血煙と、迷いと 「くそっ、どうしてこうなるんだ!」 「キュアン……」 夫の傷を癒しながら、エスリンが悲しげに目を伏せる。 シグルド軍の野営地は、悲惨な状況であった。マディノ城から間断なく攻め寄せる軍勢によって、次々と負傷者が運ばれてくる。アグストリア軍とグランベル軍の戦いは、混戦の模様を呈していた。 そのとき、一頭の天馬が降りてきた。シレジアの天馬騎士フュリーだった。 「皆さん、マディノ城は制圧されました! しかしシャガール王の姿はなく、シルベール城に逃亡したものと思われます」 青ざめた表情で、フュリーは続けた。 「シルベール城からはクロスナイツが出撃してきています。キュアン王子の指示に従い、ただちに西側に防御陣を如くようにとのシグルド様からの伝令です!」 「くそっ!」 とうとう、最悪の展開を迎えてしまった。キュアンは怒鳴り散らしたくなる衝動を抑え、自ら先頭に立つために立ち上がった。 「キュアン、どうか無事で……」 「おまえも絶対に一人になるなよ」 妻の痛ましげな視線に見送られ、キュアンは自らの馬のもとへ走った。口の中で、怨嗟の声をあげながら。 「エルトシャン、シグルド……どうして俺たちが戦わないといけないんだ。この戦いになんの意味がある!」 フィンにも、これが誰も望まぬ戦いであったことは理解できた。ただ、まだ経験の浅い彼には、血煙や爆炎の中で、自分を奮い立たせるだけで精一杯であった。 (ラケシス様は、どうしているだろう……) ふと脳裏に過ぎった問いを、フィンは意図してかき消す。それは、自分が考えるべきことではない。 心配せずとも、彼女はきっと別の野営場で、負傷者の救護をしているはずだ。身重のエーディンが動けない今、癒やしの杖を使える人材は貴重なのだ。 西方のシルベール城へ向かうには、南に広がる森林を避けていく必要がある。 隊列の左端を守っていたフィンは、不意に森の奥で戦闘が起きていることに気づいた。 すぐに馬を寄せて報告すると、キュアンは馬上で険しい顔をした。 「敵か味方かわからないな。山賊の可能性もある」 「私が行って、見てまいります」 「……わかった。二騎、連れていけ。クロスナイツは近くまできている。急ぐんだぞ」 「はい!」 つけてもらった兵士とともに、フィンは馬を駆って林道を進む。しばらく行くと、荒々しい剣戟の音と馬の悲鳴が聞こえてきた。 「なっ……?」 開けた場所に出ると、広がる惨状にフィンは色を失った。 大量の屍が積み上がり、血の臭いが充満している。そこに、ぼろぼろに傷つきながらも剣を振るうベオウルフと、負傷した白馬、そしてラケシスがいた。 こめかみから血を流したベオウルフが、こちらに気づいて叫ぶ。 「レンスターの騎士団か!? 見てねぇでさっさと助けろ!!」 フィンは一瞬の忘我から立ち直ると、すぐさま指示を下した。 「一騎はキュアン様に連絡を。もう一騎は来てください!」 「はっ」 素早く一騎が反転し、駆け去っていく。フィンは無駄のない動きでベオウルフの助太刀に向かった。 「フィン……!」 ラケシスが驚いているが、構っている余裕はない。素早く三人を仕留めると、ベオウルフはヘッと笑った。 「なんだ、きれーな顔にしちゃやるじゃねぇか」 「この者たちは何者です」 「シャガールが雇った山賊どもさ。この森に潜んで、俺たちを横から叩くつもりだったらしい」 フィンはぞっと背筋が冷えるのを感じた。あの状況で森の中から襲われていたら、どのような被害を被っていたかわからない。 「ではなぜ、あなたがたがここに?」 「んなこた――そこのバカな姫さまに聞いてくれよッ!」 鋭い一閃で、切り結んでいた山賊の首が飛ぶ。瞬間、おびただしい量の血が地面に飛び散る。 「ひっ……」 ラケシスの短い悲鳴。フィンでさえ、わずかに眉を潜めた。ベオウルフの戦い方は、戦場を好む傭兵らしく、一分の容赦もなかった。 山賊たちにも、動揺が走る。中には逃げ出す者もいた。だが、頭領らしき男が馬の上から叫ぶ。 「うろたえんな! 相手はたかだか四人、しかも一人はノディオンの姫だ! 