悪人であればよかった


 気がつけば、主が亡くなった年齢を遥かに越してしまった。
 いまさらながらに遠くまで来たことを感じ、つとフィンは風にはためくマントを手でおさえた。

 解放軍の盟主セリスとリーフの会談の後、セリスはコノートへ、リーフはマンスターへ進軍することになった。
 セリス軍との同調関係が保証されたこともあって、レンスター軍の士気は高かった。整然と隊列を揃え、一路マンスターへの道を進んでいる。

 視線を向けると、いつか目にした傭兵と同じ色の髪が、フィンの前方でなびいていた。
 デルムッドがナンナの隣に馬をつけているのだ。本人の強い希望で、彼はリーフ軍に加わることを許されていた。
 はじめはぎこちない様子の兄妹だったが、少しずつ距離は縮まっているようだった。談笑しているようで、時折、ナンナの肩が揺れる。母ゆずりの金髪も、同じリズムで揺れている。

 そんな二人が並んだ姿は、遠い昔のシルベール城で寄り添う男女を思い出させ――フィンは、人知れず目を逸らす。

 記憶とは不思議なものだ。もう二十年近く前の出来事だというのに、あの夜の噴水の光景は、昨晩のことのように蘇ってくる。
 そして、同時に思い知らされる。これが現実であり、過去が変わることは、決してないのだと。

 ラケシスは、もうこの世にいない。

 もしもターラで本気で彼女を引き止めていたら、こんなことにはならなかった。
 だが自分は、彼女を選ばなかった。

 はじめからそうだった。厩で出会った彼女に心焦がれたときも。自分は己の恋ではなく、使命を選んだ。
 彼女の幸福を願いながら、口を閉ざすほうを選んだ。

 悩みぬいた果てであったとはいえ、苦しみ続けた果てであったとはいえ――。
 自分は自らの意思で、道を選択してきた。
 だからこれは、己が望んだ世界なのだ。

 つと視線を横に向けると、フィンと同じように騎乗したカリオンが目ざとく反応した。

「フィン様、いかがなさいましたか?」
「――いや」

 こちらを見るカリオンの眼差しは、憧憬と畏敬に満ちている。見習い騎士たちは、口を揃えてフィンのような騎士になることが目標だと言う。
 フィアナ義勇軍をはじめとした解放軍の面々も、フィンを信頼し、慕ってくれている。

 レンスター王家の遺児リーフを託され、十三年に渡る逃亡生活をくぐり抜け、見事王子を育てあげた理想の騎士。
 幼いころに焦がれた存在に、自分はなれたのだ。キュアンを前にしても恥じることのない騎士の中の騎士に、手が届いたのだ。
 これは、より正しい選択をし続けた結果であったはずだった。己が望んだ世界であったはずだった。

 なのに。
 世界は灰色に淀んでいる。心の中は、空虚だ。

「――」

 吐き切った息を再び吸うこともせず、茫洋としていたフィンの背筋に、そのとき悪寒が走った。
 左方に素早く注意を向ける。トラキア大河が近くなるにつれ、周囲は灌木などで見通しが悪くなりつつあった。
 その合間に――複数の影の動く気配。

「左方、敵襲!!」

 フィンは、槍を取りながら鋭く叫んだ。同時に弓弦の引かれる音。放たれた矢が風を切って隊列の脇腹に襲いかかる。
 馬の悲鳴と流れる血が交差する中、灌木を薙ぎ払ってフリージ軍の重戦士隊が姿を現した。リーフのマンスターへの進軍を察知し、待ち伏せをしていたのだ。
 だが、解放軍の士気はこの程度で揺るぎはしなかった。

「左方に重戦士隊が出現した!! 総員、盾を持て! 負傷者を中にして防御陣を敷け!」

 リーフの一喝が、雷鳴のように轟く。浮足立ちかけた兵たちが我を取り戻し、武具を構えた。カリオンのような古参の見習い騎士たちは、すでに応戦のために前に出ている。
 すぐさま交戦状態となったが、レンスター軍は規律だった動きで戦線を保った。こうなれば少数で奇襲を仕掛けたフリージ軍のほうが不利である。

 リーフは剣を手に果敢に重戦士に挑んでいく。ナンナは負傷者の手当てに向かったようだ。フィンはリーフの援護に回る形で敵を薙いでいたが、視界の片隅でデルムッドの剣が弾き返されるのを見た。

「っく!」

 斬撃を重戦士の分厚い盾に阻まれ、衝撃で手放してしまったのだろう。顔をしかめたデルムッドは反撃から身を躱しつつ、地面に突き刺さった剣のほうへ向かおうとする。が、この位置では敵に掴まるほうが早い。

