間違いの在り処 「あの、リーフさま。その……」 「なに?」 「ずっとこうされているのは、恥ずかしいのですけど」 言いながら目元が熱くなるのを感じ、ナンナは顔を伏せた。テーブルのすぐ隣で頬杖をついたリーフは、先ほどからどこか上の空でナンナの髪をいじっているのだ。 一房を掌にとり、指でもてあそんでは、流れ落ちるに任せる。すべてこぼれてしまうと、また同じことを繰り返す。 ナンナの苦言にも「うーん」と生返事を返し、これまた素っ頓狂なことを訊いてくる。 「ナンナはさ、髪、伸ばさないの?」 「えっ? ……はい。戦いに邪魔ですから」 「ふーん……」 「の、伸ばしたほうがいいですか?」 「……んー。短いほうが、僕は好きだな」 完全に会話に身が入っていないと察すると、ナンナはひっそりとため息をついて、されるがままに任せた。眠たげにも見えるリーフの瞳は、深い思案の海の底に沈んでいるようだった。 トラキア大河を渡ってレイドリックを打ち取り、エーヴェルの救出に成功したリーフは、ついにマンスターの解放を果たした。いまは、コノートの攻略に向かったセリスの合流を待って、マンスター内に身をおいている。 エーヴェルとの再会には、フィアナ義勇軍の面々はもちろん、リーフとナンナも歓喜した。エーヴェルの微笑みは母のように温かく、その日の晩餐で、ナンナは久しぶりに心から笑うことができた。 ただ、フィンだけは違った。口でエーヴェルの無事を喜びはしたものの、その顔に言葉どおりの感情が見られることはなかった。 エーヴェルもなにか思うところがあったらしい。夕食後、リーフは彼女と長い時間、ふたりで話し、そして部屋に戻ってきたのである。 日が落ちてからリーフと同じ部屋にいるのは、まだ少し恥ずかしさがあった。だが、リーフの憂いた顔をみるとどうしても放っておけなくて、ナンナは共に寄り添っている。 窓から冷えた風が吹きこむたびに、カーテンの薄布がふくらんで揺れる。テーブルの上の灯火もまた頼りなく震え、複雑な陰影をリーフの横顔に描き出している。 「……人に、他人の気持ちを理解することはできない。それは、どうあがいても変えようのない真理なんだろうな」 蝋燭の炎に落としこむように、リーフはつぶやいた。ナンナは、無言で彼の声と心に意識を傾けた。 「僕は、民の思いを理解するために、多くのことを見聞きしようとしたんだ。本物の飢え。本物の痛み。本物の苦しみ。実際に見に行って、彼らの気持ちをわかろうとした」 でも、とリーフは瞳をそばめる。 「それも彼らの姿から想像するのがせいぜいで……わかったつもりになれるだけだ。そうやって僕は、一番の臣下の気持ちさえ、理解していなかったんだろうな」 「リーフさまは、お父さまのことをよく気遣っていますよ」 「それでも、大切なことに気づくのは、いつも後になってからだ」 リーフは力なく首を振った。そして、小さく続けた。 「もしも僕さえいなければ、きっとフィンは、ラケシスと幸せになれたはずなんだ」 「リーフさま!」 「わかってる。わかってるよ、ナンナ。これは、口にしちゃいけないことだ」 鋭い叱責に答えるリーフの声のか細さに、ナンナは眉をさげた。椅子の背にもたれたリーフは、天井を見上げる。 「ただね、今になって思うんだ。無知で無力な僕を守るためにすべてを捨てて、飢えも苦しみも我慢して、ラケシスの気持ちも無視して、たったひとりで戦ってきたフィンは、どんな気持ちでいたんだろうって――」 「――」 ナンナはなにかを言いかけ、口をつぐんだ。リーフの唇がつと歪み、笑みを形作ったのだ。まるで、ナンナの言わんとしていることを察知したかのように。 「そうだ。そんなフィンのおかげで僕はここまで生きてこれた。フィンの労苦に報いるためにも、僕は立派な王になろうと思う。でも――」 右手を顔にかぶせ、うめくようにリーフは言った。 薄闇を通って、声が耳に染み渡る。 「そんなことでフィンが幸せになれるはずがないんだ」 ――そんなこと。 滅びた国を再興し、帝国の圧政から民を救う難事を、リーフはたった一言で言い捨てた。 傲慢にも思える響きだった。しかしそれが、リーフの心をなによりも如実に現していた。 「人は、どれだけ不幸な立場に生まれてきても、自分の力で幸せを掴もうとする権利があるはずだ。なのにフィンはそれをしなかった。僕の存在が――レンスターという国と、父上の存在が、フィンからその選択を奪ったんだ」 震えるような笑い声が、唇の端から漏れる。 「ターラにいたころ、僕が無理にでもラケシスを引き止めればよかった。僕は、いつだって気づくのが遅すぎる……」 「――」 ナンナは、リーフの後ろ向きな発言を糾弾しようとは思わなかった。 彼の顔に被さった手を、両の掌で取る。少しだけ身を寄せ、リーフの手ごと自身の膝の上にのせる。 するとリーフは、苦しげに笑ってみせた。 「……ごめん、ナンナ。僕はすこし、心が弱くなってるみたいだ」 「――はい。そうですね」 「臣下ひとり幸せにできない僕に、民を幸せにすることなんてできるのかな」 リーフは素直に弱音を吐く。