希望を繋いで


 ナンナは、こくりと息をのみ、扉に手をかけた。
 なんの変哲もない木戸だというのに、押すだけで、異様な重さを感じる。――室内にいる男の得体のしれない気配が、そうさせるのだろう。

 彼との面会は、セリスの口利きで許されている。中に入ったナンナは、扉を閉めると、静かにスカートの裾をつまんで膝を折り、正式な礼の姿勢をとった。

「ノディオンの王女ラケシスの娘、ナンナともうします。どうぞお見知り置きください」

 リノアンとともに習った礼儀作法に則り、頭を垂れたまま目上の相手の言葉を待つ。
 すると、気のないため息と、気だるそうに足を組み替える気配が伝わってきた。

「――私は面倒な儀礼を好まない。さっさとそこに座って用件を話せ」

 ナンナが視線をあげると、鷹のように鋭い瞳とぶつかった。シレジアの出身を示す緑の髪を耳元で束ねた、吟遊詩人風の痩躯の男。セリスの後見人と軍師役を務める、解放軍の実質的な支配者。雪白の国シレジアの放浪王、レヴィンである。

 彼はナンナの姿にさして興味をもった様子もなく、すぐに手にした書類に目を落とした。
 フィンとはまた違う、人を寄せ付けぬ鋭い空気に気圧されそうになりながらも、ナンナは会釈をして対面の椅子に浅く腰かけた。

 少ないやりとりから察するに、もったいぶった言葉を挟んでも彼の機嫌を損ねるだけだろう。背筋を伸ばし、一呼吸をおいてから、用意しておいた質問をまっすぐにぶつける。

「レヴィン様。あなたは以前、わたしの兄デルムッドに、わたしと母ラケシスが生きているとおっしゃったと聞きました」
「……そんなことを言ったかもしれないな」
「わたしはともかく、母は8年も前から行方不明のままです。あなたは、母が生きていると確信をもって、そうおっしゃったのでしょうか?」

 つと、レヴィンは書類から目を離した。無意識に、膝の上で重ねた手が力む。
 兄をはじめとした解放軍の面々は、口をそろえてレヴィンに過去や未来を見通す不思議な力があるという。実際に、レヴィンの軍略によって、解放軍は破竹の勢いで帝国軍を破り、とうとうグランベル本土のシアルフィまで解放した。そして、目の前に座った男は、確かに、人あらざる底知れない気配を放っている。

 そんな男が、なにを思って母の生死を語ったのか。ナンナには、確かめておく必要があったのだった。

「……ラケシスが生きている。もし私がそう言ったなら、おまえはどうするつもりだ」
「戦いが終わり次第、探しに行きます」
「そうまでして、母に会いたいのか?」
「――? はい、もちろんです。大切なお母さまですから」

 答えた途端、レヴィンの瞳が細く輝いた。耳の後ろが、焼けたようにざわつく。

「私は、おまえをひとり残し無謀な旅に挑んだ無鉄砲な母に、本当にもう一度会いたいのかと聞いているのだ」

 はっとナンナは眼を開いた。心の、触れられたくない部分を固く握られた気分だった。
 ――会いたいに決まっています。なぜそんなことを問うのですか。
 そう言いたいのに、喉がこわばって動かない。なぜだ。自分でも、わからない。

 淡々と、容赦なくレヴィンは続けた。

「おまえは、本心では自分を残して去った母を恨んでいたはずだ」
「そっ、そんなことは……」
「しかし、正直に母を嫌えば、あの騎士や王子に疎まれ捨てられる。もっとも幼く弱い立場だったおまえは、彼らにすがり、健気で聞き分けの良い少女を演ずるしか生きる道がなかった。なのにどうして、いまさら不条理の発端となった母を求める?」
「ちがいます!」

 投げつけられる刃を跳ね除けようと、ナンナは必死に否定した。

「わたしはずっと、お母さまのことを想って――また会えると信じて戦ってきました。その気持ちに、偽りはありません!」

 レヴィンは、ナンナの言葉を、肯定も否定もしなかった。ただ、静謐な眼差しを返しただけだった。
 張り詰めた沈黙が、狭い執務室を満たしていく。じわじわと心を冒され、自分が保てなくなりそうになる。

