兄妹 「……お兄さま。昨日はとつぜん飛び出してしまって、ごめんなさい」 まだ夜が明けきっていない時間帯である。出発に備えて馬の世話をしていたデルムッドに、ナンナは頭を下げた。 「いや、俺こそ事情を知らずに無遠慮なことを言ってしまった。……嫌われていたら、どうしようかと思ったよ」 淡く笑う兄の目の下には、濃い隈が浮いていた。本気で落ちこんでいたのだろう。昨晩の内に謝りにいけばよかったと、ナンナは今さらながらに後悔した。 するとデルムッドは改まったふうに背筋を伸ばした。 「改めて言わせてほしい。ナンナ、きみが生きていてくれて本当に良かった。長い間、待たせてしまってすまない。生きていると知っていたら、どんなことをしてでも迎えに行ったんだが……」 「お兄さまは、イザークでどんな暮らしをされていたのですか?」 こちらの事情をあらかたリーフが話してくれたことは聞いていた。だが、ナンナはデルムッドのことをまだなにも知らなかった。 「ティルナノグという辺境の小さな里にいた。――そんな顔をしないでくれ、逃げ延びた人たちと一緒だったから、寂しい思いをしたことはないんだ」 「セリス様のことですか?」 「そうだ。他にも仲間がたくさんいる。アルスターに行ったら紹介しよう、気のいいやつばかりだから、きっとナンナも仲良くなれると思う」 そこまで言ってから、デルムッドは目を伏せた。 「ただ、……こんなことを言ってはばちが当たるかもしれないが。一緒にいたやつらには、みんな兄弟や親がいてな。俺は、それが羨ましかった。本当の家族とはどんなものだろうと、ずっと考えていたよ」 「お兄さま……」 ナンナは幼いころにリノアンに言われたことを思い出した。ナンナにはラケシスが共にいた。だが、ひとりイザークで暮らしている兄はきっと寂しい思いをしているだろう、と。 「そうしたら、この戦いがはじまる直前にレヴィン様に教えていただいたんだ。俺には母上と妹がいるって――」 「お兄さま、そのレヴィン様という方はどなたですか? リーフ様はともかく、わたしたちのことを知っていたなんて……」 「セリス様の後見をされている方なんだ。――不思議な人だ。千里眼でも持っているのか、なんでもぴたりと言い当ててしまう」 デルムッドはそこで迷うそぶりをみせた。そして、思い切ったように告げる。 「ナンナ。その、怒らないで聞いてほしいんだが」 「なんですか?」 「……半年前に、レヴィン様はこうおっしゃったんだ。俺の母上と妹は『生きている』と」 「っ」 矢を受けたように、ナンナは一歩足をさげた。突如として飛びこんできた希望は、ざらりとしていて、にわかに受け入れられるものではなかった。生きているなら、必ず自分たちを迎えにきてくれるはず。迎えにきてくれないというなら――それは、死んでしまったよりも哀しい結末にほかならない。 デルムッドも、ナンナの反応を当然のように受け取った。「すまない」と謝ってから、胸に手をやって続けた。 「ただ俺は、母上がどこかで生きていると信じたいんだ。俺はレヴィン様の言葉に従ってナンナに会うことができた。だから、いつか母上にも、きっと……」 「…………」 「きみにまで無理に希望を持たせるつもりはないんだ。ただ、俺がそう信じることだけは、許してもらえるだろうか」 ひたむきな眼に見つめられる。否定できようもないほどに真摯な光が、その瞳に宿っている。こんな優しい兄をもって、自分は幸せなのだろう。そんなことをどこか遠くで考える。しかし、心に抱くものは、はっきりと違う。 あたりはまだ薄暗かった。東の空の日差しは、雲に隠れて直接は届かない。完全に整理できていない心中もまた、薄闇に包まれている。 ナンナは両手を胸の前であわせ、兄を見返した。 「わかりました、お兄さま。ただ、ひとつ、お願いがあります」 「俺に叶えられることかな」 ナンナは一呼吸をおいてから、うなずいて答えた。 