過去はすでに、夜闇に溶け果てて 「アルテナ王女が……!? フィン、それは本当なのか!!」 「グレイド、声が大きい」 自身の腕に包帯を巻く手を止めてたしなめると、グレイドは声に詰まり、さっと口元を隠して周囲を伺った。ミーズ城付近に張られた野営地の天幕のひとつである。フィンが人払いをしていたのが功を奏し、幸い、聞き咎める者はいないようだった。 「確かに、考えられないことではない。しかし……どうしてその可能性にだれも気づかなかった……いや、問題は今後のことで……ああ、くそ! 考えがまとまらん!」 さすがにこの報は、グレイドの冷静さをも吹き飛ばしたらしい。頭をぐしゃぐしゃにかき回して椅子に座りこんだグレイドは、荒っぽい仕草で椀の水を干した。 マンスターでのトラキア軍の奇襲を退けたリーフは、思いきった策を講じていた。 彼はセリスの合流を待たずに打って出ると、ミーズ城まで一気に制圧してしまったのだ。風の勇者セティの助力があったとはいえ、電光石火ともいうべき進撃は、各国に舌を巻かせる手腕であった。 同時に、この行いでリーフのトラキア王国に対する意思は明らかになった。彼は自ら剣をとって、トラキアに侵攻する道をとったのである。 軍略的にいえば、帝国との戦いの最中で背後からトラキア軍に攻められればひとたまりもない。それを見越して初めにトラキア王国を叩いておくのは、指揮官として当然の選択といえる。 しかし歴史的背景を鑑みれば、実質的な北トラキアの盟主となったリーフが強硬路線を選んだことによる影響は、途方もなく大きい。 トラキア王国は当然ながら、リーフを傲慢なる侵略者として強く非難し、徹底抗戦の意思を表明していた。 「だがな、フィン。果たしてそれは、本物のアルテナ王女なのか? 単なるおまえの見間違えということはないのか」 「……グレイド。口を押さえておけ」 「は?」 「すでに今朝方、リーフ様がアルテナ様に直接、接触なされた」 「な――!?」 あらかじめ言い含めていた分、グレイドの反応は椅子から転げ落ちる程度で済んだ。そうでなければ、フィンに掴みかかっていただろう。 「お忍びで敵地に踏みこまれ、敵軍を率いていたアルテナ様と密談の場を設けた。アルテナ様は、ひどく取り乱されたご様子だったが――トラバント王に真偽のほどを確かめると言い残され、撤退されていった」 密談の場には、フィンはもちろん、軍師アウグストなどの首脳陣も同行した。 十五年ぶりに会うアルテナは、はっとするほどキュアンの面影を色濃く受け継いでいた。はじめはリーフの語る事実を受け入れられずにゲイボルグを突きつけたが、フィンが前に出た途端、彼女は瞳を大きく揺らして槍を取り落としたのだった。 そのまま、アルテナはこちらを拒絶するようにして、飛竜に乗って飛び立ってしまったのだ。すべてを確かめてくる、とだけ言い残して。 「……なるほど。連中の足並みが揃わなかったのは、そのせいか。ここまで簡単に攻められるなんて、おかしいと思っていたんだ」 将を失ったトラキア軍に規律だった動きは望むべくもなく、今日の戦いでは始終レンスター軍が優勢にあった。 さらに、明朝までにはセリス率いる解放軍の本隊が合流すると情報が入っている。レンスター軍の士気は、依然、高く保たれている。 しかし――戦う相手にレンスター王家の、しかもゲイボルグの継承者がいると知れ渡ったとき、兵の示す反応は、未知数であった。 「リーフ王子は、アルテナ王女をどのように扱うつもりなのだろうか?」 「すでにリーフ様はレンスターの王位継承者としての儀式を終えている。いまさらアルテナ様に後継者の地位を渡されはしないだろう」 言いながら、フィンはアルテナと向き合ったリーフの横顔を思い出していた。 