君の心の遠き庭 シアルフィの豊かな風が、肥沃な土に抱かれた草むらをそよがせている。整備の手が遠のいているとはいえ、素朴な木々の茂る裏庭の一帯は、戦乱の世にわずかに残された慰めの場所であるかのように静まり返っていた。 正門のほうからは、編隊を整えつつある兵たちの活気が伝わってくる。ついに王都バーハラへの進軍の時を迎え、解放軍の士気は最高潮を迎えつつあるのだ。 そんなシアルフィ城の裏手に佇んでいるのは、リーフとナンナのふたりである。表の活気に背を向け、肩を並べて風に吹かれながら、広大な空と大地を眺めている。 むろん、両人とも、本来はそんなことをしている場合ではない立場である。しかし、リーフもナンナも、最後に残された穏やかな時間にその身を浸していた。それだけの心の深さを、彼らは持ちえていた。 「……そうか。レヴィン殿は、ラケシスが生きていると。そう言ったのか」 「はい」 「フィンにはもう言った?」 「たとえレヴィン様のお言葉とはいえ、お父さまがそう簡単に信じると思いますか?」 「……まあ、当然だな」 リーフは眉をさげて苦笑する。どれほどの言葉を尽くしたとしても、フィンがするであろう反応は、手に取るように思い描くことができた。 「デルムッドはなんて言ってた?」 「ご想像のとおりですよ。お父さまに伝える必要なんてない。戦いが終わったら、わたしたちだけで探しに行こうと」 「ナンナがなんて返したか、当ててみようか」 ナンナは微笑んでうなずいた。リーフはついと目を細める。 「『わたしはお母さまを探しにはいきません。すべてをお父さまにお任せします』」 「こっ、声まで真似ることないじゃないですか!」 「昨日のデルムッドはものすごく不機嫌だったからなあ。ナンナに相当うまく丸めこまれたんだと思ってたよ」 「わ、わたしは――」 リーフはナンナの頬に手をあてると、首を振って声を遮った。 「わかってるよ、ナンナの気持ちは。ナンナが探しに行けば、フィンは遠慮して絶対についてこないだろうからね」 「――はい。それに、きっと、お母さまが一番迎えに来てほしいひとは……」 「大丈夫。デルムッドもきっと、わかってはいるんだ。受け入れるのに、時間がかかってるだけで」 そのまま、やわらかい金髪を梳いてやると、ナンナはしばらく複雑そうにしていたが、ゆっくりと目を閉じた。はじめはこうしても恥ずかしがるばかりだったが、最近になってようやく慣れたようだ。無防備なナンナの横顔を見るのが、リーフは好きだった。 「問題は、フィンをどうやって焚きつけるかだけど……」 「なにか策がおありですか?」 「……僕も姉上に相談したんだ。そうしたら、簡単なことじゃないかって」 リーフが続けて言う先を、ナンナは黙って聞いていた。聡明なる聖女の末裔が出した、明快な解答を。 それは、ナンナでさえたどり着くことのできなかった答えであった。衝撃は、多分にあったのだろう。だが、その揺らめきさえもナンナは受け止めて、胸の内で巡らせることができたようだった。ぎゅうと拳を握り、顔をうつむかせる。 リーフは、ため息をつくように言った。 「僕たちは、フィンがああまでして僕らを守ってくれる必要なんてないと思ってた。……でも、知らず知らずと、僕たち自身がフィンに寄りかかって、縛っていたんだろうな。姉上とのことで、思い知ったよ。僕は、フィンのことを自分のものとさえ思っていた」 「……仕方のないことでは、あります。わたしたちにとってお父さまは、絶対的なひとでした。お父さまがいなければ、わたしたちは野垂れ死ぬしかなかったんですから」 まったく血のつながりのない相手ではあったが、彼は家族以上の存在であった。互いの認識を確認すると、リーフは続けて問う。 「ねえ、ナンナ。フィアナ村にはじめて行った日の、前の晩のことを覚えてる?」 「はい。リーフさまが、わたしを一晩中おぶってくださった日のことですね」 「あのとき僕は、フィンが死んでしまうかもしれないと思うと、辛くて、苦しくて、しかたがなかった。あんなに怖い思いをした夜はなかった」 「……わたしもです。あの晩は、気が遠くなるほど長くて、胸が張り裂けそうだった……」 うなずいてみせたリーフは、少しだけいじわるに笑ってみせた。 「それにしても、あのときはナンナがひっきりなしに泣くから困ったよ」 「なっ……り、リーフさまだって泣いてました!」 「僕は泣いてないよ」 「うそです! わたし、リーフさまの背中から聞いてましたから。ぜったいに泣いてました!」 「……そうだっけ? 覚えてないな」 「もう! 都合の悪いことは、そうやってみんな忘れるんですから!」 頬をふくらませるナンナの頭を軽く叩いてやってから、リーフはつと顔を引き締める。 「フィンは僕たちにとって、いなきゃならない人だった。でも、フィンを救うには、僕たちから変わる必要があるのかもしれない」 「――はい」 「すぐにできることじゃない。僕たちも――苦しむことになると思う。でも、僕たちはやらなきゃいけない。それがフィンにできる――いや。僕たちにしかできない恩返しだから」 ナンナは呼吸を整え、こくりとうなずく。慎重にゆらめく眼差しが、彼女の真摯さを映しだしていた。リーフもまた、うなずきかえした。 「行こう、ナンナ。これは、僕たちの最後の戦いだ」 「はい、リーフさま」 具体的な言葉はなくとも、互いにすべきことはわかっていた。