再会


「サラ様、足元に気をつけてください」

 セイラムの注意にも構わず、サラはすたすたと急な階段を降りていってしまう。慌てて後を追うセイラムの後ろで、フィンはサラのつぶやきを聞いた。

「時が止まった場所って、こんなにも気が淀むのね。息ができなくなりそう」

 石造りの狭い階段では、小さな声でも幾重にも反響して耳に染む。先頭に立ったサラが進む先は、ぽっかりとした闇が続いている。

 イード砂漠の片隅に残されたロプト神殿の隠し通路である。ロプト教の崩壊により人が去って久しく、空気は確かに淀みきっているように思えた。
 階段が途切れると、短い通路の先に巨大な空間が広がっていた。

「――これは……」

 セイラムが、うめきともつかない声をあげる。持参した松明に照らされたそこには、禍々しい祭壇を取り囲むようにして、数百に及ぶ石像が埃をかぶったまま並べられていた。這い回る闇と、漂う饐えた臭いとが相まって、まるで地獄のような様相であった。サラも、不快げに鼻にしわをよせている。

「石像を生贄として捧げる話は聴いていましたが、まさかここまでの数とは……」

 フィンは黙ってセイラムの隣を通り過ぎると、階段を上って、石像に当たらないように注意しながら通路を歩いていった。
 そして、――とあるひとつの石像の前で足を止め、向き直る。

 痛ましい姿で時を止められた人々の中で、ひとりだけを特別扱いすべきでないことは知っている。しかし、まずはじめに安否を確認せずにはいられなかったのだ。

 遠いその名を、喉の奥でつぶやく。フィンの眼差しの先には、勇ましく敵に立ち向かうひとりの女性が冷たい身体をさらしていた。はじめて発見したときにかけたフィンのマントが、肩から垂れたままになっていた。それでだれにも触れられなかったのだとわかり、フィンは人知れず胸を撫で下ろした。

「その方が、お知り合いなのですね」
「――はい」

 下の通路からのセイラムの声に返事をしながらも、フィンは彼女の顔から視線を離すことができなかった。

 ついにこの日が来たのだという思いは、ある。
 だが彼女を前にして、なにを言えばいいのだろう。十年以上前にターラで別れたときから、自分はなにひとつ変わっていないように思える。いや。違う。

(私は、この槍をいただいた日から、変わることをやめてしまった)

 ただ主君の信頼と笑顔が欲しくて、消えることのない居場所が欲しくて、揺るぐことのない生きる理由が欲しくて。
 他にはなにもいらないと、心に信じこませた。

 ――そのまま、壊れてしまえばよかったのに。
 フィンは、自らの唇に指で触れる。

 虚無の深淵で最後に心を繋ぎ止めてくれていたのは、この人の存在だった。
 翻弄されながら、苦痛に苛まれながら、人として生きることを、はじめに教えてくれたのは彼女だ。

 フィンの有り様を縛る数多の死者の視線は、未だ後方からフィンを監視している。亡き主君の、夜空の元で、あるいは朝焼けの下で、自分を見返す力強い瞳は、未だ宝石のように輝いて誘惑する。
 そんなフィンに、リーフは、己の足で歩けと言った。
 だが――。

 心を捧げたものたちに、背を向けてもいいのだろうか。

 手を、離してしまってもいいのだろうか。

(……わからない)

 心はいまだ揺れている。セイラムからもらった羊皮紙は、白紙のままだった。

「――よろしいですか、サラ様」
「いいよ、さっさとはじめましょ」

 セイラムからキアの杖を受け取ったサラは、祭壇を静々と上っていく。
 祭壇の前に立つと、祀られた邪悪な竜神の偶像を興味なさそうに一瞥し、杖を水平に捧げ持つ。

 と、ゆるりと瞼が下りた。蕾のような唇が短い詠唱を口ずさむと、杖と彼女自身が燐光に包まれる。

 怨嗟に満ちた黒い闇を解きほぐす清浄な光が、奔流となって流れだした。
 サラが杖を垂直にして掲げると、光の流れが渦を巻いて強さを増し、広大な部屋のすべてを包みこむ。

 それでもフィンは、神秘の中心にいる少女ではなく、目の前の物言わぬ石像に眼差しを注いでいた。彼の意識は、そこに縛られていた。はじめて見つけたときは、触れることすらできず、マントだけをかけて立ち去ってしまったそこに。
 彼女を前にして、なにを言えばいいのだろう。
 こんな自分を見て、彼女はなにを言うだろう――。

 石像の群れに光の嵐が降りかかる。彼らを覆っていた禍々しい呪いが、次々とほぐされ、光の中へと溶けていく。
 固く強張った四肢に肌の色が戻り、その皮膚の奥に生の脈動が蘇り、――止まっていた時が。