あのときの様子を思えば、ナンナとデルムッドのぎこちない再会など、かわいいものだった。リーフは、家族としてではなく、一国の将としてアルテナと向き合っていた。自らの想いを王の仮面で隠さなければ、己の足で立っていられなかったのだろう。 その後ろ姿からかすかに覗く拳は、苦悩に震えていたものだった。 だが――。フィンは、よどみなく続けた。 「むしろ、これはトラキア半島の統一にあたって好都合だ。トラキア王国を降伏させ、ゲイボルグとグングニルの二槍を手中におさめることで、リーフ様の半島の頂点に君臨する王としての名分も明らかになる。リーフ様の血統の弱さを憂う国内外の民も、円滑に納得させることができるだろう」 「……おい、フィン。おまえ、あの腐れ坊主のアウグストのようなことを言っているが、自覚はあるか」 対するグレイドの返答の声色が、低くなる。 わずかに冷えた空気の中で、フィンは包帯を始末する手を止め、グレイドの視線を正面から受け止めた。 「――それがリーフ様のご意志だ」 「相手はアルテナ王女だぞ。ゲイボルグを受け継ぐキュアン様の娘御だ。わかっているのか。おまえはそのお方を、駒のように語っているんだぞ」 「私は臣下として、リーフ様の采配に従う。これまでも、これからも、同じことだ」 ぎり、と机の上に乗せられたグレイドの拳が、固く握られた。通う視線同士が、空気をきつく引き絞る。 しかし、フィンから視線を外したグレイドは、フィンに殴りかかることはおろか、声を荒げることすらしなかった。 代わりに、拳を緩め、肘をついて、己の髪に指を差しこむと、彼は長く細い溜息をついた。前髪の被った瞳には、深い懊悩が浮かんでいた。 「……わかっている。きっと、おまえの有り様のほうが、正しいのだろうな」 かすれたつぶやきは、机の上に落ちて、虚しく消えていく。 「なあ、フィン。私は、トラキアが憎い」 グレイドは、床に視線を這わせながら、押し出すようにつぶやいた。 「キュアン様、エスリン様、カルフ様にアルフィオナ様――私が忠誠を誓ったかけがえのない方々を、やつらは飢えた獣のような凶暴さと卑劣さで喰らい、奪っていった」 「……」 「私はいつかこの手でやつらの喉笛を貫いてやろうと思って戦ってきた。やつらの元にアルテナ王女がいらっしゃるならなおさらだ。そして、王女をこの身に代えてもお救いし、レンスターの象徴として戻ってきていただきたい。あのゲイボルグの光で悪しきトラキアを打ち払い、もう一度、我々を照らしていただきたい――」 グレイドの吐露した感情は、フィンにも容易に理解できるものだった。ゲイボルグを持つ盟主が、かつてのカルフ王やキュアンのように行く先を示してくれたら。それは、心から焦がれた光景だ。 しかし――自身の熱のこもった声を自ら嘲笑うように、グレイドはハッと短い笑気を吐き出す。 「だがな、フィン。最近、若い連中を見ていて思うんだ。――やつらの心は、私のような憎しみには支配されていない。当然だ。やつらは、その目でキュアン様やカルフ様を失った日を見ていないのだからな」 それどころか、若い見習い騎士の一部には、トラキアのハンニバル将軍に恩を受けた者もいる。彼らは自らの国を奪ったトラキアを敵国とみなしながらも、激しい怒りの感情を持ってはいない。むしろ、ゲイボルグを持たないリーフの人柄に惹かれたからこそ、彼の覇道を支えるために戦っている。 「こんなことは言いたくないが、私の頭は知らぬうちに、すっかり凝り固まってしまったのかもしれん。まったく、歳など取るものではないな」 苦く笑うグレイドの瞳に過ぎ去った日々が映っているのを見てとり、フィンは目を伏せた。そして、無慈悲な現実を、唇にのせた。 「……過去に失ったものは、二度と取り戻すことはできない。