騎士殿の手紙


 夜がふけるころになっても、部屋の様相は変わらなかった。
 窓の外には、月明かりのあたる寂れた町並み。時折、砂を含んだ風が吹き抜けている。気温は、かなり下がっているようだった。厚手の毛布をかけられたラケシスは、宵闇の中で寝息を立てている。

 ひとつ変わったことがあるとすれば、彼女のすぐ脇で椅子に掛けていた騎士の位置だ。
 彼は、部屋に備え付けられたテーブルに向かっていた。
 テーブルには、何枚かの羊皮紙と開けられた墨壺。そして手袋をとった彼の指には、ペンが収まっている。

 ――ただし、その姿勢のまま、フィンは何時間も動けずにいた。


 セイラムに手紙を書くよう勧められたことを思い出したのは、夕刻になってからだ。

 ――淀んだ心のうちから言葉を拾い出して文字として刻む。
 ――そうすることで、自分にとっての真実が見えてくるように思えるのです。

 彼の言葉の正しさは、わかる。そして自分の心に向き合う大切さも。

 しかし、彼女になにを伝えればいいのだろう。
 謝罪だろうか。感謝だろうか。いいや――それらは上っ面の心情を並べることにしかならない。

 では、なにを?

「…………」

 まんじりともせず白紙と睨み合っていたフィンの頭に天啓が降ってきたのは、夜半が過ぎてからだった。

 もしラケシスが目覚めたなら、まず外界の変容に驚くはずだ。彼女の中では、リーフもナンナも、年端も行かぬ子供でしかなく、世情の認識もターラを出た当時のままだろう。
 まずは混乱を解いてやるのが、話し合いをするにあたって上策であるようにフィンには思えた。

 そうなれば、とフィンは紙にペンを走らせた。

 はじめに現在の日付。ラケシスの身に起こったことの説明。セイラムやサラとともに迎えにきた経緯。
 そして、ターラでの別れから自身に起きた出来事を、フィンは淡々と文字にして刻んでいった。

 ターラ公爵の壮絶な最期。リーフとナンナを連れて落ち延びた先にあった、悲惨な旅路。疲弊した先で出会った、フィアナ義勇軍の面々――。
 レイドリックにナンナがさらわれ、リーフが挙兵を決意してからの、怒涛の道のり。世界を巻きこんで勃発した解放戦争について。そして、アレスとデルムッドとの邂逅。リーフとナンナの婚姻の件も忘れてはならない。
 また、彼らが作り出した新しい国、そして新しい世界のこと――。

 情報に過不足なく、間違いも許さず、長い時間をかけてそこまで書き上げたフィンは、ようやくため息とともにペンを置いた。
 自分で書いた文章を、改めて読み返してみる。

 そこには、端正な文字と明瞭な言葉遣いで刻まれた、完璧な「報告書」が存在していた。

「…………」

 髪の中に指を差しこんで、考えこむ。なぜだろう。これをリーフやナンナに見せたら、確実に顔を覆われ、しみじみと嘆かれる確信がある。
 足りないものは――わかりかけているのだ。
 息を吸い、もう一度、ペンをとる。

 だが、いつまで経っても手が動かない。

 さまよう視線は、気がつけばラケシスの元へ向かっている。いまだ目を覚ます気配のない、宝石のような女人へと。
 同時に胸に去来するのは、鈍色の罪悪感だ。
 いつか誓った自らの有り様から目を背ける、罪の意識。

 ――いいや。違う。

 本当は、未だに追いたいのだ。遥か遠くを駆ける、強く気高い主の後ろ姿を。
 なにも考えずに。なにも迷わずに。彼が振り向いて微笑んでくれることだけを祈って戦う。なんと幸福なことだろう。

 そんな生き方が許されるのは子供のうちだけなのだと、フィンは気づいている。
 なのに、抜け出せなかった。常人がみな大人になって立ち去っていく中、自分だけが膝を抱えてその場に留まった。そんなものが人の道でないと理解しながらも、誘惑の甘さに、自分は勝てなかった。

 長い間、時を止められていたのは、彼女ではない。フィン自身だ。

「……キュアン様」

 主の名は、いまもフィンの心の裡でほのかな輝きを保っている。
 長い旅路の果てに、傷つき、すり減って、霞んだ主君の残像を、フィンはひとり想う。振り払わねばならないものとして、主君の影がそこにある。

 だれにも寄りかからずに生きる恐ろしさが、すぐそこまで近づいてきている。
 だれもがそうして生きているのに、フィンだけがそうなれなかった。
 いびつに時を止めて戦って、その先で、再び己の生き方を変えるなど。この心は、耐えられるのだろうか。

 時間は、無言のうちに刻まれていく。何度も何度も手紙とラケシスとで意識を往復させてから、ようやくフィンが続きの一文を書き出したのは、東の空が白みはじめたころであった。
 しかし、一行を書いたところで再びペンが止まってしまう。どうしても先は続かない。心が、その先に辿りつけない。

