最果て



 すべてのはじまりは、あのひとにかけてもらった一言だった。

 ――おまえは確か、フィンといったな。

 見上げた先にあった、力強く精悍な顔。光り輝くような笑顔。
 なにを投げ打ってでも、追いたいと思った。あのひとの役に立つなら、なんでもできると思った。

 そうやって、強く願い、努力すれば、欲しいものは手に入ると信じていた。

 目の前にある道を突き進みさえすれば、幸福がそこにはあるのだと。

 しかし、すこし時を経てから気がついた。欲しいものはすべてが手に入るわけではない。

 本当に欲しいもののために、諦めなくてはならないものがある。どれほどあがこうと、腕からこぼれ落ちてしまうものはある。

 だからこそ、大切なものを見定め、目の前にある道を突き進もうと思った。

 ――いつか焦がれたひとの前で、決して恥じることのない騎士になるのだと。

 そして、後戻りできなくなってから思い知った。

 どれほど強く願い、努力したとしても、本当に欲しかったものが手に入る保証はどこにもないと。



 異様な天候が、解放軍を襲っていた。

 蒼穹にところどころ垂れ込めた暗雲からは、大粒の雨が断続的に降り注ぐ。日陰になった草原は強風になぶられ、切り刻まれた草の破片が舞い上がっている。濃い陰影を描き出す大地には、転々と伏す人や馬の亡骸――。

 晴天と荒天。光明と呪詛。光と影。ふたつの相反する力がぶつかりあう戦場は、まさに世界の命運を決める舞台にふさわしいものに思えた。

 なだらかな丘陵を走る隊の損耗率は5割程度。後方を確認したフィンは、視線を周囲に向けた。

 平野部の手前側にはレンスターの大隊が展開しており、奥にセリス率いる本隊がみえている。
 フィンからみて反対側には、強烈な輝きを放つミストルティンを先頭にしたアグストリアの隊が、果敢な戦いを繰り広げている。

「フィン様、我が隊は孤立しつつあります。丘を下って、ハンニバル将軍の大隊に合流しましょう」

 カリオンが抜身の剣を持ったまま、馬を寄せて進言してきた。若く聡明な面立ちが、血煙に汚れている。
 帝国軍の精鋭兵と、ロプトの暗黒魔道士たちの総攻撃にさらされる中、フィンの隊は地形の影響で他の部隊とやや距離が離れていた。カリオンの言は、的確である。

 うなずいた刹那、フィンは悪寒に背筋をこわばらせた。遅れてカリオンも邪悪な気配の方向に首を回す。
 その顔が、驚愕にゆがんだ。

「あれは……!」
「隊をふたつにわける。おまえは半数を率いてハンニバル将軍に合流し、援軍を呼べ」
「フィン様!」

 カリオンの制止がかかる前に、フィンは手綱を操って馬を走らせた。

 前方で、次々と禍々しい魔法陣が地上に浮かび、暗黒魔道士の増援が現れつつある。敵陣の只中に召喚された彼らは、傍から見れば捨て駒も同然であった。しかし、同時に戦況を大きく変化させる可能性を持っていた。
 槍騎士と竜騎士を主力とするトラキア半島の部隊は、もともと魔道士部隊とは相性が悪い。ミストルティンの加護に包まれたアグストリアの騎馬隊ならともかく、魔法で横腹を攻撃されれば、甚大な被害が出かねなかった。

 ならば、とるべき行動は決まっている。

 リーフを守る。主君に託された使命を守るために、心と、命を燃やす。
 いままでとなにひとつ変わらない。傷つき戦う辛さも苦しさも、記憶の彼方で風化してしまった。

 猛々しく吠え、増援部隊に正面から突撃する。転移魔法の影響で、彼らは、次の魔法を唱えるまでに至っていなかった。軽装備の彼らを、蹴散らす勢いで駆逐する。
 相手に体制を立て直されるまでが勝負だった。悲鳴と血肉が踊り、次々と黒衣が地面に倒れ伏し、血の河を作っていく。
 素早く隊列に指示を出しながら、フィンは包囲殲滅戦を図った。だが、そこで敵もまた牙を剥いた。