 知らぬ間に、心の表皮が剥かれてしまう。本当はレヴィンの言ったとおりではないか。胸の内の暗い部分が、そう囁く。

 母がデルムッドを迎えに行くと言ったとき、自分は捨てられるのだと幼いながらに思ったのは事実だ。わがままで足を引っ張ってばかりだから、嫌われてしまったのだと。母にとっては、自分よりも兄のほうが大切なのだと。

 だからリーフは、母との絆を形として残すために、揃いの首飾りを贈ってくれたのだろう。彼らしい、筋道のとおった贈り物だった。

 けれど、――幼いころの記憶がよみがえる。

 首飾りをもらったって、本当は――うれしくなどなかった。
 いくら絆を形にしたところで、母がいなくなってしまう事実に変わりはないではないか。

 ――やっぱり、わたしは、捨てられてしまったんだ。

 心の底に溜まった、粘ついた黒い想いは、どんな慰めにも癒されることはなかった。

 辛くて、悲しくて、涙が止まらなかった。あのとき一度、ナンナの心の内で、母は死んでしまったのだ。
 途方もない嘆きの中で、すがった先はフィンだった。彼が父と呼ぶことを許してくれたとき、どれほど救われたか。そして、今度こそ嫌われてはならないと思った。それに、彼を引き止めておけば、帰ってきた母に褒めてもらえるかもしれない。次は、捨てられないかもしれない。

 ナンナは幼く、弱かった。険しい子供時代を乗り越えるには、彼女は意思の力で無理やり、自らを守るしかなかった。
 わがままを呑みこみ、辛さも我慢し、フィンの役に立つため杖の修行に打ちこんだ。雑事を進んでこなし、常に人の役に立つように心がけた。
 ――だれもに必要としてもらえる、理想の少女になろうとした。

 母との再会を願って毎日首飾りに祈りを捧げていたのは、本当は、母の無事を祈っていたのではなく、自分の意思を確認し、守るための行為だったのではないか。
 母が亡くなったと知ってあんなに哀しいと思ったのは、本当は、母が死んだ事実にではなく、血を吐くような努力がすべて否定されたからに過ぎないのではないか。

 震え始めるナンナを見透かしたように、心に杭を穿つがごときレヴィンの声が打った。

「母親を探すも諦めるも、おまえの勝手だ。だが、私に確かめなければ保てない程度の希望なら、抱かないほうがおまえのためだぞ」

 冷たくなった膝の上で、ナンナは肩を狭め、両の拳を握りしめた。レヴィンの鋭利な言葉には、一片のぬくもりもなかったが、同時に綻びも見つけられなかった。

「話が終わったならでていけ。私は忙しい」

 レヴィンは書類にペンを走らせながら、こちらを見ずに言う。
 引き攣れるような沈黙の後、ナンナはゆっくりと立ち上がった。重たい足を、引きずるように動かす。

 しかし、ナンナが向かった先は、出口ではなかった。

 レヴィンが怪訝そうに見上げてくる。
 ――彼の執務机の正面に立ったナンナは、うつむき、髪で表情を隠したまま言った。

「あなたが仰ることは、きっと正しいです。わたしは、心のどこかでお母さまを恨んでいます。お母さまに会いたいという想いは……本物ではないかもしれません」

 胸元に下がる首飾りに指を這わせる。自分と母を繋ぐ証としてリーフが贈ってくれたそれ。
 けれども――繋いだ絆は、紡いだ光は、それだけではない。
 顎をあげたナンナは、燦然と言い切った。


「ただ。わたしには、救いたいひとがいます」


 レヴィンの薄い色の瞳が、すうと細くなる。常人であれば怖気を覚えるであろうその視線に、しかしナンナは小揺るぎもしなかった。

「戦い続けて、苦しみ続けた、わたしたちの大切なひと……。そのひとの歩いてきた人生が、辛いまま終わっていいはずがないんです。お母さまを探して、そのひとを救わなきゃいけないんです!」

 そこまで言ったナンナの口元が、笑う。ゆがむような自嘲と、決然とした意思をこめて。

「他人を救うなんておこがましい。ひとの気持ちのなにがわかるとあなたは思うでしょう。たしかにわたしは、なんの取り柄もない小娘です。リーフさまのように頭がよくはないし、お父さまのように強くもない。でも、わたしはそれでも戦わなくてはいけない――」

