単騎駆け すぐそばから、荒い呼気や唾を飲む気配、そして激しい鼓動が聞こえてくる。 (フィン、どうして……) ラケシスが混乱する間にも、フィンは次々と襲いかかる敵を屠っていく。 彼の槍さばきは、キュアンに目をかけられるだけあって、すさまじいものだった。馬上からだというのに、槍の切っ先が魔法のように寸分違わず敵の喉笛を突き刺していく。 (わたしが望んだから? でも、彼はわたしの誘いを断ったのよ) 思わぬところで叶った早駆けは、血と泥と汗の舞う地獄と化していた。 (なら、どうして? どうしてわたしを助けてくれるの……?) そのとき、がくんと身体が下がった。森林地帯を抜け、馬が急勾配を降り始めたのだ。 投げ出されそうになった途端、槍から片手を離したフィンが腰に腕を回して支えてくれる。その力の強さに、ラケシスはどきりとした。男性とともに馬に乗るのは、兄以外では彼が初めてだった。 鼓動が早くなる理由は、もはやわからなかった。兄を思う気持ちからか、死線をくぐる恐怖からか、それとも――。 「ラケシス様。兄君があちらに」 「えっ……」 ぐるぐると回る思考は、フィンの一言で霧散した。 ラケシスは、全身から熱が吹き飛んでいくのを感じた。 すでにクロスナイツとレンスター軍の会戦は始まっていた。前列の軍勢が激しくぶつかり、もうもうと土煙をあげている。 そこへ、北側から突撃してくる一軍があった。青くはためく鷲の旗は、シアルフィ家のもの。シグルド軍本隊の戦旗だ。 そしてクロスナイツの布陣する丘の上にひるがえる、黒に金の縁取りをほどこした獅子の戦旗。その麓で堂々と戦況を見下ろす、エルトシャンの勇姿――。 「……にいさま」 ひきつれたつぶやきは、届くはずもない。 だが、まるでそれを合図としたように、エルトシャンは激しい身振りでシグルド軍を指差してなにかを叫び、自ら剣を引き抜いた。 その漆黒の剣肌が現れた瞬間、太陽すら陰ったように思えた。 魔剣ミストルティン。一度抜けば、人の血を吸わぬでは鞘に戻らぬと謳われる滅びの剣。十二聖戦士の一人、黒騎士ヘズルが再誕したような禍々しさであった。 この魔剣の恐ろしさを知るからこそ、ノディオン王家は自ら盟主の地位を望まず、騎士の役目に甘んじてきたのだ。 「嫌、嫌。にいさま……!」 二方向から攻撃を受ければ、名望を集めるクロスナイツといえどひとたまりもない。なのに、兄は戦おうとしている。黒騎士の末裔として、最後の戦いに臨もうとしている――。 「だめぇっ!! 兄様! お願い、兄様のところに連れていって!!」 後から考えれば、それがどれほど自分勝手な願いだったか。だが、ラケシスはすでに冷静さを失っていた。 そして、彼女の後ろで呆然と戦況を見渡していた青年も。 まだ見習い騎士にしか過ぎないその瞳に、迷いと衝動を交互に掠めさせ、そして覚悟を決めたように唇を噛み締めた。 「参ります」 フィンは、低く、囁くように告げると、一気に戦場へと馬を駆った。 「エルトシャン、剣を引け! いまならまだ間に合う。どうして私たちが戦わなければならないのだ!?」 「……もう、なにも言うな、シグルド」 シグルド軍があのままクロスナイツの横面を叩いていたなら、戦線は瓦解していただろう。 だが、シグルドはそうしなかった。エルトシャンが寡兵を連れて前線に現れただけで、進軍を止めて自ら前に出たのだ。 その優しさと甘さに、エルトシャンは歪むような凄惨な笑いを見せる。 「なぜ笑っている? アグスティを返す約束は、私の命に代えても果たしてみせる! それとも、私はおまえの信じるに足りない男だということか!」 「ふふ。おまえは昔からそうだったな。優秀で、誰にでも公平で、正義感に溢れ、間違ったことを許さない……。おまえの有り様はいつも眩しすぎて、俺はそれが羨ましく、妬ましかった」 「エルトシャン……?」 シグルドの純粋さを打ち砕くように、エルトシャンは声を荒げた。 「だが俺は善良な人間である前に、誇り高きアグストリアの騎士なのだ! 