 ぐん、と身体が重くなる。強烈な吐き気と眠気が、槍を握る力を削がんとフィンの全身を駆け回った。

「――ぐっ!」

 魔力の波動を感じた方向に、反射的に槍を突き出す。瀕死の魔道士が、伏したまま残忍な笑みを浮かべて腕を掲げ、杖を発動させていた。スリープと呼ばれる、相手を眠りの底に突き落とす杖だった。
 一突きで術者は息絶えたが、効果は一帯に及んだようだった。味方の兵が、次々と意識を失い落馬していく。

 自身も現実が遠のく感覚に襲われた。フィンは歯を食いしばると、瞬時に判断した。
 己の槍を短く持ち、素早く柄を回す。きらめく刃の切っ先を、脇腹に突き刺す。

 全身の毛穴が開き、数秒、視界が赤く染まった。痛みと意識の歪みがいびつな形でまじり、四肢を雷のごとく駆け回る。
 激痛と不快感を咆哮でかき消し、フィンは馬の腹を蹴った。暗黒魔法を発動させようとしていた魔道士を、ぎりぎりのところで突き屠る。

 しかし、足止めされた数刻は、致命的であった。その間に顕現した闇の魔法陣の多さは、太刀打ちできる規模ではない。
 死ぬまで戦ったとしても、殲滅はできないだろう。だが――。

(十分に数は減らせる)

 グレイドの声が蘇る。自分は、戦いの果てに死を望んでいると。
 フィンはその推測を否定した。死など望んでいない。この身には、リーフを守る使命がある。簡単に命を落とすわけにはいかない。

 ただ――リーフを守るために、この命が必要だというのなら。
 それが運命だと受け入れることは、十分にできる。

 だって。きっと、その先の草原には。

 よくやった、と笑ってくれる、主君の姿が。


 視界が陰った。闇が、凶暴な形を成して襲いかかってくる。何人倒せただろう。霞む視界の先に、敵の数を確認する。十分だ。相手はもはや寡兵に等しく、あとは主力部隊が始末してくれるだろう。自分は、十分に戦った。主の命令を、最後まで守り通した。

 力を振り絞り、闇の刃を避けながら尚も戦う。その身が朽ちるまで。懐かしい呼び声を、いまかいまかと待ちながら。
 命尽きた先に会いたい人の顔を、思い浮かべながら。

 槍を振り上げた瞬間、肉が引きつる。限界を越えた身体があげる悲鳴。思いどおりに腕が動かない。
 今までに感じたことのない悪寒が、背筋に走る。もはや避けられないところまで、闇の波動が入りこんでくる。

 切り裂かれる。
 全身を。

「リーフ様、どうか、お父上のご意思を」

 絶対的な死の予感。まだ、声は聞こえない。

「キュアン様」

 血にまみれ、泥にまみれ、闇の先に必ずあると何度も祈り夢想した草原を求めて。
 あえぐように、その名を呼ぶ。

 なのに、返答がない。
 魂の根底が欲する主君の気配は、もう、どこにもない。

(わかっていた、そんなことは)

 閉じていく視界と意識の中で、絶望とともに口ずさむ。


 すべてのはじまりは、あのひとにかけてもらった一言だった。

 ――おまえは確か、フィンといったな。

 見上げた先にあった、力強く精悍な顔。光り輝くような笑顔。
 なにを投げ打ってでも、追いたいと思った。あのひとの役に立つなら、なんでもできると思った。


 しかし、そのひとはもう、世界のどこにもいない。
 見えない影を追い求めても。よく似た誰かにその影を重ねても。
 どれほどに夢見ても、そのひとは帰ってこない。

 自分の名を、呼んではくれない。

 冷たい死へと至る痛みの中で、目を閉じかけた。
 終焉が、すぐそこにあったはずだった。

「――」

 なにが起きているのだろう。
 聴覚が死んでいる。視界も、似たようなものだ。目に血が入って、薄闇にぼやけている。

 かろうじて握っていた槍が、手からこぼれ落ちそうになった。もう、身体のどこにも力が入らなかった。
 そこへ、だれかが腕を伸ばし、槍を握る。馬上で傾いだ上体を、肩と肘で戻される。
 そして、剣の切っ先のような激が、耳をつんざく。

