ララはわざとらしく大きな声で宣言した。
「じ、じゃあ拓也さん! すぐに書類作って、ちゃちゃっと来世に行っちゃいましょう」
「……」
 拓也は自らの胸に手をやった。そうだ、もう自分は死んでいる。ララの言う通り、本物の命として生きるには来世に向かうしかないのだろう。
 ララは泣きそうな顔をしていた。きっと、拓也のことを案じているのだろう。何事にも一生懸命な少女なのだ。そう思うと打ち沈んでいるわけにもいかず、拓也は無理矢理笑みを作った。
「ああ。そうだな。――それで、俺はどうしたらいい」
「は、はい!」
 ララは一度ぎゅっと目を閉じて、それを開くと、テーブルの上の分厚い本を手にとった。出会ったときに拓也を昏倒させてくれたものである。よくよく見ればそれは巨大なファイルで、中には書類がぎっしりと詰まっていた。
「えーと、まずは何枚か申請書を……きゃうっ」
 ララの華奢な腕には重たそうだと思っていたら、案の定ララは止め具を外した弾みにファイルを取り落とした。ばさばさと散乱する書類を見て、拓也は顔を手で覆った。
「……こんなの天使にして大丈夫か、天界」
「ご、ごめんなさいー!」
 涙目でララは床に這いつくばり書類を集める。やれやれと思いながら、拓也もそれを手伝ってやった。
「うん?」
 ふと、それらの何枚かに目が留まる。規程書なのか、細かい文字がびっしりと刻まれた紙である。その余白には、なんとも気の抜けるイラストが描かれていた。クレヨンで描かれたそれは幼稚園児並の下手――いや、前衛的な画風で、花(らしきもの)や太陽(のようなもの)、人間(に見える)が犬(多分)と散歩している姿等々。
「オイ」
「き、きゃあ!? 駄目です、それは見ちゃ駄目なのですーーー!!?」
 顔を真っ赤にしたララは狂乱して拓也に飛び掛り、書類をひったくった。そのままずざざっ、と後ずさって涙目で拓也を睨む。
「これは乙女の秘密なのですーー!」
「落書きはいらない紙に描けな」
「ちっ、違うんです! そ、その、授業があまりに眠くて、つい」
 もじもじするララを見て、拓也は本気で天界の未来を心配するのだった。

 ようやく目的の書類を出して貰って、拓也は眉を潜めながら目を通した。書類にはプライバシーもへったくれもない拓也自身の個人情報が記載されていたのである。父の名前、母の名前。親戚の職業。住所、学校。それを確認すると、拓也は下部の規程欄に名前を書いた。これで、自分の人生はこの紙に書いた通りであったことが本人によって証明されたことになる。
 その間、ララは唸りながら大きな申請書に向き合っていた。細かい枠がびっしりと並んでおり、全て埋めるのは骨が折れそうだ。魂を来世に送るのも、中々簡単ではないらしい。
「えーっと、拓也さんは十七歳だから、ここは書かないでよかった筈……うーん、確かここはこう、……こんな感じでいいかなあ」
 『筈』『確か』『こんな感じ』。並々ならぬ不安を誘う単語を耳にしながら、拓也は無事来世に行けることを心から祈った。
「そういえば俺はどんな来世になるんだ? 次も人間か?」
「はうっ?」
 ララががばっと顔をあげる。集中していたことに気付き、拓也は少しだけ罪悪感にかられた。
「い、いや。俺の来世はどうなのかと思って」
「ああ、来世ですか」
 ララは眉を下げて、困ったように笑った。
「ごめんなさい、それを教えることは出来ないんです。生まれてみてのお楽しみです」
「……そうか」
 拓也はすぐに引き下がった。ここで来世はミジンコですと言われたら、人によってはキレるかもしれない。ならば最初から教えない方が本人のためだろう。
 けれど、来世に行ってしまえば拓也の記憶は消えてしまう。自分が何者であったか、思い出すことはない。今の拓也が、前世の記憶を持たないように。
 そう思うと不思議であった。きっと拓也が生まれる前、何処かで生を終えた自分の魂はここで浄化されたのだろう。そして、記憶は書類に封じ込まれて消えてしまった……。
 拓也の記憶も、じきになくなってしまう。
 不意に悪寒を覚えて、拓也は俯いた。書類作業を再開したララは、懸命に羽根ペンを走らせている。
 ありふれた人生であったが、嬉しいことも、悲しいことも、大切な思い出が沢山ある。それらを忘れて、自分は何になってしまうのだろう。
『世界の生命の種類って、どれくらいあったっけ……。それぞれの割合は』
 具体的な数字は出てこないが、地球上の生命体の八割が昆虫類という話は聞いたことがある。すると、八割の可能性で拓也は六本足の生命体になるのだ。
 もしかすると、『人間』になれるというのは、ゼロに近い確率の先に至る奇跡なのかもしれなくて。
『俺は……何になるんだろう』
 すっかり冷めた紅茶で口内を湿らせて、拓也はララの横顔を眺めた。まさに天使になるために生まれてきたような、あどけない顔立ちは、何処かで見たことがある気がした。
『何処かで?』
 拓也はつと眉を潜める。そうだ。とりとめもないことを考えていたからだろうか、膨らんだ思考が忘れ去られた記憶に触れたような感覚がある。
 けれど、何故だろう。薄布が張られたように、ぼやけた影の先を見ることは叶わない。声を出せばその存在すら霧散してしまいそうで、拓也はぐっと考え込んだ。
 ララはミルク色の髪の下に大きな茶色の瞳を細め、眉を吊り上げて書類と睨みあっている。健康的な手足を覗かせる服は天使らしいゆったりとした白衣。そこに凹凸はまるでなく、豊満という言葉から程遠い体つきだ。特に胸板。
「貧しき者は幸いである。天の国は彼らのものである――」
「はい?」
 拓也は気が付けば煩悩にふけっていた自分の有様に、力なく首を振るのであった。
「いや、天の国はきっとお前のものだ」
「ふえ?」
 ララはしきりに首を傾げている。拓也は心に爪を立てられるような感覚を覚えながらも、その正体を見極めることが出来ないのであった。


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