砂漠の兄妹


 解放軍の活躍が世に広まるにつれ、大陸の各地では帝国の圧政に苦しむ住民が次々に蜂起をはじめた。すでに解放された土地からも、多数の若者が続々と解放軍へと志願してくるようになった。

 連日のように合流してくる志願兵の一番の憧れの的は、もちろん光の公子セリスである。
 他にもイザークの王子シャナン、風の勇者セティ、獅子王エルトシャンの子アレス、そして北トラキア解放軍の盟主リーフといった華やかな顔ぶれは、彼らにとって十二聖戦士の再来のように映った。

 一方、前線で果敢に戦う将の支援に立ちまわる者たちもまた、志願兵にとって輝かんばかりの存在であった。
 その中でも、馬を駆っては身分に分け隔てなく怪我人の手当に赴く金髪の少女――亡国ノディオンの忘れ形見であるナンナは、母ゆずりの美貌と愛らしい仕草、持ち前の気さくさによって、絶大な人気を博した。

「共に戦っているはずなのに、妹ばかり名が知れてしまった。俺も杖の修行をしておけばよかっただろうか」

 そう冗談まじりにぼやいたのは兄デルムッドである。彼自身も、元は一介の傭兵であったアレスが隊を率いるようになってからは、補佐官の任につき、堅実な仕事ぶりで兵に深く慕われている。しかし、どうしてもノディオンの王女ラケシスの子、と話題が出れば、筆頭にナンナの名があがるようになってしまったのだ。彼がため息をつくのも無理はなかった。

 そんな事情があったためであろう。一報はまず、ナンナの耳にもたらされた。

「イザークの志願兵が、わたしにお話を? ――陳情でしょうか」

 目をまたたくナンナに、志願兵の世話役をしているラクチェは肩をすくめてみせた。

「わからないわ。今日、到着したばかりの子たちだから、軍内の揉め事じゃなさそうだけど。どうしてもあなたと直接話したいって言ってきかないの。いやなら、わたしから断っておくわ」

 日々怪我人の治療に奔走するナンナを慮った発言に、当人はふるふるとかぶりを振った。

「大丈夫です、聞きましょう。その方々に会わせてください」
「そう? ありがと。忙しいのに、悪いわね」

 ラクチェは艶やかな黒髪をかきあげると、颯爽と歩きだした。母同士が剣術の師弟だったと聞いていたこともあって、ラクチェとナンナすでに友として打ち解けている。時折、マリータとともに剣の訓練をしてもらうこともあった。ラクチェの髪から香る涼やかな匂いを感じながら、ナンナは遅れないように歩を早めた。



 解放された街の領主館の一室で待っていたのは、よく似た顔をした黒髪の少年と少女だった。兄妹か双子だろうかと思っていると、ふたりはこちらを見て、なぜか苦しげに顔をゆがめ、ひざまずいた。

「ナンナを連れてきたわ。手短にね」
「はい……」

 少女のほうが目を伏せて答える。男のように髪を短くした、凛とした顔立ちの剣士だった。
 ラクチェが部屋を出ていくと、少女が押し出すように名を告げる。

「イザークの剣士、ラドネイともうします。こちらは兄のロドルバン。このたびはお会いくださり、ありがとうございます」
「わたしはノディオンのナンナです。どうか顔をあげて、立ってください。お話とはなんでしょう」

 緊張しきったふたりの様子をみて、ナンナは微笑みを浮かべて膝をつき、身体を起こしてやろうとした。ノディオンの血を引く身とはいえ、育った環境上、人にかしずかれるのは慣れていないし、好みもしない。
 だが、ナンナはつと手を止めた。身を固くするラドネイの隣で、ロドルバンと紹介された少年が、口元を手で覆って嗚咽を漏らしたのだ。

「ど、どうしました?」
「……もっ、申し訳……ありません……。あまりに……お姿も、お声も……似ていて……」

 ロドルバンはそれだけ言うと、腕で涙をぬぐう。途切れ途切れにしか入ってこない情報に、首をかしげるほかない。
 すると、ラドネイが唇を噛み締めながら顔をあげ、静かにわけを話しだした。

