嵐は去らず


「姉上」

 呼吸を整えてきたというのに、思ったとおりの声がでなかった。
 その事実に内心で片頬をゆがめつつ、リーフは呼びかけに応じて振り向く姉と対峙した。

 今朝方に制圧したトラキア城は、猛烈な嵐の中にある。風水師によれば明け方には止むということだが、すでに辺りは夕刻にも関わらず真の暗闇に閉ざされていた。

 アルテナはゲイボルグを手に携えたまま、じっとこちらを見返してくる。緊張していることは、一目で知れた。だが、怯えて視線を逸らすようなことはしない。固く縛られた唇を見つめ、リーフは問うた。

「なぜ、アリオーンを逃がすような真似をなさったのです」

 攻城戦でのリーフは、再三の休戦の使者を無視して向かってくる竜騎士団をかき分け、アリオーンただひとりを狙ったのだ。トラキア王家の最後のひとりである彼さえ押さえてしまえば、竜騎士団も降伏するより他ないだろうと踏んでの選択だった。

 しかし、結果的にリーフはアリオーンと遭遇することなくトラキア城を占領した。アルテナ率いるセリス軍の別働隊がアリオーンの本隊を北部に誘い出していたことを知ったのは、すべてが終わってからであった。
 そしてアリオーンの本隊は、アルテナたちが直に接触する前に、忽然と消えてしまったという。グランベル皇帝ユリウスが連れ去ったらしいという噂だけを、重たい夜霧のように残して。

「私は、セリス様の命を得て作戦を実行したまでです。意見があるなら、セリス様に――」
「逃げないでください、姉上」

 言い放つと、アルテナの顔がわずかに怯んだ。がたがたと、風雨の吹きつける窓枠が耳障りな音を立てている。

「今回の戦いで、私はアリオーン王子と決着をつけることができませんでした。おかげで、再び私たちが相まみえるまで、トラキア半島の内乱は長引くことになったのです。――それまでに一番苦しむのは、半島に生きる民たちでしょう」

 感情を殺し、王子の口調でリーフは告げる。アルテナとセリスが余計なことをしなければ、トラキア半島の長い戦乱の歴史に終止符を打てたのだ。無理を押して戦ったにも関わらず、最後の最後で邪魔に入られたリーフの胸の内には、怒りの業火が激しくうねっていた。

 だがアルテナは、一度こちらを強い眼差しで睨みつけると、じわりと言葉で斬りこんできた。

「ならば」

 紅玉の瞳を光らせ、アルテナは低く問う。

「ならば、問います。あなたの言う決着とは何ですか? あなたは単に、自分が王となるために、アリオーン王子を殺したかっただけではないのですか」

 心の臓に直接触れられたような嫌な感覚。呼気を止められ、顎を引いたリーフは必死で声を押し出した。

「――、違います。私はただアリオーン王子を止めるつもりで」
「それが本当にあなたにできたのかと問うているのです」

 アルテナの声に熱がこもる。続く糾弾は、間違いなくリーフの胸を刺し貫いた。

「天槍グングニルを操るアリオーン王子には、私でさえ太刀打ちできません。それを、ゲイボルグすら持たないあなたが殺めずに止められると、確証があったのですか」
「――!」

 思考が四散し、頭の中が真っ白になる。吹き荒れる暴力的な衝動を歯を食いしばってこらえながら、リーフは姉を睨みあげる。
 ゲイボルグを手にした姉の肌は、持ち主の戦意を宿してほのかに輝きはじめていた。ゲイボルグが細く鳴いているのか、耳鳴りが頭の中に響く。そして、姉の言葉も同様に、痛いほどに鳴り響く。

「アリオーン王子との和解の道は、かならずあるはずです。だからこそ私は、あなたが短絡的に彼を殺すなど、許すことができないのです」

 聖戦士の直系たる姉の姿は、まさにノヴァの再来と呼ぶにふさわしく、美しく気高い。見ているだけで、どうしようもなく泣きたくなる。
 そして、言っていることも正しい。リーフは心のどこかで、戦いを終わらせるにはアリオーンを殺すしかないと考えていた。同時に、それが自分に与えられた最後の試練であり苦しみであると。
 そんなリーフの高慢な心を、アルテナの言葉は打ち砕いたのであった。