捕まえたら、一生遊んで暮らせるだけの金になるぜ!」 にやにやと嗜虐的な笑みを浮かべ、頭領は続けた。 「そら、一気にかかれ! 一人ずつ行くからやられるんだ! 三人で一人を殺せっ! 馬を狙うんだ!」 貴族に雇われるだけあって、頭の回る男のようだった。山賊たちの動きが変わり、フィンたちは一気に追い込まれた。 「がっ!」 共に来ていたレンスターの兵士が、肩を切られて落馬する。 「っ……おやめなさい!」 甲高い声に振り向いたフィンは、愕然とした。兵士を庇って立ったラケシスが、剣で山賊の胸を刺し貫いたところだった。 人を殺すのは初めてだったのだろう。一瞬、顔色を変えたラケシスは、すぐに覇気を取り戻して剣を引き抜いた。白磁の頬に、返り血が踊る。 「……っ!」 視界が赤く染まる。彼女を血で汚してしまったことが、衝撃だった。 しかしラケシスは猛々しく敵に向かっていった。その唇を、自嘲に歪ませながら。 「そうですっ、勝手に城を出たわたしがばかだったのです! わたしはひとりで兄様に会いに行くつもりでした。そこで、この者たちと鉢合わせになり――」 銀にきらめく剣を振るうたびに、金髪が美しく舞う。そのあでやかさに、山賊たちの動きが鈍る。容赦なく、ラケシスは剣を敵に突き刺した。 「しかし、これはわたしの戦いなのです! わたしは、兄様の元へ行かなければならない! 兄様を説得し、この馬鹿げた戦いを終わらせるのです!」 「頭おかしいのか、あんたは!?」 敵の猛攻で馬を失ったベオウルフが、地に降りて敵を切り伏せる。 「てめぇのケツも拭えねぇお姫様が粋がってんじゃねぇ! 周りが迷惑なんだよ! ああっ、追いかけてこなけりゃよかったぜ!」 嘆くベオウルフに、ラケシスは笑みさえ浮かべながら返した。 「結構です、嫌ならわたしを置いて、どこへなりとも逃げなさい! わたしはもう逃げない。わたしの力で戦う。それで死すなら、わたしの運命もそれまでだったということです!」 「かーっ、だれか殴れ、この夢見がちのガキをよ!?」 「だって」 その先は、ベオウルフに届くことはなかった。 だが、不意に振り向いたとき、フィンは見てしまった。 彼女の唇が、小さく紡いだその言葉を。 「……兄様を失えば。わたしは、本当にひとりぼっちだもの」 心臓が、どくりと音を立てた。 肚の底の、もっとも熱い部分が、胸へとせり上がってくる。 いつか、自分には不要と仕舞いこんでいた、その感情が。 (私は、レンスターの騎士になる者だ) 自らに言い聞かせるように、フィンは心でつぶやく。 (ラケシス様の前で、恥じることのない騎士になると……誓った) その誓いを思えば、どんな苦難も辛いとは思わなかった。 ただ、彼女の微笑みを見ることができるなら。 しかし、いま。ラケシスは頬を震わせ、涙をこらえながら、ひとりになりたくないと叫んでいる。 ならば。 ならば――、騎士としてすべきことは、ひとつではないか? フィンは素早く手綱を操り、ラケシスの元へ駆け寄った。 「おい、あんた、なにを――」 ベオウルフの表情が驚愕にひきつる。 「きゃっ!!」 馬から身を乗り出したフィンは、ラケシスの腰を掴んで馬上に引き上げた。 「おい、てめぇ、まさか……、よせっ!」 「彼女を兄君の元にお連れします! あなたは我が軍と合流してください!」 「フィン……!? あなた、どうして」 腕の中から、ラケシスの混乱と驚きが混じった声があがる。しかし答えている暇はなかった。 「はっ!」 喉の奥から気合を放ち、馬の腹を蹴る。 甲高くいなないた馬は、山賊の頭の上を一息に飛び越えて林道へと走った。 「なっ……!? 逃げやがった! 追え、追えーっ!」 後方から、頭領の激しい声。 「フィン、これは……」 「しゃべらないでください! 頭を低くして!」 不敬を忘れて彼女の頭を下げさせると、フィンは左右に目を走らせた。 この辺りはあの山賊の縄張りらしく、山賊たちは林中の戦いに慣れさせた小柄な馬に乗り、こちらに近づきつつある。 フィンは細く息を吐き出しながら、主君からもらった槍を両手に構えた。 続きの話 戻る |