ないものねだり


 残光をこぼす癒やしの杖を膝の上に置いたナンナは、ほうとため息をついた。

「応急処置は済ませました。すこし経てば、目を覚ましてくださると思いますが……」

 言いながら、ベッドに横たわるフィンに掛布をかけ、険のある視線をリーフとアルテナに向けてくる。

「ゲイボルグの暴走、と言っていましたね。詳しいことは知りませんが、ひとつ間違えば、取り返しがつかなくなっていたことは、お二人とも、わかっていますね?」

 声音は、静かな怒りをはらんで低く染み渡る。リーフは黙って唇を噛み、うなだれた。ベッドを挟む形で椅子にかけたアルテナも、同様に視線を床に這わせている。

 爆音が響き渡った明け方のトラキア城は、一時騒然となった。一方でリーフとアルテナは、セリスへの説明もそこそこに、飛び起きてきたナンナのもとへ血まみれのフィンを担ぎこんだのだ。仔細な理由を問う間もなく治癒に奔走することとなったナンナは、ようやく事態が落ち着く段になって、咎めるようにふたりを見据えていた。

「あんな時間に、なにがあったのですか?」
「それは――」

 重たい口を、リーフは苦心して開く。しかし、なにから説明すればいいのか、自分でもわからなかった。

 昨晩から、リーフはほとんど眠ることができなかった。なぜ思い通りに事が進まないのか。なぜ姉と和解できないのか。ひとりで悶々と考えても、答えは闇の奥底に沈んだままだった。
 そこでリーフは、フィンを探しに出たのだ。キュアンの一番の臣下であったフィンは、幼いアルテナの相手をすることもあったと聞いていたからであった。彼に聞けば、アルテナの胸の内を窺い知ることができるかもしれないと思った。

 しかしフィンは自室にはおらず、風にでも当たっているのかと考えて屋上へと向かったのだ。まさか、アルテナ本人にゲイボルグを突きつけられているとは思わなかった。

 あとのことは、途切れ途切れに焼きついた光景しか覚えていない。
 ゲイボルグを掴み、振り払ったフィン。走る雷光。舞い上がる石塊。すべてが、地槍から噴きだす輝きにかき消される――。

 光が止んだとき、辺りはひどい有様だった。敷き詰められた石の床には巨大なひびが入り、力を逃がした先にあった塀は跡形もなく消えて、わずかに残った部分からぱらぱらと小石がこぼれ落ちていた。
 そして、爆風に吹き飛ばされたフィンは、地面に叩きつけられ、がれきの下で意識を失っていたのである。屋上からの転落を免れていたのは、不幸中の幸いといえた。

 リーフは固く拳を握ると、そもそもの原因である姉に向き直った。

「……姉上。事情を話してください。なぜ、フィンにゲイボルグを向けたのですか」
「――」
「答えによっては、僕は……いえ、私は、あなたを許さない」

 沈んだ様子のアルテナは、悲壮に目元をゆがめた。その表情に胸の痛みを覚え、自身の言葉を後悔したのも束の間。
 彼女は一度目尻をぬぐうと、鋭い眼光をリーフに返してきた。

「話すことは、できません。これは、私とフィン殿の個人的な問題です」
「姉上!」
「……それに、もう、けりはつきました。今回の件については、セリス様にお詫びし、これ以上の騒ぎは起こさないと誓います」

 ぎり、と歯が鳴る。謝罪の相手に自分ではなくセリスの名を出されたことが、リーフの矜持を深く傷つけていた。
 なによりフィンは、リーフにとって最も大切な臣下だった。なのに、リーフの預かり知らぬところで事が起きたのが、許せなかった。
 リーフは姉に相対し、うなるように言った。

「人の忠臣を命の危険に晒しておきながら、言うことはそれだけですか。姉上、あなたは自分の立場がわかっているのですか!」
「あなたにとやかく言われる筋合いはありません。そもそもあなたが余計なことをするから、このような事態になったのです」

 頭の中が白く焼ける。余計なことではない。自分はただ、フィンを助けたかった。それだけなのに――。
 リーフは遮るように語気を強めた。

「臣下の命が奪われかけていたのです! 主君として剣を抜くのは当然でしょう!?」
「知った顔で口出しをしてこないでください! あなたになにがわかると――!」

 がたん。

 突然の物音に、ふたりの会話は打ち消された。
 卓に杖をおき、乱暴な音をあげて立ち上がったのは、ナンナだった。

 ふたりと視線を合わせることもなく、ナンナはおもむろにリーフの胸ぐらを片手で掴むと、無理やり立たせた。

「な、ナンナ?」

 黒騎士へズルの血を引いているだけあって、彼女の細腕には見た目にそぐわぬ力がある。感情の失せた表情には、有無を言わせぬ凄みがあった。
 リーフを捕縛したナンナは、アルテナの腕をもむんずととり、部屋の扉の方へ向かう。