 失意とともに、フィンは首を振り、ペンを置いて立ち上がった。太陽の高さを見るに、もう出立の準備をしなければならない時刻だ。
 ラケシスがいまだ眠りについていることを確認すると、手紙を机に置いたまま、淀んだ目でフィンは部屋を辞した。



 フィンが向かった先は、厩だった。旅中に連れていた馬に、この道中では馬車を引いてもらっている。世話は、自身でする必要があった。

 騎士として戦っていたころは、馬の世話は見習い騎士たちに任せていたが、いまは自分でやるほかない。ただし、年若いころに、身体に染みつけた作業でもある。
 朝の冷えた空気の中、フィンは自分の馬に挨拶をしてから、さっそく世話に取りかかった。よどみなく、ひとつひとつの工程をこなしていく。

 つと、自らの前髪が揺れた。フィンは刷子を動かす手を止め、厩の窓に顔を向けた。
 木枠がはめられただけのそこは、風が通るままになっている。
 窓の外には、夜明けから間もない薄色の空に、細い雲がたなびいていた。砂漠の地平線の先から顔を覗かせた太陽は、惜しみない光を大地に注いでいる。

 なぜだろう。 
 こんな景色は、いままでに何度でも見たというのに。

 いつぶりだろう。
 世界を見て、美しいと思ったことなど。



 ――どこまでも澄み渡った朝に、陽光を受けて輝く大気のような。
 ――彼女はまさに、そんな人でした。



「驚いたわ。わたしより早い人がいるなんて」

 風が、ふたたび吹きこんだ。
 清涼な優しさといたわりとともに、フィンの髪を揺らした。

 厩の入り口。砂っぽいそこに、輝くばかりの女性がひとり。
 その手に、夜中にしたためられた手紙を持って。
 ハシバミ色の瞳を大きく開いて、こちらを見つめている。

「――」

 あのときと同じように、フィンはその場で彼女を凝視してしまう。乾いた唇は、動かない。
 ただ、呆然と、通路に進み出る。

 ふたりのはじまりの聖域へと、進み出る。

 ラケシスが持った手紙が、風に揺れている。びっしりと刻まれた文章の中で、そこだけ段分けされた最後の一文が、陽光に照らされていた。

 そこには、ただ、一言。


『はじめてお会いしたときから、あなたのことが好きでした』


 それは、はじまりの出会いから時を止めていた、彼の精一杯の心だった。
 罪と恥とともに懐に抱え、何度も消え入りそうになった、原初の想い。

 どうしても伝えられなかった。伝えれば、すべてが壊れてしまうと思っていた。

 そうして、遠ざけ、引きずり、自ら傷をつけ、しかし捨てることだけはできずにいた。
 そんな鈍色の心が、いま。

 ざり、と足が砂を咬む。
 一歩、また一歩と、彼女に近づいていく。

 ラケシスは、足音もなく進み出てくる。
 至近距離までくると、彼女はそっと手を伸ばしてきた。フィンの胸に触れ、頬を撫でる。

「あなた、ぼろぼろだわ」
「――」

 ラケシス様。名を紡ごうとしたが、乾ききった喉は動かなかった。
 そんなフィンを見て、ラケシスが笑う。瑞々しく、胸を解きほぐすように。

 彼女にそのまま抱きしめられたとき、それまで背中に感じていた数多の視線が、ふと遠のいていくのをフィンは感じた。自身の有り様を縛っていたいくつもの糸が切れていく。
 ――もういいよ、と、リーフの声が、耳の中で木霊する。

 そのとき、頬に触れた金髪の向こうに、かつての主君の姿が見えた。
 吹きすさぶ風の中、青空の元で笑みを湛えた、力強いその姿が――ゆっくりと背を向け、彼方へと歩いていく。隣に、愛らしい妻を伴にして。

 名を呼びそうになる。共に連れて行ってくれと。心が、最後にひとつ震える。

 しかし、彼を此岸に引き止めた手があった。
 ラケシスの細い腕が、しっかりと彼を抱きとめていた。

 瞳が震える。頬がゆがむ。唇を噛みしめる。
 そうしてフィンは、伸ばしかけた手を、ラケシスの背に回した。
 血の通った生者の、あたたかな背に。

「――行かないでください。もう、どこにも」
「ええ」
「私を、ひとりにしないでください」
「ええ」

 言葉とうなずきが、胸の中まで落ちていく。
 ただそれだけの事実が、心から溢れそうなほどの想いを呼ぶ。今を生きる者にしか持ちえない想いを。

「ラケシス様」

 フィンは唇をラケシスの耳元に寄せた。

 そして、手紙の最後の一文を、もう一度、言葉にして囁いた。

 長い道のりの果て、己の心を解き放つ、その一言を。


 続きの話
 戻る