君の居場所、帰る場所


 グラン暦780年。新トラキア王国の象徴として新たに建立された大理石の宮殿は、トラキア半島の希望を背負ったかのように光り輝いていた。
 一定の間をもって作られた窓から注ぐ陽光のもと、玉座の間で、若き国王が忠臣と向きあっている。

 二人の合間に音はない。成人を迎えた国王は、緋色の絨毯に膝をついて頭を垂れる忠臣を、立ったまま、黙って見下ろしている。

 呼ばれた理由は、とうに察していた。フィンは、無言で言葉を待つ。目の前の偉大な国王は、自身の膝の上で育ったといっても過言ではなかったが、彼は、決して臣下の礼儀を崩すことをしなかった。そうやって何年も、その背中を守り続けた。

「――騎士フィン。これより辞令を告げる。謹んで拝命せよ」
「は」

 新トラキア王国の主リーフの声が、厳かに耳朶を叩く。
 辞令の内容は、先だって予測していた。ただ、アウグストなどの重鎮をはじめ、近衛兵すらこの場にいないことに、わずかな違和感を感じていた。
 しかし、だからといって自ら口を開く選択肢を、彼はもたない。二人きりの空間で、頭を垂れたまま、続きに耳を澄ませる。

「本日をもって、おまえの近衛長の任を解く。父の代から長きにわたる忠節、大義であった」
「…………」

 フィンは黙したまま、わずかに頭を深くさせた。キュアンの遺書をもとにカルフ王から与えられた使命は、もとよりリーフの成人する日までと定められていた。
 これからフィンは新たに編成されたランスリッターの一員として、リーフの覇道を支えることになるのだろう。
 そう思っていたフィンに、そのとき、思わぬ一言がもたらされた。

「以上である。おまえの功績は、末永く新トラキア王国に語り継がれるだろう」
「――?」

 意図せず、背筋が強張る。なにかがおかしい。否。おかしい部分はわかりきっている。
 どう反応するべきか迷った末に、フィンはそのままの姿勢で問うた。

「リーフ様。私の、これからの役付は」
「ない」
「は」

 容赦のない即答に、思わず声が漏れた。
 氷山のように伸びるリーフの両足を視界にいれたまま停止していると、傲然とした声が続けて放たれた。

「聞こえなかったか? 新トラキア王国におまえを任じるべき職位はない。おまえはこれより自由の身だ。どこへなりとも行き、好きに生きるがいい」
「…………」

 ゆるゆると、衝撃が腹の奥からこみあげてくる。現実となった違和感が棘となって全身を圧迫し、呼吸を止めるかのようだった。それだけの威力を、王の命令は持ちえていた。

(どこへなりとも行け、と?)

 喉の奥で、与えられた言葉を繰り返す。――端的に言えば、この国から出ていけということだ。

 信じられなかった。よもやここまで来て、主君に見放されるなど。
 知らぬうちにリーフの不興を買ったのだろうか。それとも、以前から疎ましく思われていたのだろうか。
 様々な出来事が頭の内をめぐり、フィンは恐る恐る顔をあげた。逆光に照らされたリーフの眼差しからは、感情らしきものを伺うことはできなかった。

 ――フィン、頼むぞ。

 そう朝日の中で告げた亡き主君とよく似た顔が、いまや無感動にこちらを見下ろしている。
 彼の傍らにしか、自分の居場所はなかったというのに。
 これが自分のもっとも大切なものだと、そう信じ続けたのに。

 同時に、これが現実なのだろう、と、心の闇の深淵が囁いてくる。無様に生きる理由を欲し、そのために人の心に背を向け、修羅の道に身を投じた自分に対する報いなのだ。
 なのに受け入れられない。見放すくらいなら、いっそ殺してほしい。衝動的に叫びたくなる。

「……リーフ様。私、は」

 あえぐように言いかけた、そのときだった。

 それまで表情を示さなかったリーフが、――ニッと口の端を吊りあげたのは。


「どうだ? 騎士でも臣下でもなく、ただの人になった気持ちは」


 返答をしなければならなかったが、「は」と間の抜けた掠れ声しか出なかった。

 腰に手をやって相好を崩したリーフは、呆然とするフィンをしばらく眺め、鼻から息を抜いた。そうして、短い階段を下ると、フィンのすぐ傍の段のひとつに腰を下ろす。
 もはや少年とはいえない若々しい体躯の上に、金糸の縫い取りのされた礼服をまとったリーフは、近づく者に言いようのない覇気を感じさせる。
 しかしこのとき、リーフは普段の凛然とした態度をぬぐいさり、まるで友のように語りかけてきた。