リーフとナンナは視線を通わせると、幼かったその顔に、昔年にはない精悍さを湛え、前を向いて歩きだした。 ふたりの後姿には、聖戦士の直系でないにも関わらず、だれもが足を止めずにはいられないほどの力強さがあった。 どこまでも続く青空に、高らかな歓声が昇っていく。シアルフィに集結した志願兵は、国籍も物の具も多種多様であったが、その目はだれしも同じ輝きを放っていた。力強く大地を踏み鳴らし、最後の戦いを前にした将たちの演説に声援を送っている。 右翼を任されたトラキア半島の軍勢のもとには、真新しい旗がいくつも翻っていた。かつての北方4国、そしてトラキア王国の国旗をあわせた新しい紋を中央に戴く、新しい国のエンブレムである。 南北トラキアの統一を示すその旗の制作を命じた張本人であるリーフは、設けられた台座から兵たちに激を放っていた。 「新兵のやつら、盛り上がりすぎだろう。こっちまでリーフ様のお声が聞こえないじゃないか」 「もともとこの演説は新参向けだ。我々はすでにリーフ様のお心を十分に存じている」 「そりゃそうだけどなあ、せっかくだし聞いときたいだろう」 ケインの横で口を尖らせているのはアルバだ。古参の彼らは、そろって隊列の後方に並ばされているのである。 ロベルトも、遠く豆粒のようになったリーフを見つめながら苦笑した。 「確かにリーフ様のお言葉には何度も勇気をいただいてきたからね。――それにしても、すごい眺めだなあ」 彼が感嘆する後方で、にわかに轟くような歓声があがった。シレジアから集った解放軍を前に、風の勇者セティが、フォルセティを手に現れたのである。上空には、彼の妹が伴を連れ、ペガサスを駆って舞っている。 セティが腕を掲げると、彼の身体が聖光に包まれ、兵たちを鼓舞するように風が地上から吹きあげた。一層、歓声が高まる。 「おっ。さすがはセティ様。やることがいちいち派手だぜ」 「――その物言いは不敬だ。それに、我らトラキア半島の軍も負けてはいない。兵の士気でも、王の格でも」 「うん……私も、ケインの言うとおりだと思うな」 不意に答えたのは、カリオンであった。彼は、強大な勢力となった解放軍を一周見渡しながら続けた。 「見てみなよ。他の将軍たちはみんな、聖戦士の末裔である証をお持ちだ。フォルセティにミストルティン、バルムンクにイチイバル、バルキリー、そしてセリス様のティルフィング――。リーフ様だけが、それをお持ちでない。……なのに、どうしてだろうな」 母の形見である光の剣を抜き放ち、声を張り上げているリーフを見て、まぶしそうに眼を細める。 「私は、そんなリーフ様が将であることが嬉しいし、リーフ様の元で戦えることを、心から誇りに思うよ」 彼の発言は、その場にいる騎士たち全員の想いを代弁していた。リーフの声が届かなくとも、彼らの気持ちに変わりはなかった。 主君のためなら、その命を燃やし尽くしても構わない。寡兵からはじまり、幾多の絶望を越えて生き残ってきた騎士たちは、彼らの希望であり続けてくれる少年に、心から感謝し、心酔していた。解放軍の将の中でも最年少の、心優しく賢い少年に。 そして、万感の想いをこめてリーフを見つめる騎士たちの会話を、フィンは口を挟まずに聞いていた。本来なら、彼らの無駄な私語をたしなめるべきであったが、彼はそうせず、自らの想いを胸の内で巡らせていた。 フィンはいま、トラキア半島軍の指揮官のひとりとして、隊を任されている。 それまでも、リーフと異なる隊で戦うことは何度かあった。人員数の膨れ上がった解放軍では、指揮のできる人材が不足しており、経験のある者は例外なく隊長として駆りだされている状況なのだ。 亡きカルフ王はフィンに対し、いかなる例外もなくリーフを守護せよと命じた。いまの有り様は、その命令に背くものになるだろう。 しかし、リーフはもうなにもできない子供ではない。数多の兵を率い、さらには傍らにナンナが付き添っている。 もはや守役たる自分の役割は終わっているのだと、虚しい現実をフィンは正面から受け止めている。 砂漠に散った主に託された子は、巣立ちの時を迎え、王として立とうとしている。 ドリアスが予言したとおり、彼はきっと、戦乱に疲れ果てたトラキア半島の民を、騎士たちを、そして彼自身の姉を、本物の理想郷に連れていくだろう。 しかしそこに、フィンの描いた幸福はない。 「……それで、構わない」 だれにともなく、フィンは口の中でつぶやく。 恋い焦がれた遠い庭は、幻想で終わるだろう。未来の光に灼かれながら、過去の記憶に焦がれながら、この身はゆっくりと朽ちていくのだろう。 それでいい。自らの手で主の言葉を守り、未来を紡いだ。希望は、確かに繋いだ。その事実がある限りは、自分にも生きた意味があったろう。 ――ただ。 ――キュアン様。どうか。 祈りを言葉にする直前、フィンは伏せていた瞳を開いた。 進撃を告げるラッパの音。先頭の隊が、動きはじめる。行く手の空に、暗く重たい雲が立ちこめているにも関わらず、勇ましい声をあげて解放軍はついに剣を抜く。 それまで雑談をしていた騎士たちも、表情を引き締めて発進の合図をした。フィンもまた、自らの隊列を整然と動かし、一糸みだれぬ振る舞いで進みだした。 その手に、使いこまれた古い槍を握りしめ。 ――その瞳に、残り火のような戦意を暗く揺らめかせながら。 続きの話 戻る |