迷える聖女


 トラキア王国の要塞カパトギア城は、険しい渓谷の麓に沿うように建ち、周辺の街道に監視の目を広げている。
 山の合間から絶えず吹きつける風の音は、まるで魔女の怨嗟のようだ。おどろおどろしい声を鳴り響かせ、赤い砂を巻きあげては城に吹きかけている。

 しかしそんな恐ろしい景観も、アルテナにとっては幼少時から見慣れたものだ。いまさら心を揺らすことはなにもない。

 ただひとつ、そこの主がすでにトラキア人でないという事実を除けば。

ごうと風を唸らせ、飛竜が翼を膨らませながら着陸する。トラキア王国の要塞には、かならず飛竜用の広い高台が設けられているのだ。
 手慣れた手綱さばきで難なく地に降り立ったアルテナは、出迎えた面々を見て、驚きに足を止めた。

「アルテナ王女ですね。待っていました。あなたとこうして話ができることを、うれしく思います」

 吹きすさぶ風に青い髪を遊ばせながら、先頭に立った青年が臆した様子もなく近づいてくる。派手でも無骨でもない、少女にすら見間違えそうな、穏やかな物腰。澄んだ瞳を細め、表裏のない微笑みを湛えた彼こそが、解放軍の盟主セリスであると、アルテナは直感した。

 彼の隣では、エダが不安げな眼差しをくれている。アルテナが槍の石突を地につけ、和平の意思を示すと、彼女は目を伏せたまま走り寄ってきて、アルテナの飛竜の手綱を取り、「世話はお任せください」と小声で言った。セリスとの講和が決裂した場合に備え、いつでも逃げられるようにしておくと、その瞳が暗に告げていた。

 そんな彼女の心遣いに目礼を返したアルテナは、静かに進み出てセリスと向きあった。このように砂っぽいところまで盟主自ら出迎えられるのは、正直意外であった。
 すると、アルテナの意を汲んだように、セリスが苦笑してみせた。

「慌ただしいことですが、こちらもすぐに出立する予定なのです。すでにリーフ王子はルテキア城の制圧を終え、グルティアの北部まで進軍しているので」
「――!? もうそんなところまで?」

 アルテナの驚きを当然のように受け入れ、セリスは手振りで彼女を奥へいざなった。

「続きは歩きながら話しましょう。ハンニバル将軍が奥にいらっしゃいます。彼と共にいれば、あなたも安心できるでしょうから」
「…………」

 セリスの口調は、こちらを気遣う想いにあふれている。投降してきた敵軍の王女など、信用できるまで軟禁しておくのが定石であろうに。
 アルテナはコクリとうなずいて、注意深くセリスの後を追った。

「私はハンニバル将軍の軍勢を止めるため、この城の近くに残っていました。その間、リーフ王子は先んじてトラキア城を取るべく軍を進めていたのです」

 自分が真偽を確かめ、父や兄と思っていた人々と言い争い、――そしてトラバント王が戦死するまでに、事態は大きく動いていたようだった。

 リーフ王子。その名前を聞くだけで、アルテナの心は重く沈む。
 自分を姉と呼んだ、あのときの静かな声。その内に秘められた彼の想いの正体を、アルテナは知らない。しかし、自分の立場が歓迎されていないことだけは、はっきりと理解した。
 当然であろう。リーフにとってトラキアは憎い仇だ。トラバント王をリーフ自ら屠ったという話からも、その憎悪がみてとれる。

 自分が何者なのか、何者になるべきなのか、アルテナは見失いつつある。父や兄、祖国といった拠って立つべき柱は、もはやばらばらに砕け散ってしまった。

「……弟は、優秀な指揮官なのですね。だれも成し得なかったトラキア侵攻を、こうも簡単に進めてしまうなんて」

 投げやりなつぶやきに、セリスは真摯な面持ちで返した。

「それは違います。リーフ王子の戦いぶりは、見ていて痛々しいほどのものです」
「どういうことですか?」
「彼は敵将を打ち取ることだけを優先し、ろくに補給もせず強行軍を続けています。捕虜は残らず解放しているそうです。糧食はすべて持参のもので賄い、制圧した城からの徴発は一切行っていません。本人は、何日もほとんど食べていないと聞いています。――王女、彼の意図がわかりますか」
「――?」

 セリスは痛ましげに長いまつ毛を伏せ、続けた。

「彼は一刻も早く、半島内での戦いを終わらせたがっているのです。同じトラキア半島の人間同士で、これ以上血を流す必要はない。トラバント王の亡きいま、トラキア城に至り、アリオーン王子さえ降伏させれば、もう互いに戦う必要はなくなる。――そう言っていました」

 だからこそリーフは、セリスの力を借りて猛将との誉れも高いハンニバルを抑えつつ、自分は茨の道を承知で敵国の深くまで割り行っていった――。セリスはそう説明をしてくれた。
 弟の眼差しは、自分よりもずっと先の未来を見据えているのだ。ふたつの国の間に横たわる憎しみやわだかまりを越えていくために。
 アルテナは、知らずと自らの両腕に手を回していた。

「私は、できることならトラキア王国と戦いたくなかったのです。しかしリーフ王子の考えと覚悟を聞いて、この作戦を受け入れました。彼は、本当にすばらしい君主です。ただ、彼がもっとも苦しい戦いの中に身を投じていることも、どうか知っていてください」
「…………はい」