「……このことは、どうかお父さまには言わないでください」 今度はデルムッドの表情が揺れた。目元に不審げな色がにじむ。 「あの騎士殿か……きみの育て親だと聞いたが」 「はい。物心ついたころから、わたしを守ってくださいました。お母さまのことで、これ以上、お父さまの心を騒がせたくないんです」 「……きみは、ひどくあの騎士殿を気遣うんだな」 「――?」 「彼は、母上とは、どのような関係だったんだ?」 言葉尻に含まれる嫌悪の感情に、ナンナは顔をしかめた。デルムッドは、押し出すように言葉を重ねた。 「ナンナ。あの騎士殿は俺たちの父上じゃない。俺たちにはちゃんとした父上がいるんだ。……まさか母上は、本当に父上のことを忘れて、その男に――?」 「ちっ、違います!」 自分が何に対して否定したのか掴めぬまま、ナンナは叫んだ。しかし、デルムッドの表情は固くこわばったままだ。 「では、なにもなかったのか? リーフ王子に聞いた話では、違ったようだったが」 「――っ。お母さまは、お母さまは……っ、お父さまのことを支えようとしていたんです!」 「支える……? やはり、好きあっていたということか」 「確かにお母さまはお父さまを愛していらっしゃいました! でも……っ、でも、本当のお父さまを失って、幼いわたしを抱えて、きっと不安だったに違いないんです……だからお母さまを悪く言わないでください!」 「不貞であることに変わりはないだろう!? なぜそうやすやすと乗り換えられる? 母上が父上を愛していなかったとでもいうのか!」 「そんなの、わたしにはわからないです!」 昨晩に枯れるほど泣いたはずなのに、また瞳がじわりと濡れて、涙が頬を滴り落ちる。 わかりあえない。ただそれだけのことが、心を深くえぐり、ナンナは拳を握りしめてうつむいた。それを見たデルムッドが、はっと息を呑む。 張り詰めた沈黙の後に、声。 「……悪かった。その、きみと喧嘩だけはしたくないんだ。ナンナ、許してくれ」 「…………」 「ただ……すこし、俺の話を聞いてくれるか」 頬をぬぐって視線だけをあげたナンナは、どきりとした。デルムッドの顔もまた、涙をこらえるように歪んでいた。 兄の心が自分と同じように傷ついているのだと気づき、ナンナは唇を噛みしめる。デルムッドはつぶやくように話しだした。 「俺は、幼いころに両親からシャナン王子に預けられて、イザークに亡命した。父上や母上の顔は覚えていなかったが、温もりや優しさだけは、すこしだけ記憶に残っていた。だから俺も……バーハラで散った両親のように強く立派な騎士になろうと思って生きてきたんだ」 その手が、腰に携えた古びた剣を示す。使いこまれた、大振りの剣だった。 「この剣が、父上の形見だ。たくましき腕で剣を振るい、縦横無尽に戦場を駆ける、伝説の傭兵ベオウルフ。最期の時まで正義のために戦った父を誇りとして、その名に恥じぬよう、今日まで剣技を磨いてきた」 まだ言葉で答えることはできなかった。代わりにナンナは微かにうなずく。デルムッドは眉を下げたまま、耐えるように笑った。 「もちろん母上も誇りだった。白馬に乗り、あらゆる武具を使いこなす美しい姫騎士――兄君が哀しい宿命の果てに亡くなったことで、自ら剣を取ったのだという。強く気高い方だったのだろうと、話を聞くたびに想像していた。俺の、目標でもあったよ」 デルムッドの描く鮮やかな憧憬が、ナンナの心にも映し出される。そして、陰にひそむ鈍色の哀しみも。 「ただ、いま考えると、すべて俺の勝手な想像にすぎなかったんだな。俺は心の中で両親を美化しすぎたのかもしれない……」 笑い顔と泣き顔は似ている。兄がこのときどちらの顔をしたのか、ナンナにはよくわからなかった。 だが、たったひとりで家族もなしに辺境で暮らしてきた兄の孤独と、追い続けたにも関わらず寄る辺を失った兄の痛みを、ナンナはこのときはじめて思い知った。 