 あの男と同じ色の髪が、陽光に照り輝いている。
 一度は黒く熱い怨念さえ抱いた男のそれが。

 身体が勝手に動いていた。腰元に帯びた剣の金具を一動作で外し、鞘のままデルムッドにめがけて投じた。

「これを使え!」
「――っ!?」

 反射的に受け取ったデルムッドは、こちらを見て、さっと顔色を変えた。

「お、おまえなどに……くっ!」

 言い終わる前に敵に追いつかれ、やむなく受け取った剣で応戦を始める。
 デルムッドが自分に対して抱く反感は、目を合わせようとしないところから薄々感づいていた。その心境についても、ある程度は想像ができた。

 だが、結局のところ自分のすることは変わらない。
 自らの行動によって、フィンは自覚した。

 レンスターの騎士として。ひとりの女性に恋い焦がれた人間として。
 ただ正しくあろうと最善を尽くす。そんな生き方しか、自分にはできない。
 たとえうねるような後悔が後ろから追いかけてこようとも。
 ――その生き方が間違っていたのだと、心のどこかで気づいていようとも。


 気がつけば亡き主の歳を越え、戦い続けてここまできた。
 その選択のいくつかが致命的な過ちを産んだことは、知っている。そのために人を傷つけたことも。自分を傷つけたことも。

 だが、だからといってどうして生き方を変えられる。
 こうして目の前で敢然と戦うリーフを前にして、どうしてその生き方を否定できる――?



 戦いは小競り合い程度の規模に終わり、レンスター軍は予定通りの行程を経てトラキア大河の手前に軍営を張った。
 夕暮れ時になると、フィンの周りから人が消える時刻を見計らうようにして、デルムッドが尋ねてきた。

「……礼を、言う。助かった」

 感情を抑えた顔で、デルムッドはフィンの剣を卓上に置いた。立ったまま、椅子に掛けたフィンとは視線をあわせようとしない。
 フィンは息を抜いて答えた。

「騎士同士であれば、戦場では助け合うのが常だ。私に救われた分、おまえは今後の戦いで別の人間を助ければ良い」

 子供扱いをするのではなく、騎士として対等に話す。それが、フィンにできるたったひとつの気遣いだった。

 デルムッドは気に入らなさそうに頬をゆがめたが、それ以上態度を荒立てずに、整った所作で胸に手をあて、一礼をした。
 そのまますぐに踵を返すかと思えたが、――顔を伏せたまま、中々面をあげない。
 深い葛藤の中にあるのだろうと黙って待っていると、とうとうデルムッドは口を開いた。
 ただ、それは、予想した恨み言ではなかった。

「あなたが、悪人であればよかったのに」

 赤光の注ぐ天幕の中に、声は染み渡った。
 沈んだ瞳に黒い懊悩を湛え、押し出すようにデルムッドは続けた。

「あなたが生粋の悪人であれば、俺はあなたを心から蔑むことができた。なのにあなたは、ナンナの言うとおりの……立派な人だ」

 言いながら、デルムッドは腰に帯びた剣の鍔を握りしめる。古びたその剣は、フィンの記憶にもうっすらと残っていた。デルムッドの指は、剣の前の持ち主に縋りついているようにも見えた。
 告げるかどうか迷っていた言葉を、フィンは薄く開いた唇から紡いだ。

「――自由に蔑めばいい。おまえの心は、おまえのものだ」
「そ……んなことができるか。俺は騎士だ。それとも、俺を侮辱しているのか」

 懸命にまっすぐに立とうとする、その余裕のなさ。義と心の合間で揺れる、その迷い。
 それらはすべて、幼かったころの自分が同じように抱いた葛藤だ。だから、フィンは言った。

「騎士らしくあること。守るべきもののために下賤な感情を捨てること――それは、確かに正しいことだ」

 ひとつ呼吸をおいて、続ける。

「だが、理想に焦がれるばかりに己に嘘をつき続ければ、心は、次第にすり減って死に、……いつか大きな犠牲を払うことになる」
「っ」

 デルムッドの肩が揺れる。剣の金具が、かちゃりと物悲しげな音をたてる。
 亡き主の言葉と真逆のことを口にしている自分が不思議だった。

「感情を持つことは許されていい。人らしくあっていい。その上で、騎士として守るべきものを守ればいい」

 自分は、そうは生きられなかった。心の揺れなど不要だと考えた。そしてまた、目の前の幼い騎士も、同じように信じようとしている。
 感情を排した道の先にあるものは、確かに理想的な騎士像なのだろう。そんな自分だからこそ守れたものもあるのだろう。

 だが、だれもが同じ道を歩むべきではない。
 最後の最後で、一番欲しかったものを失ってしまう選択をすべきではない。

 終焉に向けて沈みゆく心と身体を抱えたまま、フィンは、静かに告げた。

「だからおまえは、素直に私を疎めばいい」
「――」

 そのとき、唇を引き結んだデルムッドがはじめてフィンの眼を見た。迷い子のような、今にも泣き出しそうな顔で。
 視線を通わせて、フィンは、はっとした。そして、目を細めた。

 彼の瞳の色は、もう二度と見ることが叶わないと思っていた――あのひとと同じ、澄んだハシバミ色であった。

 いつか疲れきって倒れたときに、迎えにきてほしい人の、遠く懐かしい色だった。


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