「――しっかりしろ!!」

 フィンは見た。

 死の淵で、フィンは見た。

 そこにあったのは、懐かしい主君の呼び声ではなく。

 澄んだハシバミ色の、美しい瞳だった。

「――ぁ」

 険しい戦意を湛えた眼差しが、貫くかのごとくフィンを見据えている。
 自然と、掌に力が入る。デルムッドは、フィンから身を離すと、即座に反撃に出た。
 大ぶりの剣を自在に操り、敵の魔道士を一息に屠る。返す手で、さらにもう一撃。

「フィン!!」

 新たな機影が、後ろから現れた。見事な手綱さばきで馬を横付けされたと思えば、かざされた癒やしの杖が輝きだす。

「……リーフ様」
「デルムッド! こちらからの兵で殲滅する、下がってくれ!」

 杖を発動させながら、リーフが鋭く叫ぶ。単騎で戦っていたデルムッドが素早く退避すると同時に、竜騎士の部隊が空から殺到した。
 その間にも、フィンの傷はみるみる塞がっていく。杖の扱いなど、いつの間に覚えたのだろう。リーフは無駄のない動作で杖を鞍の筒に戻すと、すぐさま抜刀した。

「あとはナンナ、頼む!」
「はい! 大丈夫ですか、お父さまっ!!」

 一息遅れてやってきたナンナが、突撃していくリーフに代わって脇についた。細かな傷を、繊細な光で癒やしていく。

 あれほど苦戦させられた敵部隊が、為す術もなく倒されていく様を、フィンは呆然と目に映していた。

「これは……なぜ」
「アルテナ様が空から気づいてリーフ様に知らせてくださったのです。でも――お兄さまも、来てくださっていたのですね」

 下がってきていたデルムッドは、ナンナに微笑まれると、気まずそうに顔をそむけた。

「……騎士同士であれば、戦場では助け合うのが常らしいからな。俺は、騎士の教えに従ったまでだ」

 それだけ残すと、手綱を操ってアグストリアの隊のほうへと戻っていってしまう。
 ほどなくして、リーフも下がってきた。

 フィンの傷が癒えていることを確認したリーフは、黙って拳を握り、身体をひねると、馬上から頬を殴りつけてきた。

「ちょっ……リーフさま!」
「姉上に言ったそうだな。僕の守護はもういらないと。役目を失ったその命は、そんなに安く感じられるか」
「…………」

 激しい怒りの感情を前に、フィンは答えられなかった。

「僕はな、フィン」

 低い声で、リーフは言った。

「生者として、おまえを逝かせはしない。おまえがどれほど夢の世界にあこがれても、死者がおまえの腕を掴んでも。僕が――僕たちが、おまえを守り、この世に引き止める」

 フィンは、目を剥いたまま、言葉を聞くことしかできなかった。馬上から相手の頬を殴りつけられるほどに成長した瑞々しい少年が、光輝をふりまくかのように背筋を伸ばし、こちらに眼差しを注いでいる。
 かつての主君に似た、しかし違うひと。

「戦いは、まだはじまったばかりだ。こんな場所で倒れるなんて、許さないぞ」

 魂までも届くような眼光で睨むと、リーフは前を向き、馬を発進させた。

「フィン。おまえには、まだ生きなきゃならない理由がある」

 強い風が、頬を叩く。ナンナが、リーフの後を追う。いつのまにか、彼らは自分よりもずっと先を歩いている。
 そんなふたりの後ろ姿を眼に映しながら、フィンは、聞いた。

 扉が開くかのような、その一言を。



「ラケシスは、生きているんだ」


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