主の剣となり盾となり、主の命を遂げることこそ我が使命なのだ! それともおまえは、俺に騎士としての誇りさえ捨てさせる気か!?」 「待て、エルト!!」 シグルドが気圧された刹那。別の方向から駆けてきたキュアンが、身を声にして叫んだ。 「おまえっ、この頑固者が!! なにが誇りだ! 使命だからって、おまえは無用の戦争を起こして自分の臣下を傷つけようっていうのか!? それでもシャガールのドアホの命令をきくっていうのか!? ――っ!」 無言で突き出されるミストルティン。距離は十分にあるというのに、キュアンの馬が悲鳴を上げて竿立ちになり、前進を止められる。 「我が主を侮辱すれば、おまえとて許さぬぞ。キュアン」 「んのっ、その石頭を直せって前にも忠告しただろうが……!」 悔しげにキュアンがうめく。シグルドも、手にした銀の剣をエルトシャンに向けられずにいる。 エルトシャンは、つと眼光を緩めて微笑した。 「許せ、友よ。もし俺が騎士の使命を放棄すれば、ノディオン王家は末代まで臆病者の謗りを免れんだろう。残される者のためにも、俺は最後まで戦わねばならないのだ」 疲れた眼差しで、わずかに空を見上げ、瞑目する。 「昔は楽しかったな。おまえたちと、ラケシスと、エスリンと、エーディンと。願わくば、あの頃に戻りたい……」 「エルトシャン……」 名を呼ぶ声の、どれほど無力なことだろう。 ゆるりと瞳を開いたエルトシャンは、静かにミストルティンを構えた。黒い妖気が、全身から立ち上る。 「さあ、行くぞ。我がミストルティン、貴様らに破れるか!!」 「やめろ、エルト――」 シグルドが悲鳴のように叫び、キュアンが顔を蒼白にしたまま槍を手に駆け出し、そしてエルトシャンが剣を振りかぶったそのとき。 「――にいさま、やめてぇっっ!!」 戦場に、少女の声が響き渡った。 さしものエルトシャンも、動きを止める。聞き慣れたその声は、思いもよらぬ方向からあがったのだ。 ラケシスを乗せたレンスター軍の騎馬は、戦場のど真ん中を突っ切って、エルトシャンのほぼ背後から現れたのである。 返り血か、自らのものか。全身を朱染めにした騎士の顔を見て、キュアンが目を剥く。 「フィン……!?」 騎馬の動きは止まらなかった。エルトシャンに向かって、一直線に突進する。 「き、きさま……っ!?」 反射的にエルトシャンがフィンに向き直り、ミストルティンを構えた。常人なら、目にしただけで失神する妖気。それが、フィンの全身を包みこむ。 だが、フィンはあと数秒で間合いに入る位置で、思いがけぬ行動に出た。 彼は存在を誇示するように槍を持つ右腕を水平にあげると。 そのまま、槍を地に放ったのである。 「なっ……!?」 エルトシャンが怯む。丸腰で突撃してくる年若い青年を斬ることは、エルトシャンの騎士の誇りが許さなかった。 さらに。 「兄様っ!!」 馬同士がほぼ衝突する勢いでかち合ったそのとき、ラケシスがエルトシャンの馬に飛び移ってきたのである。青年はその衝撃で馬から投げ出され、意識を失ったようだった。 反射的に片手で彼女が落ちないように抱き寄せ、エルトシャンは愕然と叫んだ。 「ラケシス!? なぜ、ここに……!」 「――約束を破りましたね」 「……っ」 胸に顔を埋めていたラケシスは、瞳から宝石のような涙を溢れさせながら、エルトシャンの顔を見上げた。 「にいさまの嘘つき! どうしてっ、どうして戦いを初めてしまったのです!」 涙しても尚美しいラケシスの頬は、赤黒い血で汚れている。その様に、エルトシャンは傷ついたように息を詰めた。 そして、首を振ってラケシスの頬を指で拭う。まるで、自分の罪から目を逸らすように。 「そんなに泣かないでくれ。もう、他に手立てがないのだ。俺は、騎士の使命を全うせねばならない」 「友を裏切り、妹を裏切ることが騎士の使命ですかっ!」 「――っ」 今度こそエルトシャンは、言葉を失った。 「だれも戦いなどしたくないのです! だから軍を引いてっ! もう、兄様が傷つくのを見たくないんです! 