夜明けの邂逅


 それは、遠い遠い、靄のかかった飴色の記憶。
 どこまでも続く緋色のカーペットの敷かれた廊下を歩いている。窓から注ぐ、白くやわらかい光。時折聞こえる、小鳥のさえずり。大人たちの穏やかな声。繋いでもらった母の掌の感触。ふんわりと包みこんでくるような匂い。

 世界のすべてに愛されていたころ、優しい声をかけてくれる人々の中で、とりわけ大好きだった人がいた。
 なにをしても怒らずに、はにかむような笑みを湛えて傍にいてくれた人。癖のない髪。困ったように瞬く瞳。群青色の服。不思議と安心できる、彼の落ち着いた雰囲気が、大好きだった。

 いまとなっては、名前どころか顔も思い出せないけれども。

「私はレンスターの騎士、フィンと申します」

 静かに名乗りを上げた騎士を前にして、アルテナは凝然と瞳を瞬くことしかできなかった。
 フィンは胸に手を当てたまま、伏せがちにしていた眼差しをゆっくりとあげる。
 視線を合わせることに得体の知れない恐怖を覚え、アルテナは目を泳がせながら居住まいを正すと、口を開いた。

「あなたがフィン殿ですね。……話は聞いています」

 このような時合に彼が会いにきた理由を、アルテナは察しようもない。だから、彼女はありきたりの言葉を唇に乗せることしかできなかった。

「いままで、弟を守ってくれてありがとう。礼を言います……」

 心にもないことを。そう、胸の奥底があざ笑う。
 自身でも嫌悪を覚えていたからだろう。フィンの静まり返った面持ちを見たアルテナは、刺されるような痛みを覚えた。

 このひとにだけは嫌われたくない。そんな、直感的な気持ちが、頭を一杯にしている。
 理由は分からない。彼の記憶は残っていない。ただ、自分はこのひとを知っているような気がする。

 記憶の彼方の、飴色の思い出。側にあった、優しい気配。

 彼は、こんなにも昏く疲れ切った気配を湛えているというのに。どうして、過去の情景が重なるのだろう。

「アルテナ様。私は、確かにリーフ様をお守りして今日まで参りました。しかし私は愚かにも、あなたがトラキアに囚われていたことに思い至りませんでした」 
「……謝る必要はありません。レンスターでは、私は死んだことになっていたのですから」

 彼は自分をどのような目で見ているのだろう。そう考えると、心の暗い部分が陰鬱に答える。――所詮、リーフにあだなす邪魔者としか思っていないだろうと。
 苦しさが投げやりな気持ちを呼び、アルテナはゆがむように笑いながら言った。

「――いっそ、本当に死んでいたほうがましだったかもしれませんが」

 後から考えれば、きっと自分はこのとき、否定の言葉を彼に求めたのだろう。この手を力強く握り、苦悩の海から救い出してほしいと。そう期待した。

 ――彼に甘えたかったのだ。いつか遠い昔に、そうしたように。
 しかし彼の薄い唇は、アルテナの望んだ言葉を乗せてはくれなかった。

「アルテナ様は聖女ノヴァの血を継ぐお方です。大切な御身をそのように仰ってはなりません」
「――」

 突き放された気分になり、アルテナは地面に視線を這わせる。さらにフィンは続けた。

「どうか、ご自分を卑下なさることなく、そのお力をリーフ様にお貸しください。トラキア半島の戦乱を終わらせるには、あなたの手助けが必要なのです」

 言葉が紡がれるごとに、頭が冷えていく。結局、だれもかれも、トラキアで育ったアルテナを受け入れてはくれない。レンスターの王女という枠に押しこめ、ノヴァの直系たる立場を利用しようとするだけだ。

 アルテナは、息を吐いた。東の空が白み、重苦しい雲の影を描き始めている。一日でもっとも気温の下がる時刻、彼女が唇の端から漏らした笑気は、凍てつくように冷たかった。

「もし、断ったら、あなたはどうしますか?」

 ゆるりと立ち上がり、ゲイボルグを固く握りしめる。

「あなたがたは、私をレンスターの姫だという。事実、そうなのでしょう。しかし私は、トラキアの姫として育った身。――あなたがたを裏切ってアリオーンの元へ向かってしまうかもしれません」
「……あなたは、そうはなさらないでしょう」
「なぜそう言い切れるのです!」

 惨めさが怒気となり、血液を沸騰させた。ゲイボルグが主の感情の高なりを受けて細く鳴き始める。アルテナを運命の鎖で締めつける、忌まわしく、呪わしい、聖戦士の武具が。
 こんなものなど、なければよかった。こんな人生など、なければよかった。自分は、生まれてくるべきではなかった――。

 しかしフィンは、たじろぐことなく淡々と答える。

「リーフ様が、あなたを放ってはおかれないからです」
「――!」

 視界が白む。もっとも聞きたくない名を耳にしたアルテナを、暴力的な衝動が襲った。槍の切っ先が鋭く輝く。
 鋼よりも重量のあるはずのそれを、羽根のような扱いで回してフィンの喉元に突きつけ、アルテナはうなるように言った。

「弟が放っておかない? そうでしょうね。私は弟にとって、ゲイボルグをもつ大事な駒ですから。――そうやってあなたがたは、私に首輪をかけようとする。まさに傲慢なレンスターの亡者にふさわしいやり方で!!」
「アルテナ様」
「あなたとなど話したくありません! 即刻、私の前から失せなさい。でなければ、祖国の槍に貫かれることになります!」

 アルテナの憎悪がゲイボルグに伝わり、妖気となってフィンの襟と髪を揺らす。持ち主の愛する者を屠ったという伝承とともに、戦場で何人もの血を吸った呪いの槍は、彼の首など撫でるだけで吹き飛ばすだろう。
 半分は、そうしてしまいたかった。彼の存在を、消してしまいたかった。