「…………ごめんなさい、お兄さま」 ナンナは、震える声でつぶやいた。 「わたし、お兄さまの気持ちも考えずに……」 「いいや。俺もさっきは言い過ぎたよ。だから、その……仲直りを、してくれるかな」 恐る恐る、手が差し出される。ナンナはうなずくと、無骨な兄の掌を、そっと右手で握り返した。抱き合うほど心を通わせることのできなかった二人の、それが精一杯の接触だった。 しかし、それでもデルムッドは笑みを見せてくれた。こざっぱりとした、純粋な笑顔だった。 「ありがとう――ナンナ。よかったら、母上のことを教えてほしい。母上がどんな方だったのか、きみから聞かせてほしいんだ」 「……はい、お兄さま」 優しい声に後押しされて、ようやくナンナは少しだけ微笑むことができた。長い年月は、兄と自分の心の距離すら隔ててしまった。彼にフィンのことを受け入れてもらうのは、きっと難しいだろう。だが、兄は痛みを押してもその隙間を、少しずつ埋めようとしてくれている。そのひたむきさを、どうして無下にすることができようか。 だれもが強いわけではない。苦しみの中で、あがきながら、それでも光を求めてさまよっている。いまにも溺れてしまいそうな現実ばかりが、目の前に転がっているけれども。 ナンナは昨日の温もりを思い出しながら、前を向くために唇を噛みしめた。 早朝、探す苦労もなく、フィンはリーフの元へ朝の挨拶に顔を出してきた。 はじめ彼の姿を見たときには心臓が止まる思いがしたが、その様子は哀しみを引きずっているようには見えなかった。――表向きは。 「朝食後すぐに出立となります。私は馬の支度を済ませてまいりますので、食事が終わりましたら門までおいでください」 「……ああ、わかった」 いつもの口調で、いつもの顔で、いつもの態度で、フィンはよどみなく臣下の務めを果たす。 だがそれが、今にも切れそうな彼の糸を、最後のところで繋ぎとめるための振る舞いなのだとリーフは気づいていた。己の心を切り離し、己の役割の遂行に全霊を委ねる。そうでもしなくては、とても立っていられないのだろう。 (僕の前では、弱みを見せてくれたっていいのに) 生まれたときから傍にいた一番の臣下を、リーフは痛ましげに見返す。家族同然の仲といってもいいのだ。少しでもその痛みをわかちあうことはできないのだろうか。 ――いいや。できないのだろう。フィンは、リーフを家族とは思っていない。すでにこの世を去った主君をリーフに投影し、リーフが望む望まないに関わらず、理想の臣であり続けようとしている。 だからこそ、リーフは、はがゆい思いにかられた。 その心に近づくことは叶わない。ラケシスを失った今、彼の胸の裡を開くことのできる者はいない。 フィンが感情を閉ざした今、リーフがどんな言葉をかけても、彼を傷つけることになる。 にも関わらず、声をかけずにはいられなかった。 「フィン」 礼をして下がろうとしたフィンを、リーフはなかば反射的に呼び止めた。フィンは立ち止まり、向き直る。 影を湛えた顔立ちが、静謐に、忠実に、自分の言葉を待っている。 一度息を吸って、吐き出す先を失い、リーフは視線を部屋の隅にやる。 出たのは、自分でも信じられないほど情けない一言だった。 「その、……大丈夫か」 「――――」 濁った色をしたフィンの眼に、揺れた様子はなかった。胸に手をあて、静かに返答する。 「はい。任務に支障はありません」 それ以上の言葉がないとわかると、フィンはゆるりと踵を返した。 無力を噛みしめて顔を伏せるリーフの耳に、そのとき、思いがけず続きが飛びこんできた。 「ただ、すこし」 背を向けたフィンの、それは独り言だったのだろうか。それとも、彼なりの悲鳴の現れだったのだろうか。 早朝にも関わらず空気の淀んだ部屋を、その言葉は灰色の苦痛で覆い尽くすかのようだった。 「――――すこし、疲れました」 続きの話 戻る |