 時が、動き出す。

「――ラケシス様!」

 意図せず、喉の奥から声が迸った。
 艶やかな金髪を広げ、倒れてくる女人を抱きとめる。

 周囲でも、一斉に石化から解き放たれた人々が、ひとり、またひとりと地に倒れ伏す。
 セイラムが、サラに駆け寄った。玉のような汗をいくつも額に浮かべた彼女の手から杖が離れ、からりと音をたてて転がる。

「……つかれた。すこし、眠るわ」

 それだけつぶやくと、サラは意識を手放した。へたりこむ彼女の汗を、セイラムは心配そうに布でぬぐってやる。

 だがフィンに、それらを認識する余裕はなかった。
 腕におさまった彼女の顔は、ターラで別れたときのままだった。壊れてしまいそうなほど細い四肢も。長い睫毛も。気高い面立ちも。やわらかそうな肌も。桃色の唇も。あのとき――舞踏会で見た姿と、なにひとつ変わっていない。
 どうしようもない自分の一言に、その言葉で十分だと涙を湛えて笑ってみせた、あのときと。

「ラケシス様……ラケシス様!」

 腕の中の彼女を揺り動かすが、反応はない。

「フィン殿」

 セイラムに肩を掴まれ、ようやくフィンは我に返った。

「エーヴェル殿のときもそうだったでしょう。石化が解けても、意識を取り戻すまでには時間がかかります。いまは、打ち合わせ通りにお願いします」
「――」

 エーヴェルの石化を解いたときも、すぐには彼女は起きなかった。リーフとマリータの呼びかけと介抱で、ようやく目を覚ましたのだ。
 心が異様に乱れていることを自覚し、フィンは愕然とした思いにすらかられた。冷静でいられない部分が、己の中にまだ存在している。一度だけ目を閉じ、そして開く。

「――見苦しいところを見せました。参りましょう」

 マントごとラケシスを抱き上げると、フィンは立ち上がった。同じようにサラを抱いたセイラムがうなずく。
 辺りには石化を解かれた人々が伏し、足の踏み場もないほどになっている。ふたりは彼らを起こさないように注意しながら部屋を脱出し、予め決めていたとおりに神殿の表にある鐘を鳴らした。
 鈍色の鐘音が、イード砂漠に響き渡る。近くのオアシスの街にも、きっと届くであろう。あとは訝しんだ人々が神殿を訪れれば、目を覚ました人々と鉢合わせになるはずだ。一連の出来事はすべて『神の奇跡』として片付けられる手はずになっていた。

 フィンとセイラムは、オアシスから来る人々と顔を合わせないように街道を外しつつ、小さな集落に宿を借りた。
 窓際の寝台に横たえられたラケシスは、半日が経っても目を覚まさなかった。

「石化していた期間が長かったためでしょう。現在の時の流れに身体と心がすぐには適応できないのです」

 彼女の診察を行ったセイラムはそう結論付け、脈をとっていた彼女の腕を掛布の下に戻した。そうしてフィンを振り仰いで、眉をわずかに下げる。

「――大丈夫です。じきに目を覚ましますよ」

 不安な気持ちが表情に出ていたのだろう。フィンは短く返答して、椅子に腰を下ろした。目の前で彼女が呼吸をしている事実が、いまだに現実感を持たない。放り出された寄る辺のない感情だけが、胸中を巡っている。

 そのとき、ノックもなしに戸が開き、サラが胡乱げに覗きこんできた。まだ、顔色が悪い。あれだけの人数に向けて杖を使ったのだ。体調がすぐに戻らないのも、当然だった。

「セイラム。甘いものが飲みたいわ」
「あっ――はい。では、女将に言って紅茶を淹れてもらいましょう」

 セイラムが腰を浮かし、こちらに会釈をしてから踵を返した。すると、サラと視線があう。
 顔だけを出したサラは、瞬きをしてから寝台の様子を一瞥した。それまで不機嫌そうに眉を潜めていた彼女が、そこで、つと表情を和らげた。

「――よかったね」

 人形のような顔にかすめた、やわらかな笑み。こちらが反応する前に、彼女はさっさと引っこんでしまう。
 後を追うセイラムに戸が閉められてからも、フィンはしばらく動けなかった。

 そうして、ようやく、緩慢な動きで首を戻し、寝台に――ラケシスに向き合う。

 彼女に視線を落とし、腿に両肘を乗せて頬杖をつく。
 その姿勢のまま、長い旅路を経た槍騎士は、静かに乱れる思想の渦に埋没していった。


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