「いま、ナンナ様のお姿を見て確信しました。ナンナ様……私たちは、8年前、イード砂漠でラケシス様に命を救われたのです。あなたにそっくりな、お母君に」
「えっ?」

 なすすべもなく、ナンナは無防備に聞き返した。
 ラケシス。その名が血を冷やし、喉を塞ぎ、頭の中をぐるぐると駆けまわる。

「待ってください。それは、どういうことです? お母さまに会われたのですか!?」
「っ、申し訳ありません、申し訳ありません……! 俺たちは……っ」

 掠れた声で慟哭するロドルバンに対し、冷静を装っていたラドネイの片目からも、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「イザークの農村で育った私とロドルバンは、幼いころ、子供狩りに遭ったのです。私たちは、他の子供たちと一緒にイード砂漠を運ばれていきました。そんなとき……ひとりの金髪の女性が突然現れ、ロプト教団の魔道士を倒し、馬車ごと解放してくださったのです。剣を手に檻をあけてくれた姿は、――まるで、女神様のようでした」
「――」
「その方は、ノディオンのラケシス様であると名乗られました。こちらにラケシス様のご家族がいると聞き、私たちは、いてもたってもいられなくて……」
「それで――っ、それで、お母さまはどうされたのです!?」

 ラドネイは一度言葉に詰まってから、目元を指でぬぐい、震える声で告げた。

「馬車にロプト教団の追っ手がかかったとき、……ラケシス様はひとりその場に残って足止めを。数十人もの魔道士に囲まれて……おそらく……」
「……ああ…………」

 意図せず、消え入りそうなうめき声が漏れる。膝をついたまま、ナンナは胸元に指を這わせた。母と揃いの首飾りが、固い感触だけを返してくる。
 兄と再会したときから、母の結末についてはある程度予想していた。しかし、ただの想像は、鋭利な現実を突きつけられたときに微塵も役には立たない。じわりと視界がゆがんでくる。

「謝罪の言葉もありません……ナンナ様。私たちは、ラケシス様を置いて逃げ出すことしかできなかったのです。私たちが非力で臆病だったせいで……」
「……いいえ」

 母は立派に戦ったのです。あなたがたを救えて、本望だったでしょう。そう言おうとした唇は震え、言葉は形にならなかった。
 自身を抱きしめるナンナに、そのとき、ロドルバンが居ても立ってもいられない様子で言った。

「ただ、ナンナ様。俺はあのとき――」
「ロドルバン! その話はしないと決めたでしょう!」

 突然、ラドネイが鋭い声を放つ。ナンナが驚いて顔をあげると、ラドネイは兄を険しい顔で睨めつけていた。
 しかしロドルバンも、怯まずにラドネイを睨み返した。

「やっぱり、黙ってるわけにはいかない。俺はこの目で、本当に見たんだ!」
「なにを……ですか?」

 思わず問うと、ロドルバンは切迫した口調で答えた。

「あのとき――俺たちは逃げる馬車の中から、戦いに臨むラケシス様を見ていました。俺は特に目がよかったから、戦いを最後まで見届けることができて」

 ロドルバンは一度言葉を切ると、涙を乱暴に吹き払って続けた。
 鮮烈な光線となってナンナを貫く、その続きを。

「――ラケシス様は戦死されたのではありません。ロプトの魔道士のやつらに、石にされ、連れ去られたのです」

 言葉を認識した瞬間、視界が、白く染まった。

「いい加減にして!」

 停止するナンナの前で、ラドネイが兄の肩を激しく掴んだ。

「そんなことを言って、なにが変わるの。ナンナ様の苦しみが増すだけじゃない! 無責任なことを言わないでよ!」
「見たのは事実なんだ! 命を落としたのでなければ、救う方法が必ずあるはずだろう!」

 ラドネイの手をふりほどくと、ロドルバンはいまだ衝撃に思考を止めたままのナンナをまっすぐに見据えた。

「ナンナ様。俺たちは、イザークに帰ってからも、帝国兵に狙われて辛い日々を送りました。友を失い、家族を殺され、住処を焼かれて……そのたびに、絶望にくじけそうになりました。剣をとって帝国兵と戦うときだって、本当は怖くて仕方なかった。何度、逃げたくなったかわかりません」

