うそつき


 夜、怖い夢をみて泣いていると、母はいつも両手で抱きしめてくれた。
 母の懐は温かくて、優しくて、いい匂いがした。頭を撫でてくれる白い手が、大好きだった。

 イザークへ一緒に行くとだだをこねたとき。ひどい言い争いになった。母さまなんて大嫌い。そう叫んだときの、母の怯んだ顔は、いまでも忘れられない。
 そして旅立ちの日。母は揃いの首飾りを、自分のものと合わせてこう言った。

 ――わたしの無事を祈っていて。ナンナの首飾りからわたしの首飾りへ。気持ちはきっと繋がるわ。
 ――本当よ。だから、毎日お祈りして、わたしのことを守ってね。

 ――かならず、帰るから。

 拳をゆっくりと開く。時が過ぎても、首飾りの形はあのころと変わらない。強く握りしめたせいか、皮膚にくっきりと痕がついていた。
 レンスター城の屋上の、物見の塔の陰。夕日はほぼ地平の向こうに消え、西の空にわずかな残光が残っている。東からは重く厚い雲が、ゆっくりと近づいてきていた。
 はやく暗くなってしまえばいいのに。すべてが闇に落ちてしまえばいいのに。淀んだ気持ちを抱えたまま、ナンナは母の言葉を思い出した。いまとなってはぼんやりとしか思い出せない、その声を。

「一日だって、お祈りを欠かしたことはありませんよ」

 掠れた声でつぶやく。ナンナは母との約束を信じていた。どんなに疲れきった日でも。あの恐ろしいレイドリックの手に捕まったときだって。心をこめて母の無事を祈ったものだった。この祈りが母を守ってくれるのだと信じていた。しかし。

「無駄でしたね」

 口にすると、笑いがこみあげてくるのが不思議だった。泣きたいのに。辛くて仕方ないのに。自分のどうしようもない馬鹿さ加減をなじる想いがあまりに強すぎて、嘲笑が止まらなかった。

 途切れ途切れの異様な笑いをこぼしていると、不意に黒い衝動が脳髄を貫いた。いますぐここから身を投げてしまいたい。自分を消してしまいたい。
 しかし、流石にそれだけは理性が抑えた。ただ、手にしているものを代わりに遠くに投げようとして。

「ナンナ!」
「っ」

 耳に届いた呼び声に、腕をあげたまま止まる。
 走ってきたのだろう。リーフは息を弾ませていた。それでも唾を呑んで駆け寄ってきたリーフは、指の間から下がる首飾りを見て絶句した後に、すぐに手を伸ばして、ナンナの拳を両の掌で包んだ。
 そのまま、宝物を扱うように、ゆっくりと下ろしていく。

「ナンナ」
「…………」

 リーフの足が、一歩近づいてきた。普段の距離から、ひとつ深入りした近さ。心に、触れられるような感覚。片手が拳から離れ、背中に回された。さらに距離が近づく。額に、息がかかるほどに。
 そのまま強い力で抱きしめられると、視界がゆがみ、ついに心がはじけた。

「うそつき」

 リーフの肩口に顔をうずめ、絞りだすようにつぶやく。

「うそつき。お母さまも、お父さまも、リーフさまも。みんなみんな、うそばっかり」

 首飾りを握りしめるごとに感じる痛みが、全身へと染み渡っていく。服ごしに伝わる体温が、囁き声に熱をこもらせる。

「帰ってなんかこないじゃないですか。会えなかったじゃないですか。みんなうそつきです、嫌いです、大嫌い、……っぅぅ、ぅぁああ……っ!」

 その糾弾が見当違いで、傲慢で、自分勝手であることなどわかっていた。だが、いまはだれかを傷つけなくては自分が立っていられなかった。心が、苦しくてたまらなかった。

「お母さまは、なんで帰ってこないんですか? わたし、いい子にっ、してました――お父さまを助けて、リーフさまを助けて。ふたりがきっとまた会えるって言ってくれたから、だから、だから頑張れたのに……っ」
「……うん」

 首飾りごとリーフの腕を握りしめる。力の限りに、強く。痛くても構わずに。

「こんなことになるんだったら、はじめからもう会えないって言ってくれたらよかったんです。そうすれば諦められた。こんな悲しい思いをしないで、済ん、っひぐ、ぅう……!」
「ナンナ」

 背中にあった手が、髪に触れ、頬にあてられた。もう片方の手が反対側をおさえる。自然と胸から顔を離される格好になり、ナンナは正面からリーフの顔を見上げた。

 ぼやけた視界の先で、赤銅色の瞳が瞬きもせずにこちらを見つめている。たじろいでしまいそうなほど、まっすぐ、真剣な眼差しで。
 ゆるりと顔が近づいてきた。逃げられる程度にはゆっくりと。しかし、視線は離れない。いやだと言えばやめてもらえただろう。なのに、射止められたように、身体が動かなかった。
 唇が、温かいもので塞がれる。

「ん…………」

 遅れて、目蓋が降りた。涙が一滴こぼれて、リーフの指に落ちた。
 顔を離したリーフは、目を閉じ、額をこつりと合わせてくる。

「……僕のせいでいいよ」

 互いの吐息が混じって、顔のあたりが暖かい。いまだ涙が流れ続ける目元を、リーフの指が何度もぬぐっていく。

「ぜんぶ僕のせいでいい。僕はうそつきだ。怒っていいし、嫌いになってもいい」

 だから、とリーフは続けた。

「だからもう、がんばらなくていいよ。ナンナは昔のままの、強がりで泣き虫な女の子でいいよ。僕はそんなナンナが、好きだから」

 耳に染むリーフの声。頭がしびれたようになり、言葉のひとつひとつがうまく理解できなかった。なのに、気持ちだけが、こんなに素直に伝わってくる。

「これからは僕がナンナのそばにいるからね」
「リーフ、さま」
「ごめん、ナンナ。ラケシスと会えるなんて、うそをついて、ごめん」

 唇が震え、ゆがんだ。すがるように手に力をこめると、リーフは顎の下に抱きこんでくれた。温かく、優しい香りが悲しくて、ナンナはふたたび声をあげて泣いた。



 涙がようやく止まるころになると、辺りはすっかり夜の帳が落ちていた。何時くらいだろうか。月の高さを見ればわかるだろうが、そんな気力も沸かない。身体と心は疲れきって、リーフの腕の中にもたれたままだ。恥ずかしいという気さえ起きなかった。

「リーフさま」
「……なに?」

 ナンナは今更善人ぶろうとする自分の愚かさを呪いながら、問いを唇に乗せた。

「お父さまは、どうされていますか」

 リーフはしばらくの沈黙をおいてから、ナンナの髪に顎を乗せて、小さく答えた。

「こういうときに僕にみつかるほど、フィンは間抜けじゃないよ」
「――――」

 疲弊した胸の内に、ふたたび悲しみがこみあげて、ナンナは唇を噛みしめた。
 自分にはこうして抱きしめてくれる腕がある。炎のように燃える激情を受け止めてくれる人がいる。
 だが、きっと、父はひとりぼっちなのだろう。

 横目をつかうと、リーフの腕の向こうには、見通せないほどの闇が広がっていた。
 闇に眼をこらしていると、ひとり佇む父の姿が見えてくるような気がした。もちろん幻に違いなかったけれども。
 それでも、その背中は声もなく泣いているように思えて、ナンナはもう一粒だけ、涙をこぼした。


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