 ――おまえごときの力で、アリオーンを倒すことはできないのだと。

「姉上は」

 雷霆が、重たく大地を打ち叩く。震えそうになる声を必死に抑えながら、リーフはうつむいてつぶやいた。

「姉上の心は、――やはり、トラキア王国のものなのですね」
「!」

 ふと、姉の身を覆っていた燐光が霧散した。だがそんなことはどうでもよかった。事実はひとつ。アルテナは自分よりも、アリオーンを家族として捉えているのだ。

 姉の歩んできた人生を思えば当然のことだった。しかし、それをわかりきった事実として受け止めるには、胸がちぎれるほどに苦しい。
 語れば語るほど、聖戦士ではないにも関わらず王として名乗りを上げた己の異質な姿が浮き彫りになるようで。本物の聖戦士に、自らの有り様が否定されるようで。

 リーフは儀礼的に会釈をすると、踵を返してアルテナの元を辞した。呼び止められたのか、そうでなかったのか。少なくとも、心に声は届かなかった。

 薄暗い廊下をひたすらに歩く。だれかとすれ違ったかもしれないが、顔を合わせる気にもなれなかった。
 割り当てられた自室の扉を力任せに開けると、びくりと中で顔をあげた者があった。夜闇にもまばゆい金髪が揺れる。ナンナだった。

「リーフさま――?」

 作業途中の繕い物をテーブルに置いたナンナが、立ち上がる。
 つかつかと足音を立てて歩み寄ったリーフは、そのままナンナを抱きすくめた。

「っ!?」

 身をこわばらせるナンナに構わず、腕に力をこめる。けぶる髪に鼻を寄せると、息を呑む気配があった。すべてを無視して、深く呼吸を繰り返す。

「ごめん、ナンナ」

 ぬくもりがようやく服越しに伝わってくるほどになってから、ようやくリーフは声を押し出した。

「もうすこし、このままでいさせて」

 抱きしめたナンナの表情は、わからなかった。ただ、覗きこむことはできない。そうすれば、涙の滲んだ自分の情けない眼を見られてしまう。

 そのとき、不意にナンナの身体から力が抜けた。かわりに、するりと細い指で背中を撫でられる。
 時が止まったような暗がりの中で、両の手がリーフの背を伝う。片手で、軽く叩かれる。

「はい、リーフさま。いくらでもどうぞ」

 囁くような声。たったそれだけを言うと、ナンナは逆にリーフを抱きしめてくれる。
 途端に鼻の奥が詰まって、嗚咽が漏れそうになった。

 血を吐くような気持ちで戦って、抗って、どうしてこうも悲しい想いをしなければならないのだろう。
 自分より小さなナンナに、すがるようにしてリーフは眼を閉じた。



 まるで世界が終わってしまったかのような暗闇に支配された夜だった。トラキア王国の制圧を心から歓喜する者は、だれもいない。疲労と、苦しみと、やるせなさの中で、時間だけが刻々と過ぎていく。

 夜半に雨が上がり、風が荒涼とした大地を吹き抜けるようになっても、トラキア城は死んだように静まり返っていた。
 部屋でリーフがナンナを抱きしめたように、城の屋上でぬくもりを求めてうずくまる人影があった。アルテナである。
 ただし、その手が抱くものは、自身の膝とゲイボルグであった。瞳は薄く開いたまま、憂いに沈んでいる。

 はたはたと、寂しげに服と髪がなびいている。縁に腰掛け、闇の冷たさに身を浸した彼女は、いつ来るとも知れぬ夜明けを待っているのだろうか。

 獣脂を染みこませた松明が、彼女の影を長く長く伸ばしている。
 そこに、もうひとつの影が現れた。

 別段、気配を隠した様子はない。アルテナも、すぐに気づいただろう。あるいは、自分に放たれた暗殺者だと思ったかもしれない。邪魔だとみなされる理由、殺される理由なら、幾通りも思いつく。しかし、アルテナは顔すら向けず、疲れた口調でこう言っただけだった。

「――だれ?」

 影は、しばらく答えなかった。落ちた沈黙に息を抜いたアルテナが胡乱げに振り向こうとしたとき、ようやく返答があった。
 思いがけぬその声に、アルテナは肩を震わせ、その場に硬直した。

「私はレンスターの騎士、フィンと申します」

 恐る恐る視線を向けた先。そこには、瞳に影を湛えた青髪の騎士が、胸に手を当て、音もなく佇んでいた。


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