もはや届かぬ幸福


 レンスターの籠城戦が始まって、一ヶ月が経った。
 ドリアスと半数近くの兵を失ったリーフには、立ち止まって嘆く時間さえ許されなかった。帝国軍の反撃は、まさに怒涛と呼ぶにふさわしかった。

 ただ、むしろ忙中になければ、リーフは慚愧と悔恨に押しつぶされてしまったかもしれない。ようやく帝国軍の一陣目を追い払い、戦いに僅かな休息の隙間ができるころには、幾分か彼の心にも冷静さが戻ってきていた。

 そんなときである。ゼーベイア将軍から、昼下がりの回廊にフィンとともに呼ばれたのは。

「これは……」

 リーフは言葉を失って、飾られた絵画を見上げた。

「十三年前のレンスター落城にあたり、アルフィオナ王妃のご意向で城内の隠し部屋にしまわれていたものです。部屋の場所を知っているのは私とドリアス卿のみ、――本来なら城を奪還された日にお教えするべきでしたが、遅れましたことをお詫び申し上げます」
「うん……こんな状況だから無理もないけど、この人たちは――」
「キュアン様とエスリン様、そしてアルテナ様。あなたさまの亡きご両親と、姉君にございます」

 それは両腕を広げたほどの大きさもある、ひとつの幸せそうな家族の絵であった。

「これが、僕の父上と母上、姉上……」

 左側には椅子に手をかけた茶髪の若い男性が立ち、頼もしい微笑みを浮かべている。武芸を嗜む者特有の鍛えられた体つきをしている一方、瞳と表情が、見るものを惹きつける精悍さと気品を放っていた。黒地に金糸の縫い取りをした服と白いマントも、よく似合っている。

 椅子には桃色の垂髪を上品にまとめた童女のような女性が座っている。いたずらっぽい瞳を閃かせ、今にも明るく話しかけてきそうな表情だ。それでいて、すべてを包んでくれそうな優しさがある。椅子に立てかけられた剣は、自分の腰に下がるものとまったく同じだった。

 そして、彼女の隣には、三歳か四歳程度の少女が座り、大きな瞳でこちらを見つめていた。リーフと同じ癖のない茶髪を胸の下にまで流している。レースのついた緋色の服と同じ色の上等なリボンが、両親から注がれる愛情の深さを示していた。

 それらを見上げて、リーフはわずかに眉を下げた。
 はじめて見る家族の姿は、まさにフィンが語ったとおりだった。温かく和やかな様子は、あまりにも完成されすぎていて、逆に現実感がなかった。

 こんな優しそうな人々の下で育ったら、どんなに幸せな人生を送ることができたことだろう。あの母の腕に抱かれたら、どんな心地だったろう。あの父に頭を撫でてもらったら、どんな心境だったろう。あの姉と遊ぶことができたら、どんな話ができただろう――。
 本物の家族を知らないリーフは、自分の寄る辺ない立場を改めて思い知った。

「これは、キュアン様のシアルフィ遠征からのご帰還の記念に描かれたものでございます。この後すぐに、エスリン様はリーフ様をご懐妊なさいました」
「……父上も、母上も、優しそうな方だな」
「真に民や臣下の信も厚く、だれにでもわけ隔てなく接する素晴らしい方々でいらっしゃいました」
「そうか……一目お会いしたかったな」
「残念なことです」

 ゼーベイアが神妙な顔でうつむく。こんな幸せそうな三人を、トラキア軍はその牙を以って一呑みにしてしまったのだ。彼らを失ったのが物心のつく前であったリーフは、いっそ幸せだったかもしれない。周りの人間の悲しみは、さぞ深かったろう。

「ありがとう、ゼーベイア将軍。レンスター復興の暁には、ここで父上と母上に胸を張ってご報告することにしよう」
「もったないお言葉です。わざわざお時間をちょうだいし、恐縮の限りでございます」
「気にするな。よくやってくれた」