 弱々しい返答が、口の端からこぼれる。廊下を歩きながら、セリスは話題を変えてきた。

「でも、トラバント王はいったい、どういうつもりだったのでしょう。ご両親を殺しておきながら、幼いあなたを国に連れ帰るなんて……」
「父は、ゲイボルグを手中に収めたいがために、私を連れ帰ったのだと思います」
「つまり、あなたを利用しただけだと?」
「…………」

 腕に指を食い込ませるアルテナを見て、セリスは眉を下げた。

「しかし、アルテナ王女。いま私と話しているあなたは、誠実で真面目な方だ。とても私利私欲のためだけに動く男に育てられたようには見えません」
「父は…………」

 アルテナは言いかけて、強くかぶりを振った。

「わかりません。私にとって父――いえ、トラバントは、恐ろしいところもありましたが、親として尊敬に値する人でした。でも、私が真相を知ったときは、まるで人が変わったようで。あれが、トラバントの本性だったのかもしれません」

 酷薄に笑う口元が脳裏に浮かび、怖気が背筋を這い上る。あのとき、自分はトラバントにとって守るべきものの対象から外れてしまったのだろう。他の国の民と同じ、支配し、征服する相手に向ける眼。アルテナに向けられたそれは、すべての終わりを告げる眼差しであった。

「トラバント王――。よくわからない人ですね」

 自分の少ない言葉から、セリスは孤独なトラキア王の内面を測りかねたらしい。細い眉をわずかに寄せてつぶやくと、こちらに視線を向けてきた。

「ただ、私は、トラバント王もリーフ王子も、目指す先が同じであるように思えるのです」
「え?」
「トラバント王はゲイボルグを手中にすることで、トラキア半島の統一を願ったのでしょう」
「……はい。肥沃な北の土地と、金銀の眠る南の土地。ふたつの土地を、聖戦士の二槍の威光で統治するのだと、よく語っていました」
「リーフ王子も、まったく同じことを言っていました」
「――」

 腕の力がするりと抜け、アルテナは無防備にセリスを見返した。

「やり方は違うのでしょう。彼は人を欺くようなことはしません。でも、半島統一による平和という点では、目指した夢は同じなのではないかと思うのです」
「では、なぜ戦わなければならなかったのですか」
「その答えは、私も探し続けています。まだ、見つかりませんが……」

 声量こそ大きくないものの、セリスの言葉は耳朶に染みて心に渡る。どこか浮世離れした雰囲気と、相手を包みこむような表情が、そう思わせるのだろうか。不思議と、続く先に耳を傾けてしまう。

「アルテナ王女。どうか、リーフ王子と向きあってください。あなたがた姉弟がいがみあう理由は、もうどこにもないのですから」
「――でも」
「それに、このままではリーフ王子はアリオーン王子を討ち取ってしまいます」
「!」

 ぞっと首筋が冷え、全身がこわばった。セリスは無力を噛みしめるようにうつむく。

「トラバント王が討ち取られて何日か経ちますが、トラキア軍に降伏の気配はありません。きっと、アリオーン王子が指揮をとっているのでしょう。私たちも、講和の糸口を探しているのですが――」
「駄目です! 兄上――アリオーン王子だけは!」

 別れ際の兄の苦しげな瞳が思い出され、アルテナは足を止め、悲痛に顔をゆがめた。

「お願いします。アリオーン王子の命だけは助けてほしいのです。私が、私が降伏するように説得しますから――!」
「アルテナ王女……」
「どうか、お願いします。このとおりです」

 唇を噛みしめ、セリスに懇願しながら、アルテナは背の高い兄の後ろ姿を想った。
 あの兄は、本当の兄ではない。優しく自分を抱いてくれた母のぬくもりも。憧れだった父の横顔も。幼いころの記憶は、はっきりと蘇っている。それらが、おまえはトラキアの人間ではないのだと告げてくる。
 そうだ。自分はトラキア人ではない。レンスターの人間だ。本来の故郷の者たちが、それを歓迎してくれなくても。もはや事実は覆しようがない。

 しかし、たとえ偽りの幸福だったとしても。飛竜の乗り方を教えてくれた兄を、槍の扱いを教えてくれた兄を、――笑って頭を撫でてくれたあの兄を、失うわけにはいかなかった。

「……わかりました。アリオーン王子は立派な方だと聞いていますし、私も戦いたくありません。あなたがそこまで言うのなら、共に止めに行きましょう」
「――! はい。ありがとうございます、セリス公子」
「こちらこそ、あなたの力を貸してください。リーフ王子に、その手を汚させないためにも」
「――」

 胸を押される感覚。アルテナは言葉を詰まらせた後に、肯定の返事をした。
 そんなアルテナの胸中をどこまで察したのだろうか。セリスはひとつうなずいて、再び歩きだした。

 彼が一歩踏み出すごとに、青い髪が揺れる。まるできらめきを振りまくような青年だ。人々が彼を光の公子として崇め、従う理由が、アルテナには理解できた。人を惹きつける優しさと懐の深さが、セリスにはある。

 しかし、リーフのため、という言葉の違和感だけは離れることがなかった。
 アリオーンを救いたい。それは紛れもない事実だ。しかしリーフに対して、どのような感情を抱けばいいのか――アルテナは、いまだに気持ちの整理をつけられずにいた。


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