「なあフィン。――もう、やめろ」

 闇の中に、ひとひらの光を落とすかのように。
 かつての主君と同じ色の声で、リーフはその先を、告げる。

「父上の影を追い続けるのは、もう、やめろ」

 たった一言に、心の表層に幾重にも張り巡らせた鎧を吹き飛ばされるかのようで。
 フィンは無防備に、リーフを見返すことしかできなかった。

 同じ高さで通うリーフの眼差しは、深い悲しみと、毅然とした意思を込めて、わずかに震えているように思えた。少年のころの口調に戻って、「僕は」と彼は続ける。

「僕は、たぶん、いままでと同じように、この国でおまえに相応の居場所を用意してやることができる。おまえと心地よい関係を続けるのは、とても簡単だ」

 彼の声は、よく耳に通った。そして、心までもを深く刺し貫く。

「でも――姉上にも言われたよ。そうやって僕はいつだって、おまえの有り様を縛ってきた。僕はどうしたって、おまえが望む父上になることはできないのに」

 つとリーフは、声の音を落とした。

「だって、父上は、20年も前に死んでしまったんだからな」

 彼自身も、事実を告げることに痛みを覚えていたのだろう。そこまで言うと、リーフは頬をゆがめ、ぽつりと漏らした。

「僕は、僕が用意した居場所で、……おまえが理想と現実の違いに打ちのめされながら、ゆっくりと朽ちていくところを、これ以上、見ていたくはないんだ」
「――リーフ様」

 フィンは名を呼んでから、胸の内から言葉を探そうとした。しかし、守るべき存在であった幼い王子に、己の疵を暴かれた事実は、彼に思うような反論を用意してはくれなかった。
 知らぬ間に、子供は大人へと成長し、見果てぬ場所へと行ってしまう。フィンはそれでも、と言葉を押し出した。

「私には、……この生き方しかできません。幼きころに、私は、この身をレンスターに捧げると誓ったのです」
「おまえの言葉は二重に間違っている。おまえが身を捧げたレンスターと父上は、遠い過去に消え去った」

 見苦しい抵抗を突き放すように、リーフは続けた。

「そして、フィン。いつか人は、自分の足で生きていかなきゃいけないんだ」

 槍を手に馬を駆る主君の姿が、なびく草原の彼方に霞んでいく。
 置いていかれるまいと走り続けたつもりだった。燦然と輝くあの笑顔が。向けてくれた信頼が。自分を肯定し、存在を許してくれるように思っていた。

 しかし――リーフは不意に眉を下げ、微笑みを向けてくる。

「おまえの生き様は否定されるものじゃない。おまえは立派に戦った。それは、おまえの周りのだれもが証明してくれる。でも、フィン。もう、いいんだよ。おまえは、自分のために生きていいんだ。だから」

 一度だけ耐えるように唇を引き結んでから、リーフは言った。

「だから、僕は、この手をおまえから離す」

 錆びたなにかが砕かれたような音を、フィンは耳の奥で聞いた。だが、その正体がわからない。身体は漫然と宙に漂い、自らの位置を見定められない。
 そんなフィンを慮ったのか、リーフは小さな笑い声を漏らした。

「しばらく国を出ろ。そして、ひとりで考えてみろ。本当に大切なものがなにか。本当に欲しいものがなにか。――きっと、半分はもうわかっているだろうけどな」

 ターラ公爵と同じ――いや、それ以上の深い洞察を秘めた瞳が、こちらを貫く。
 リーフの言わんとしていることは、フィンにもわかった。重たい口を、苦心して開く。

「……ラケシス様を、探しに行けと言われているのですか」

 ラケシスがどこかで生きているという話は、バーハラの制圧の後にナンナから聞いていた。しかし、もはや英雄として起つリーフやナンナに、過去のように安易に探しに行こうなどと言える状況ではなかった。そしてナンナもなぜか、自ら行くとは言い出さなかった。
 まさか彼女は、「この時」を待っていたのだろうか。
 リーフは身動ぎのひとつも見せずに、笑って返答した。

「おまえの望むようにすればいいよ」

 澄んだ赤銅色の瞳に込められた思いは、言葉にせずとも伝わってくる。優しい拒絶と、別離への侘しさ、そして前へ進む意思が、視線を通して胸に流れこんでくる。
 無粋な確認をしてしまった己の未熟さを恥じ、フィンはゆっくりと頭を垂れた。隣で、リーフが立ち上がる気配。

「ただ、フィン。もしもおまえが自分の生き方を見つけられたとき――それか、また倒れてしまいそうになったときは、必ずここに戻ってくるんだ」

 前髪の合間から見える、背筋の伸びた茶髪の王。かつて矮小なこの身に手を伸べてくれた人とよく似た、しかし違う人。

「おまえの今の居場所はここじゃない。でも、帰ってくる場所は、ここにある」

 彼は父親のように手を伸べず、ただ。
 ただ、道を指し示した。

「待ってるよ、ナンナと一緒に」


 続きの話
 戻る