優しい兄様に戻って! お願いです――っ! ぅぁ、ぁああっ……」 感情的で、論理性の欠片もない叫びが、なによりも強烈にエルトシャンの心を貫いた。 泣きじゃくるラケシスを呆然と抱いていると、シグルドが剣を鞘に収め、静かに言った。 「エルトシャン。ともに矛を収め、シルベール城に行こう。シャガール王を説得し、無益な争いをやめていただこう。おまえが了承してくれれば、すべての戦闘行為を中止させる」 「…………」 「エルトシャン、頼む……!」 「…………」 ラケシスの背を撫でながら、エルトシャンはちらりと戦況に目をやった。 シグルド軍の猛攻に押され、すでにクロスナイツは崩壊寸前であった。 昔からそうだった。どれだけ必死に努力しても、自分がシグルドに勝つことはできなかった。力でも、生き様でも。 しかし、だからといって戦いから逃げ出すことは、できないのだ。 「エルトにいさま……?」 子供のように見上げてくるラケシスに微笑んでみせてから、エルトシャンは連れてきた伝令兵に短く告げた。 「クロスナイツを撤退させろ」 「エルトシャン……!」 シグルドの表情が明るくなる。先ほど突撃してきた若い騎士を抱き上げていたキュアンも、ほっと胸をなでおろした。 しかしエルトシャンは、二人を鋭く睨む。 「代わりに俺の指示に従ってもらうぞ。俺が先にシルベール城に戻り、王に事情をご説明する。おまえたちは、隊列を組み直してから来い。ばらばらに突撃してきたのでは、攻撃だと誤解されるからな」 「……?」 シグルドが、違和感を覚えたように眉を潜める。先に真意に気づいたキュアンが、エルトシャンを仰いだ。 「おい、おまえ。まさか……!」 「黙れ」 氷のように冷えた眼光で睨まれ、キュアンは口をつぐむ。 「兄様、あの、わたしもお供します」 「駄目だ。ラケシスはここで待っていろ」 「いやです! わたしは兄様と一緒にいます!」 エルトシャンは理由を探すように周囲に目をやってから、息を抜いた。 「おまえを連れてきてくれた者の手当をしてやれ。可哀想に、おまえの無茶に付き合わされて、虫の息じゃないか」 「あっ……フィン!」 はっと手を口元にやったラケシスが、キュアンに応急手当をされているフィンに気づく。キュアンは、複雑そうに笑った。 「大丈夫、命に別状はない。でも、確かにお姫様に手当してもらったほうがこいつも喜ぶだろうな」 エルトシャンは、ラケシスに気づかれないようにキュアンに感謝の目配せをした。これから自分を待っている運命に、妹を巻きこむわけにはいかないからだ。 「ラケシス、おまえにこれを預けておく。俺が帰ってくるまで、自分の身は自分で守れ」 「これは、――大地の剣。お父様の形見ではありませんか!」 刀身の短い魔法剣を受け取ったラケシスに、エルトシャンはうなずいて返した。 「俺にはミストルティンがある。それに比べてこれは軽いし、おまえにも扱えるだろう。――ラケシス」 「っ」 ラケシスの肩を抱き、エルトシャンは言った。 「辛い思いをさせてすまない。これからは、おまえを助けてくれる者を大切にしろ。その心を忘れない限り、おまえはひとりではない」 そして、耳元で囁くように。 「愛している、ラケシス」 「にいさま……?」 呆然と、ラケシスは身体を離した兄の瞳を見つめる。 兄はとろけるような笑みを見せると、額に口づけを落とし、ラケシスの身体を子供のように持ち上げて馬から下ろした。 その目線が、ラケシスから、離れる。 「待って、にいさま」 「シグルド、キュアン。妹を頼む」 「エルトシャン、私もすぐに行く。必ず無事でいてくれ」 ただならぬ気配を察したシグルドが、祈るように言う。エルトシャンは、不敵に笑って返す。 「案ずるな。ゆっくり準備をしてから来い」 「……待って。待ってください、にいさま」 エルトシャンは片手をあげると、疾風のようにシルベール城へと駆け去っていった。 陽光は燦々と、残酷なまでに荒れ地を明るく照らしている。 「にいさま」 呆然と目を見開いたまま、兄が去った方向に呼びかけるラケシスに答える者は、だれひとりとしていなかった。 続きの話 戻る |