「な、なんですか――っ?」

 アルテナの抗議にも、ナンナは一切耳をかさない。普段の可憐さを捨てきったように荒々しく扉を開くと、彼女は勢いをつけてふたりを廊下へ投げ出した。
 ぞんざいに放られて尻もちをつき、顔をしかめる姉弟に、続いて冷え切った声がふりかかった。

「――いい加減にしてください」

 耳から胃の腑までが凍るような声音。見上げたナンナの小さな身体からは、怒りが陽炎となって立ち上っている。

「さっきからなんですか。お父さまがこんな大怪我をしたのに、あなたたちは口を開けば自分たちの都合ばかり」
「ち、違うよ、ナンナ。僕はただ――」
「なにが違うんですか! ふたりとも、お父さまをだしにして、自分勝手にむくれてるだけじゃないですか!!」

 リーフの反論をはねつけると、ナンナはぎろりと鋭い眼光で二人を見下ろした。

「大体、怪我人の部屋で喧嘩なんて、どういう神経をしているんです。傷ついているのは、リーフさまでもアルテナさまでもなく、お父さまなのに!」
「――っ」
「看病はわたしひとりで十分です。争いがしたいなら、外で好きなだけどうぞ。似たもの同士、頭を冷やしてきてくださいっ!」

 ばたん、と戸が荒々しく閉められる。
 残響が止んでいくと、後には絶句したまま扉を見つめるリーフとアルテナだけが残された。

「…………」
「…………」

 沈黙は、十秒にも及んだだろうか。
 先に口を開いたのは、リーフだった。

「……似たもの同士……だとは、思えないのですが」
「……私もです」

 それ以上のことは、ひりつく頭では考えられなかった。姉とのはじめての意見の一致を確認したリーフは、腰だけ移動させて、壁に背をつけた。アルテナも同様に、のろのろと膝を抱える。

 ふたたび、無音の時間が過ぎた。リーフの耳の中には、ナンナの怒鳴り声が幾重にも木霊していた。そして、指摘されたことに対する言い訳が、後から後から湧きだしてくる。
 そうやって彼女の言い分に反発を覚える理由は、簡単だ。――図星を指された。ただ、それだけ。聡明なリーフに、その程度のことは自覚できた。

 姉がもつ直系の血に対する嫉妬。姉のおかれた微妙な立場に対する憚り。そして姉とフィンとの会話に関し、自分ひとりが置いていかれた、やるせない気持ち。
 それらがささくれだった苛立ちとなって、リーフの思考を隅々まで埋め尽くしていたのだ。ナンナが怒るのも当たり前であった。

 ――なにがフィンを救いたいだ。
 ――僕は結局、自分のことしか考えていないじゃないか。

 自身に対する嫌悪感に、膝を抱える指に力をこめていると、ぽつりとアルテナがつぶやいた。

「……あなたは、フィン殿に心から慕われているのですね」

 突然の指摘に、リーフは姉に戸惑いの顔を向ける。そして、首を横に振った。

「それは違います。フィンは――亡き父上に私の守役を任されたのです。その命令を、忠実に守っているに過ぎません」
「あなたが本当にそう思っているなら、私はフィン殿が哀れでなりません」
「――」

 言葉に詰まるリーフを見て、アルテナは自嘲気味に笑ってみせた。

「私は……あなたが羨ましい。幼いころの私は、彼が大好きでした。私も、優しい彼の元で育てられたかった。――そうすれば、こんなふうに二度も親を失う思いをせずにすんだのですから」
「姉上……」

 姉が僅かなりとも心を開こうとしていることに気づいたリーフは、すこしだけ迷ってから息を吸って答えた。

「……簡単に同意はできません。フィンとともに過ごした子供時代は、地獄のようでした」

 アルテナは胸をつかれたように目を瞬いた。リーフは逆に目を伏せ、膝を抱え直す。

「私に食べ物を譲り、毎日のように追っ手と戦い、傷ついていくフィンを前にして。剣すら振るえなかった私は、ただ見ていることしかできなかったのですから」

 あんなに話しにくいと思っていた姉を前に、不思議と、続く言葉はすらすらと流れでた。

「なぜフィンがそうまでして守ってくれるのかわからず、反撥したこともありました。滅びた国の再興とは、そんなに重要なものなのかと。人の幸福を犠牲にしてまで成すべきことであるのかと――」

 それは、臣下たちが聞けば腰を抜かす発言であったろう。リーフ本人も、はっきりと口にするのははじめてだ。だからこそ、リーフは、王としてではなく、ひとりの人間として、心のままに告げた。