 過去の行いへに引け目があるせいか、ゼーベイアはいつでも腰が低い。そんな臣下を視線と言葉で労ってやってから、リーフは踵を返そうとした。亡き父母とゆっくり向き合いたいところだが、今は時間がない。
 だが、隣にいたフィンが動かなかったことに気づき、――振り向いたリーフは、その場に立ちつくした。

 フィンは、瞳を瞬くこともせず、じっと絵画に眼差しを注いでいた。
 その先で笑みを返しているのは、父、キュアンであった。

 思慕、憧憬、羨望、後悔、悲嘆。すべての感情が混じりあった悲痛な横顔だった。手を伸ばしたくて、しかし届かないと知っている眼。それはまるで、暖炉の前で団欒のときを過ごす家族を、窓の外から凍えながら見つめている子供のような痛々しさだった。

 それまでに臣下や知り合いに言われてきたことが、ひとつの形を成していく。
 だれよりも強く、だれよりも忠義に厚いと思っていた臣下の疵を、このときリーフははじめて見たような気がした。

「フィン」

 小さく名を呼ぶと、フィンは一度だけ瞬きをしてから、胸に手をあて、絵画に向かって深々と一礼をする。
 そして、自分に向けられた群青色の瞳が、父を見るのとまったく同じ感情を湛えていることに気づき、リーフは愕然とした思いにすらかられた。

 それまでも、何度か違和感は感じていたのだ。どうしてこの騎士は、こうまでして己を殺し、自分とレンスターに尽くすのだろうかと。
 昔は普通の優しい少年だったという。それがなぜ、こうも戦い続け、笑顔も涙も失ったのか。ラケシスの想いに答えることもなく、役目を果たし続けたのか。

 その答えが、はじめて見た絵画の中にあったように思えた。

 フィンはレンスターの騎士として忠誠を尽くすことにこだわっているのではない。

 ただ、あの微笑みを浮かべた父の背を追いかけているだけなのだ。
 他のだれでもない。たったひとり、すでにこの世を去った父のために戦っているだけなのだ。

 ――そしていま、フィンは、リーフに父の面影を重ねて見ているのだろう。

 平素を装って歩きだしながら、リーフは拳を握りこんだ。後ろからついてくるフィンの視線が、異様に重い。

(そんなのが人の幸せか? もういない人を追い続けて、傷ついて――。救いなんて、どこにもないじゃないか)

 唇を噛み締めた。喉の奥で、父の名を呼ぶ。

 ――あなたは、強く勇敢な騎士であったけれども。
 ――ひとりの人間を、狂わせてしまったんだ。

 だが、フィンがいなければ自分がいまここにいないことも事実だ。だから一概に父を責めることはできない。その論理も理解できる。
 聡明であるがゆえに、リーフはどうすればいいかわからない。

 いまここに、ラケシスがいてくれたら。

 幼いころに別れた金髪の女性を、リーフは痛烈に想った。フィンを救おうとして泣いていた彼女の気持ちが、ようやくリーフにもわかったような気がした。

(早く帰ってきてくれ、ラケシス)

 聞けばイザークでも叛乱が起き、セリス公子が解放軍を率いて戦っているという。彼らと合流できるなら、再会できる日は近いはずだ。
 彼女の力を借りたかった。フィンの心を解放してやるために。だれかのためではない、自分のための人生を生きてもらうために。

 それが自分にできるフィンへの唯一の恩返しであり、同時にレンスター王家の者として成さなければならない償いであることを知って、リーフは唇を引き結んだ。
 戦いは常にそこにある。心だけでは戦えない。けれど心なくしては戦えない。散っていったものたちが、自分にそれを教えてくれた。
 だから負けるわけにはいかない。戦うのだ。力と心の限りに。そして必ず、後ろに侍る臣下の心を救ってみせる。

 ラケシスとの再会を祈りながら、リーフは再び戦乱の中へと身を投じていった。


 ――すべての希望を打ち砕く最悪の報が、半年後に訪れることも知らずに。


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