 なのにフィンは、それでも動揺する気配はない。自らの死を望んでいるのではと疑うほどの静けさで、輝くゲイボルグに目もくれず、アルテナを見返している。

 年齢を重ねた、群青色の瞳。奥にある感情を他者に伺わせない、静謐で、哀しい瞳。

 次第に震えだす切っ先を悟られぬよう、アルテナは腕に力をこめる。だが、渾身の力をかけるごとに、視界がゆがんでいく。目が、世界を見ることを拒否しているのだ。歯をどれだけ食いしばっても、涙が次々と溢れてくる。

 たすけて。
 だれか、たすけて。

 溺れるほどの苦しみにあえぎ、とうとう槍を取り落としそうになったそのとき、フィンが口を開いた。

「――私に、あなたをお救いすることはできません」

 はっきりとした絶望が、耳の奥に染み渡る。
 言葉にならない思いが、滂沱たる涙となって流れ落ちた。熱くなった喉が、引き攣れたつぶやきを漏らした。

「いや……」

 そんなことを言わないで。私をここから連れだして。
 しかし、それ以上は言葉にならない。

 湧き出る想いに誘われるように、アルテナの心の奥底で、忘れかけた記憶が瞬きだした。
 靄のかかった飴色の記憶。その先で、傍にいてくれた、大好きなひとの影。
 私はこのひとを知っている。私はこのひとが、――大好きだった。

 そう。このひとは、あのときと同じように、困ったように目を瞬く。そして、ゆっくりと語り始める。

「私は先程も申し上げたとおり、あなたの命がもはやないものと思っておりました。――そして私は、キュアン様の遺言を守ることしか頭にありませんでした。いつの日かレンスターが復興するまで、リーフ様をお守りする。その使命を全うすることが、私にとって生きる目的であったのです」
「――」
「しかし、すでにリーフ様は私の守護も必要ないほどに立派になられ、王への覇道を進んでいらっしゃっています。私の役目は、もはや終わったも同然。――私に残されたものは、いくつもの後悔と、懺悔と。朽ち果てるまで戦うしか脳のない、呪われた身のみです」

 濡れた頬を、冷たい風が容赦なく叩く。けれども風は頬を冷やすことなく、過去の情景が温かな奔流となって、次々と流れこんでくる。
 荒野をさまよい、乱世になぶられ、ぼろぼろに傷ついた姿であっても。当時の面影は、その瞳にかすかに残っている。

「リーフ様は私が語るのもおこがましいほどに、お優しく、強いお方です。あの方こそが、きっとアルテナ様をお救いになるでしょう。非才な私には、あなたにお詫びすることしかできません……」

 そこまで言うと、フィンはわずかに目を伏せた。

「長い間、あなたをお救いできず、申し訳ありませんでした。――いまは、ただ」

 青い前髪が、瞼にかかる。
 刺すように鋭利で、それでいて澄んだ空気に、彼の言葉は静かに響いた。


「ただ、あなたが生きていらしたことを、心からうれしく思うのみです」


 そのとき、彼の目尻に浮かんだものは何だったろう。考える余裕は残っていなかった。身体が震え、目の奥が焼けるように熱かった。
 引きつった嗚咽が、喉の奥からこぼれる。途切れ途切れの無様な泣き声が、食いしばった歯列の合間から漏れでてしまう。

 だれかに肯定してもらいたかった。どこに行くこともできず、何者にもなれない、矮小な己の有り様を。
 ひとりではないと、言ってもらいたかった。
 なのに、周囲は遠巻きに自分を眺め、距離をおくばかりで。だれにも言ってもらえなかった。

 目の前の騎士は、アルテナを救うことができないと言う。ならば――。
 ならば、どうして、彼の言葉でこんなにも救われた気になるのだろう。

「……かすかに、記憶に――残っています」

 震える声で、アルテナはつぶやいた。

「フィン……幼かったころの私が甘えてばかりいた、優しいひと……変わりませんね、あなたは……」

 過去の穏やかな様子など、もはや見る影もないほどの薄闇をまとっていても、彼の心の根底までは変わらない。
 ただひとり、騎士としての態度を貫きながら、立場やしがらみを越えた先で、アルテナの存在を喜んでくれる。

 足が砕け、崩れそうになったそのときのことだった。階下へ続く階段から、茶髪の少年が姿を現したのは。

「フィン、ここにいるのか――、っ!!?」

 リーフだった。ゲイボルグを突きつけられたフィンを見て、さっと顔色を変える。
 数秒、判断が遅れた。どんな弁明をすればよいか、鈍重な頭は答えを返さなかった。アルテナは動けない。状況を判断したリーフが、敵意を瞳に宿したのは当然だろう。その手が剣の柄にかかる――。

 動いたのはフィンだった。
 もはや言葉が通じる段階を通り越していると察したのだろう。彼は思いがけない行動にでた。
 突然、腕を伸ばすと、ゲイボルグの柄を握り、切っ先を自らの胸元から外したのである。

「っ、いけません、フィン殿――!」

 思わず叫んでいた。聖戦士しか扱うことの許されぬ伝説の武具は、常人からの接触をひどく嫌うのだ。ゲイボルグは激しく鳴動し、青い炎を噴き上げた。

「フィン!!」

 剣を抜き放ったリーフが、必死の形相で駆け寄ってくる。アルテナも暴走するゲイボルグを鎮めようと手に力をこめる。だが、間に合わない。

 石の床を削る爆音が、耳をつんざいた。
 瞬く間に地槍は強烈な光を放ち、世界が夜明けより明るい白に染まり――。

 あとはどうなったのか。視界を殺されたアルテナには、なにもわからなかった。


 続きの話
 戻る