「しかし、事実として、フィンが――彼だけではない、多くの者が、私の人生の礎となり、幾人もが命を散らしていった。だからこそ私は、いま生きている者を導きたい。だれもがありふれた幸せを得られる世界を作りたいのです。――そしてフィンにも、いままで失った分、幸福に生きてほしいのです」
「……その理想の実現のために、あなた自身の人生が犠牲になっても?」
「私は十分に幸せです。間違ったことをすれば盟主であろうとこうして部屋から叩きだしてくれる、ナンナがそばにいるのですから」

 当人が聞けば耳まで赤くして憤慨しそうであるが、アルテナは眉を下げただけだった。そうして、最後に放たれたリーフのつぶやきを聞いて、ゆっくりと瞳を閉じた。

「――もしもひとつだけ身勝手を言ってもいいのなら。私は……姉上のように、ゲイボルグを扱える聖戦士の直系に生まれたかった」

 その言葉が、アルテナの神経を逆撫でするであろうことを理解しながら、リーフは言った。アルテナがリーフを羨む気持ちと同じものを、自分も持っていたからだ。
 アルテナも理解したのだろう。薄い唇を開き、そして閉じ、ゆっくりと息をついた。

「私たちは、互いにないものねだりをしているのですね」
「……そうだと思います」
「苦しみ、傷つきながら生きてきたのは誰しも同じ。そうわかっていても、――真に相手を理解し、心を広く保つことの、なんと難しいことでしょうね」
「はい」

 リーフは素直に同意を示した。ふたりの間に、はじめて、ゆるやかな沈黙の間が降りる。
 アルテナは、こちらに顔を向けてきた。リーフもまた、それを見返した。

「私は、フィン殿に謝らなければなりません。私のわがままのせいで、ひどい手傷を負わせてしまいました」
「わがままの中身は、聴かせていただけませんか」
「……はい。言うことはできません」

 穏やかな拒絶。しかしそれは、いままでのようにリーフを攻撃するものではなかった。リーフはうなずいて返す。

「私もフィンには謝りたい。いつも迷惑ばかりかけてしまう」

 アルテナの目元が、わずかに緩んだ。

「では、共に謝罪に行きましょうか」
「……はい。ただ、その前にナンナに機嫌を直してもらわないといけませんが」
「それは――なかなか難しそうですね」

 今度こそアルテナは苦笑した。くすり、と小さな笑い声が廊下に転がっていく。

 ふとリーフは考えた。もしも父と母が生きていて、あの絵画の世界へ自分が入っていくことができたら。きっとこんな辛い思いはしなかったろうし、姉との関係も違うものになっていたろう。
 だが、そうはならなかった。別の環境で、別の境遇で、様々なしがらみを生みながら、自分と姉は育つことになった。
 そんな姉と完全に心を通わせる日は、こないかもしれない。少なくとも、仲睦まじく話したり、大笑いするような関係には、なれる気がしない。距離を感じながらも、折り合いをつけて、付き合っていくしかないのだ。それほどまでに、心は遠く離れてしまった。

 しかし、見ているものが違っていても、自分と姉が喜びと悲しみを抱く人間であることに変わりはない。フィンの存在が、それを気づかせてくれた。――そして、彼に対する思いは、ふたりとも同じであった。

 立ち上がりながら、アルテナは言った。

「フィン殿は言っていました。あなたは、もう守護も必要ないほど立派になったと」 
「えっ……」

 驚いて動きを止める。リーフに対するフィンの態度は、物心ついたときから一度も変わったことがない。影のように寄り添い、守ろうとする。その存在を疎ましく思うことも、これ以上なく心強く思うこともあった。
 だから、彼がそのようなことを考えているなどと、リーフは想像したこともなかった。

 フィンに認められたうれしさがこみあげる一方で、淀んだ想いが澱となってわだかまるのをリーフは感じた。
 守護が必要ないと感じてさえフィンがリーフの傍に侍る理由。それは、ひとつしか考えられない。
 アルテナも、憂いた瞳で言葉を押し出した。

「私が言うにはおこがましいことですが……リーフ。どうか、彼を楽にしてあげてください。私には、いつか彼が消えてしまうように感じられます」
「…………」

 リーフは拳を握りこんだ。少し前の彼であれば、他人になにがわかると怒りを顕にしていただろう。しかし、アルテナの想いを知った今、リーフの胸の内に、不快な痛みがこみあげることはなかった。
 代わりに彼は、姉をまっすぐに見据えると、静かに言った。

「……姉上。そのことですが、折り入って相談があります」

 怪訝そうにする姉を前に、リーフはそれまでにあったことを、ひとつひとつ話していった。


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