 そう言って、日に焼けた無骨な拳を握りしめ、頬をゆがめる。

「でも、あの日の、あの方の――陽を受けて輝く金髪を思い出すたびに、生きる気力と戦う勇気が湧いたんです。守るべきものを捨てて逃げてはだめだと。あの方の後ろ姿が、何度も俺に力を貸してくれたんです」

 彼の輝く眼光をとおして、母の姿はナンナの心にも伝わってきた。デルムッドを迎えに旅立つあの日の、背筋の伸びた気高い横顔。首飾りを合わせて、母は言ったのだった。

 ――かならず、帰るから。

 どこまでも続くのだと諦めていた絶望の暗路に、そのとき、一条の光が差しこんだように思えた。

「石にされてしまった人がどうなるのか、俺はよく知りません。でも、俺は……命の限りロプト教団と戦って、いつかラケシス様をお救いしたいんです。俺に大切なことを教えてくれた、あの方を……」

 ナンナは、うつむき、歯を食いしばった。身体が、冗談のように震えていた。しかしそれは、先ほどとは別の理由だった。
 ラドネイが、こちらの顔色を窺って、深々を頭を下げる。

「……申し訳ありません、ナンナ様。お叱りはいかようにも受けます。ですから、どうかロドルバンの言うことは気になさらないでください。子供時代に描いた、ただの空想ですから――」
「――いいえ」

 はっきりとした否定の言葉が、ナンナの唇からこぼれた。
 ナンナは腕に食いこんだ己の指を、ゆっくりとほどいた。しかし、力はそこに漲ったままだった。全身が、激しい脈動を打っていた。
 こぼれ落ちる涙はそのままに、面をあげ、ロドルバンの手をとる。

「……ありがとう、ありがとうございます。あなたは、お母さまからわたしへ、確かに希望を繋いでくださいました」
「ナンナ様……?」

 困惑するラドネイとロドルバンに向け、ナンナは微笑んだ。

 ロプト教団に石にされた者は、地下神殿に祀られ、二度と元の姿に戻ることはないと、市井ではまことしやかに囁かれている。だがナンナは、知っていた。石にされた人間を元に戻しうる力が、手の届く場所にあることを。それはレンスター解放軍の極秘事項であり、ふたりに言えない事情があったが――。

 その力で、ナンナはすでに失った大切なひとをひとり、救うことができた。

「ロドルバン、ラドネイ。ふたりとも、よくここまで来てくれました。苦しい日々だったと思います。でも……あなたがたに会えて、本当によかった」
「そんな、私たちは、ただ」

 ラドネイの言葉を、ナンナは優しく止める。

「ふたりのおかげで――わたしには、ひとつ、やるべきことができました。いまはお話することができませんが……わたしがあなたがたに力をいただいたことは、真実です。……ありがとう」

 ありのままを伝えられないことに、狂おしい気持ちを抱きながら、ナンナはふたりをうながしつつ、ゆっくりと立ち上がった。

「わたしからのお願いはふたつです。どうか、お母さまに救われたその命を大切にしてください。そして、――いつか、お母さまがあなたがたに教えたことを、他のひとにも教えてあげてください」
「ナンナ様……」

 ナンナはふたりを力づけるようにうなずいてみせた。

 すべてが好転したわけではない。転がってきた光の欠片は、ただの路傍の石であるかもしれない。
 しかし、想いは人から人へと、必ずつながっていく。母がさしかけた細い希望の糸は、幼い子どもたちに紡がれて、確かにここまでやってきた。

 ナンナは砂漠の剣士たちに何度も礼を言ってから、部屋を出た。待っていたラクチェが、顔を見てぎょっとする。

「どうしたの、ナンナ? 目が赤いけど――まさか、ひどいことを言われたの?」
「ちがいます。逆です」
「え……?」

 不可解そうなラクチェに笑みを残すと、ナンナは拳に力をこめ、廊下へと駆け出した。
 いまは、一刻たりとも立ち止まっているつもりはなかった。


 続きの話
 戻る