我々がどれほど願い、あがこうと、かつてのレンスターはもう、戻ってこないだろう」 しん、と辺りは静まり返った。 栄えあるランスリッターの闊歩する、遥か遠いレンスター。それは、フィンとグレイドが心から憧れ、希望を寄せた国であった。しかし、すでにこの世のどこにもない国でもあった。 フィンは知っている。仮にリーフがレンスターを再興したとして、それがまったく違う国になるということを。いくつもの大切なものを失って、なにひとつ元には戻らなかった事実が、フィンに残酷な真理を教えてくれた。 グレイドが、ゆがむように笑う。 「相変わらず、嫌なことをはっきり言ってくれる。おまえの割り切り方が、私には羨ましいよ」 「私は、割りきってなどいない。――ただ」 言いながら包帯の端を結ぼうとして、走る鈍痛にフィンはわずかに顔をしかめた。傷が痛むのではない。骨と肉が引き攣れて鈍く悲鳴をあげる感覚だ。 「どうした?」 「――いや。大したことではない」 「珍しいな。今日の程度の小競り合いでおまえが手傷を負うなんて。――それこそ、歳か」 「そうかもしれないな」 「……貴様、少しは否定しろ。私のほうが悲しくなる」 冗談めいた問答をおいてから、グレイドは再び視線を鋭くさせた。 「しかしな、本気で気をつけろよ。それでなくても、おまえは無茶な戦い方をするほうだ。最前線で槍を振るうことばかりが、年長者の役割ではないんだぞ」 「……わかっている」 「わかっていない顔をして、わかっているなどと言うな」 再び視線がかちあう。グレイドは眉間にしわを寄せ、こちらをまっすぐに見据えていた。 「何年、付き合っていると思っている。――私もおまえと同じように、キュアン様に言われているんだぞ。おまえを頼む、とな」 「…………」 「おまえはキュアン様の命に従い、今後も馬鹿のひとつ覚えのようにリーフ王子を守り続けるだろう。その生き様を否定しようとは思わん。だがな、過去が戻らんからといって、戦いの果てに命を散らすことを望んでいるなら、私は断じて許さんぞ」 「そんなことは」 「ない、と言い切れるのか?」 会話が、つと途切れた。互いの間合いを計るような沈黙。その合間にも、身体の鈍い痛みは、全身を這いまわっている。 だれにも言っていないことだが、放浪していたころから感じていた肉体の違和感は、ゆっくりと、確実に、フィン自身を蝕んでいた。いまや、思い通りに槍が振るえない局面に毎日のように遭遇している。今日もそれが原因で怪我をしたのだ。 当然であろう。この十五年、死にいたるほどの傷を何度も癒やしの杖で治しながら、死線を越えて戦い続けたのだ。フィアナ村でエーヴェルに忠告されたとおり、人間の身体には限界というものがある。 このまま無理をおして戦い続ければ――無情な結果が、確実に待っている。 フィンは、暗澹とした闇の広がる崖の縁に、たったひとりで立っている。 グレイドがなにかを言いかけたとき、外で兵たちの動く気配がした。敵襲を知らせる鐘の音が聞こえてこないことから、援軍の到着のようだ。ついに解放軍の総大将たるセリス公子の主力部隊が合流したのかもしれない。 そうであれば、すぐにでもセリスとリーフの会談の場が設けられるだろう。伴につくためにフィンは立ち上がり、包帯を巻いた腕を上着で隠すと、槍をとった。 物言いたげなグレイドに、背を向けて告げる。 「私は、死すことを望んではいない。それだけは、確かだ」 どのような反応があったかはわからない。ただ、その意を示すように、フィンは背筋を伸ばしてその場を辞した。 言葉に、嘘はない。まだ死ぬつもりはない。ひび割れた身体を抱えても、戦い続ける。 それが、かつての主君に贖うたったひとつの方法なのだから。 天幕の外には、心までもを包み込むような夜闇が広がっていた。 続きの話 戻る |