光の公子セリスや風の勇者セティとの邂逅で、格の違いを見せつけられたことも影響していたのだろう。そこにいるのは雄々しく兵を率いる亡国の才気あふれる王子ではなかった。己の無力を自覚させられた、ただの少年だった。 しかし、不思議とナンナはそんなリーフを愛おしく思った。その弱さを抱きしめるように、掌で包みこんだ彼の手を胸に抱く。 「リーフさま。――リーフさまの後悔は、すこし間違っていると思います」 ナンナは遠い過去、母が旅立った日のことを脳裏に浮かべながら続けた。 「いまだからお母さまを止めればよかったなんて言えるんです。あのときは、後にデルムッドお兄さまに再会できるなんて、だれにもわからなかったんですから」 霞んだ記憶の先にある、母の思いつめた瞳。あのころの自分は、リーフと同じように、その奥に秘められた真の想いに気づけるほどの大人ではなかった。しかし――。 母の兄に対する思いは真実であったし、母を思う自分の気持ちも、また真実であった。 「きっと、だれもがそのときの精一杯の気持ちで道を選んだんです。だから、だれも悪くない。だれも、間違ってなんていなかった」 お父さまも、お母さまも、わたしたちも。そして、お兄さまも。 暗中を模索しながら、傷ついて泣きながら、必死で前に進もうとしていたのだから。 「それに、リーフさま。確かに、リーフさまがレンスターを再建し、新しい国の王様になっても、お父さまを幸せにすることはできないかもしれません。でも……」 一度だけ言葉を途切らせたナンナに、リーフがゆるりと顔を向けてきた。よくものを見そうな聡明な瞳が、まっすぐにナンナを見つめる。 どれほどの闇の中でも、先へ進まなくては。失ったものに後ろ髪をひかれながら、後悔の甘い闇に誘惑されながら、それでも歩を進めなくては。 そう覚悟を決めたナンナは、一呼吸をおいてから告げた。 「それ以外のやり方で、わたしたちがお父さまを幸せにする方法は、きっとあると思います」 じっとリーフの瞳を見返し、ナンナは微笑む。 「わかりますか、リーフさま? わたしでもなく、リーフさまでもなく、わたしたちが、ですよ」 あなたはひとりではない、と想いをこめて。 「わたしたちが、お父さまを救うんです。ターラの舞踏会で、リーフさまがお父さまとお母さまを引き合わせたみたいに」 「――」 「わたし、あのときのどきどきした気持ち、いまでも覚えてます。ねえ、リーフさま。もう一度、やってみましょう」 風に吹かれて蝋燭の炎がゆらぎ、二人の影をざわりと揺らす。しかしナンナの表情はわずかにも変わることがなかった。 しばらく真顔のまま黙っていたリーフが、――不意に、肩を下げて笑い、ナンナの手を握り返した。 「……ナンナの手は、小さいな」 「リーフさまの手が、大きくなったんですよ」 今度はリーフのほうがナンナの手を引き、自らの胸に抱いた。指先から感じる温もりが、不思議と全身に伝っていく。ナンナはリーフと、ふたたび視線を通わせた。 「ありがとう。ナンナはいつも僕に大事なことを気づかせてくれる」 「――はい」 笑ってみせると、リーフは何気なくナンナの頬に触れてきた。そこで、思いがけず互いの距離が近づいていたことに気づく。リーフの顔が、さらに接近してくる。 「――」 なにをされるか判断はしたものの、とっさの反応ができずにナンナは硬直し、無様に目やら口やらを固く閉じた。ぎゅっと肩に力を入れて縮こまっていると。 「リーフ様。夜分に失礼します」 「きゃあ!?」 控えの間から聞こえてきたフィンの声に、ナンナは思いきりリーフを突き飛ばした。 豪快な音を立ててリーフが椅子ごと床に投げ出され、ナンナもまた座っていた位置から跳ねるように距離をとる。 部屋に入ってきたフィンは、強かに打ったらしき頭を押さえて唸るリーフと、飾り物の彫像の影で子鹿のように震えるナンナをやや怪訝そうに見やった。二人の仲を知っているのか知らないのか(おそらく前者であろうが)、ナンナがリーフの部屋にいる事実には言及せず、主君の元で膝をつく。 「手当が必要でしたらシスターを呼びますが」 「い、いらない……。それより、どうしたんだ、そんな格好で。外に出ていたのか」 リーフの指摘したとおり、フィンは外出着の上に厚手のマントを羽織っており、ちょうど早駆けから帰ってきたという様子だった。 頭をさすりながら起き上がったリーフは、彼の顔を見てふと眉をひそめた。フィンは淡々と返答を続ける。 「は。夕刻より周辺地域の偵察に出ていました。そこでミーズ城周辺の山間に展開した竜騎士部隊を発見したのですが――」 本来なら偵察任務は若い騎士の仕事であり、フィンのような男がすることではない。だが、そんな些事は捨て置き、リーフは続きをうながした。ナンナも、フィンの様子に違和感を覚え、こくりと息を呑んだ。 フィンはいまだかつて聞いたことがないほどの慎重な口ぶりで、続きを紡いだ。 「敵将のドラゴンナイトについて、お耳に入れておきたいことがあります」 続きの話 戻る |