明けぬ夜がないように


 ――私も、お供に参ります。

 その一言を、フィンは呑みこんだ。この状況では、なにがあってもリーフの側を離れるわけにはいかない。

 レンスター城を奪還した夜だというのに、城内はひっそりと静まり返っている。だれもが連日の戦いに疲れきり、騒ぐ余力もなく眠りこけているのだ。以前のレンスターであれば、城内の床で兵たちが眠っているなどありえない光景であったが、この連戦では仕方がないと、上官たちも黙認していた。

 その最たる者であるドリアスは、数少ない灯のともった部屋で、淡々と戦支度をしている。

「援軍に駆けつけたレンスター軍の将が、装備も整わぬ老人では末代までの恥であるからな」

 無言で手伝うフィンに、ドリアスはそう笑った。視線で示されたものを取って渡しながら、フィンは目を伏せる。

 フィンから見ても、今回のリーフの決断は無理があるように思えた。隣国の窮状を救うために出陣する。確かに立派な大義名分だ。しかし、この状況で戦えば、確実にこちらが負ける。それを承知の上で、ドリアスは往こうとしている。

「そのような顔をするな。派遣部隊は騎兵を中心に編成してある、いざというときでも半数は生き残れるだろう」

 それは、半数を殺すと言っているのと同じだ。フィンは迷った末に、思い切って口を開いた。

「ドリアス卿。リーフ様にもう一度、派兵を中止されるよう、進言されてはいかがでしょうか」
「できぬよ。アウグストと二人がかりであれほどお諌めしても、無駄だったのだ。これ以上の異を唱えれば、王と臣下の関係を壊しかねん」
「……」

 フィンは、リーフの凄みを湛えた横顔を思い出した。そこに救える民がいるならば、救わなくてなにが王か。毅然と言い放ったリーフは、暗い赤銅色の瞳を、異様な色に輝かせていた。

 リーフが将として立つようになってから、フィンは家臣の立場に戻り、特に政略に関して余計な進言は控えるようにしている。
 彼が進軍中の出来事から貧困層の暮らしに興味を持ったことに関しても、良くは思わなかったが、止めもしなかった。

 すると、リーフはアウグストに連れられて本物の貧民街を見に行くようになった。そのたびにリーフは顔を蒼白にさせて帰ってきた。食事を吐き戻すことさえあり、流石に無茶だと諌めたこともある。だが、それでもリーフは、現実から目を背けようとはしなかった。

 王になる者には、切り捨てなければならないものがある。それまで王族と深く関わってきたフィンは、そう漠然と認識している。
 ならば、リーフがそうまでして心を痛める理由はないのではないか。むしろ眼前の問題に囚われすぎて、大局を見失うのではないか。

 しかしフィンや他の家臣が抱く憂慮は、リーフの真摯な眼差しの前では、いとも簡単に砕け散ってしまう。人の命を救う。その一言のあまりの重たさに、二の句を封じられてしまうのだ。

 ドリアスはひとつ息を抜いて言った。

「……フィン。私はこの戦いで、おそらく死ぬであろう。兵も、多くは逃せぬかもしれん」
「ドリアス卿」
「もしリーフ様が私と兵の死になにもお感じにならなければ……きっと、レンスターに明日はないであろう」

 フィンは、不敬も忘れて凝然とドリアスの顔を見た。騎士の中の騎士として名望も高いドリアスが、こんなにも弱気なことを言った事実が、信じられなかった。
 しかし、ドリアスの老成された眼から光は失せていなかった。

「ただな。私はリーフ様を信じている。あのお方の心は、決して折れぬが、同時にお優しい。必ずや自らの過ちを認め、再び立ち上がってくださるだろう。この老体ひとつで王の覇道の礎になれるなら、この上ない名誉というものではないか」
「…………」

 沈黙を返すフィンに、ドリアスは頬を緩ませて笑った。

「わかっておる。苦しむのは、むしろ残された者のほうだ。おまえには、引き続き辛い役目を押しつけることになる」
「……私にとっては、変わることはありません。無礼を承知で申しあげれば、ドリアス卿のような眼をした方を、これまでに何人も見送りました」

 ドリアスは、ふと胸をつかれたような表情を浮かべてから、「そうか」と短く返した。
 フィンの心中にも、大きな感情の波が去来することはない。有り体に言えば、慣れてしまった。相手の覚悟を知れば、あとは遺志を受け止めるだけだ。軋む心からは、目を逸らし続けるままに。

 しばらく、無言のうちに支度が続けられる。隻腕のドリアスは、ひとつ準備をするにも人より時間がかかる。
 不意に、妙に疲れた様子の声が転がった。

「いまから言うことは、私の独り言だがな」

 手を止めずに、ドリアスはとつとつと語った。

「ゲイボルグを手に戦う賢明な王と忠実な騎士団。このふたつの関係が、騎士国レンスターの理想であった。そしてカルフ王は忠誠を捧げるに値する王であり、私は文官に身を移した後も、忠実な騎士たろうと心がけてきた。あの国は、まことに理想を体現した国であったのだろう」

 今更のように延べられる持論を、フィンは黙って聞いていた。

「しかし、本当にそれが正しく理想的な国であったのか。レンスターが滅びて十三年、気がつけば私は心のどこかで疑うようになっていった」

 真に理想の国であれば、滅びることもなかったろうに。言外にそう言われた気がして、フィンはわずかに眉を寄せる。憧憬を寄せる過去の記憶を、傷つけられたような思いがしたからだ。
 しかし、いまのフィンに口出しをする権利はない。耳を傾けるフィンの前で、ドリアスは、唇の端を歪める。

「リーフ様の目は、すでに私よりも遥か遠くを見られている。言葉にはせずとも、我々が知らずと抱えていた欺瞞を見抜いていらっしゃるのだろう」

 その語り口は、まるですべての仕事を終えた老人のようで。フィンは、昔より随分と肉の落ちたドリアスの背中を見つめた。

「私は古い人間だ。いまさら開明的な国家を論じることは叶わぬ。老いぼれにできることといえば、自ら育てた騎士道を振りかざして敵陣に向かっていくことくらいだ」

 それのなにが悪いのだろうか――、そう考えたとき、ターラ公爵の声が蘇った。
 過去の光景を目指して進み続けるならば、心はいつか死んでしまうと。
 ドリアスも同じだったのだろう。彼この十数年、ひたすら過去の栄光を求めて戦い続け、疲弊していったのかもしれない。

「しかし、死ぬのは私だけで良い。どれほど深い闇に包まれようと、明けぬ夜はない。途方もない苦しみの果てに、きっとリーフ様は真の理想の世界へと、人々を連れていくだろう。ゲイボルグを持たぬリーフ様こそが、新しい国を作るであろう」

 祈るような口調で、背を向けたままドリアスは続けた。

「そして、イードの虐殺によって寄る辺を失った騎士が、リーフ様によって救われることを、私は信じている」

 しん、と静けさが落ちる。ひとつ呼吸を置いて、フィンは問うた。

「……独り言では、なかったのですか」
「独り言だとも。ゆえに、答えなどいらん」

 淡々と返すと、ドリアスは外衣の留め金をとめた。フィンが差し出した剣を腰に帯び、踵を返す。
 その姿は、レンスターの誇り高き騎士として申し分ない優雅さと気高さをまとっている。

 部屋から出ていく直前。背筋を伸ばしたまま、ドリアスは言い残した。

「おまえは、前に進め。決して私のようにはなるな」

 それが、フィンの聞いたドリアスの最後の言葉であった。


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