 希望を繋ぎ、前に進む。大切なひとの心を救う。それらは、知恵や武力だけでは成就できない。
 たゆまず持続する清廉とした意思。自らの心を言葉にする勇気。なにより、他者を想う心のやさしさ。
 誰もが持てるものではないそれらを胸にした少女は、机に手をつき、裂帛の気合を放つかのように肚に力をこめた。

「ですから、煙に巻かないで教えてください。お母さまは生きているのですか。生きているのでしたら、どこにいらっしゃるんですか!! 答えてくださるまで、わたしはここをどきません!!」

 声は部屋の隅々まで響き、跳ね返り、幾重もの音の残滓を残していった。
 肩で呼吸をしていたナンナは、つと返るレヴィンの答えに、ぴくりと反応した。

「……まったく。おまえは母によく似た。意思が強く、決めたことを曲げず、――そして無鉄砲だ」

 レヴィンの口元が、皮肉げに笑む。悲劇の公子シグルドが軍を率いていたころ、レヴィンは母と肩を並べて戦っていた――そんな事実を今更ながらに思い出していると、レヴィンはうるさそうに手を振った。

「とりあえず、少しさがれ。さすがに暑苦しい」
「は――はい。すみません」

 それまで決して越えられない壁のように立ちはだかっていたレヴィンからは、不思議と迫力も近寄りがたさも消えていた。なぜだろう。彼の笑みには、喜んでいるような気配すらあった。ナンナは言われるままに、何歩かさがる。
 レヴィンはペンを置くと、頬杖をつき、肩から息をついた。そして、ついにナンナの求める答えを教えてくれた。

「――おまえの母ラケシスだが、たしかに死んではいない。あの女のエーギルは、いまだに現世にとどまっている」
「エーギル……」

 ナンナは口の中でつぶやく。杖の勉強をしていたころに習った概念だ。あまりに難しく、当時の自分には正直さっぱりわからなかった。いまも、生命が持つ原始的なエネルギーという以上の説明ができない。
 しかし、受け身に話を聞いているだけでは始まらない。ナンナは思いきって口を開いた。

「お母さまに会ったというイザークの方々は、お母さまがイード砂漠でロプト教団に石にされたと話していました」
「――ほう、なるほどな……」

 レヴィンは剃刀のような目を眇めると、語り始めた。

「ロプト教団には、強き戦士を石像にし、邪神への供物として地下神殿に捧げる習慣がある。供物を捧げた者は、特に教団内で優遇されるともきく。強く猛々しかったおまえの母は、やつらにとって格好の獲物だったろう」
「では、お母さまはどこかの地下神殿に――?」
「おそらくはそうだ。ただし、イード砂漠は百年以上も前から連中の隠れ蓑になってきた。いまだ把握されていない地下神殿もあると考えれば、それこそ砂漠でひとつぶの真珠を見つけるような話になる」
「――それでも、可能性はあるのですね」

 確認すると、レヴィンは愉快げに唇の端を吊りあげる。

「絶望的だ、と嘆いたりはしないのだな」
「ここにくるまでの間に、絶望的な状況なんていくらでもありました。それに比べたら、レヴィンさまのおっしゃる話は朗報以外の何でもありません」
「それほどまでに、あの騎士が大事か」

 唇を引き結ぶ。やはりこの男は、千里眼を持っているらしい。自分が救いたいもの。守りたいもの。すべてを見通している。
 だからこそ、ナンナはきっぱりと答えた。

「はい」

 くっ、とレヴィンの喉の奥から笑い声が漏れた。

「これだから人の子の営みは見ていて飽きることがない――行け、ナンナ。おまえのすべきことは決まっただろう」

 はじめの部分はつぶやくように言われてしまい、ナンナに聞き取ることはできなかった。だが不快な印象は持たなかった。
 ナンナはレヴィンに礼を言うと、毅然と踵を返した。

(待っていてください、お父さま)

 彼女の桃色の唇は、今度こそ揺るがぬ決意を湛えて、その言葉を音もなく紡いだ。

(必ず。必ずお母さまと会わせてみせます。わたしの命に代えても、この希望を繋いでみせます)

 豊かな金髪をきらめかせながら前を向く彼女の横顔は、まぎれもなく母の気高さをそのまま映していた。


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