ひとりぼっち


 シグルド軍がアウグスティ城を制圧して、一年近くが経った。

「おはようございます」

 厩に入ると、やわらかい青年の声が振りかかる。
 いくら早起きをしても先に来ている彼――レンスターの見習い騎士フィンは、すでに馬の手入れを半分も済ませてしまっていた。
 腕まくりをしながら、ラケシスは頬をふくらませる。

「なんだかずるいわ。わたしが寝ぼすけみたいじゃない」
「いいえ。ラケシス様より早く起きている王族はいらっしゃらないと思います」

 フィンは馬の毛艶を確かめながら、そつなく答えた。

 フィンとラケシス。二ヶ月近くに渡る戦争を経てアウグスティ城で再会したふたりは、すっかり元通りの関係を取り戻している。

 ラケシスにとっては、エルトシャンが生きていたという事実が大きい。もしも兄になにかあれば、日常に戻ることすらできなかっただろう。

 そしてフィンも――、どことなく、以前と変わったような気がしていた。
 立ち振る舞いに余裕が出たといえばいいのだろうか。受け答えがうまくなり、少しずつ大人びた雰囲気を漂わせるようになっている。

 聞けば、彼は前回の戦いで、主君から貴重な槍を下賜されたのだという。その事実が、彼なりの成長を呼びこんだのだろう。
 ただ、その分、以前のように目を泳がせたり慌てたりすることはめっきり減った。ラケシスは少しだけ、そのことが気に入らない。

 それだけではなかった。先日、ラケシスはしばらく外出していたのだ。表向きは、別荘の様子を見にいくという話で。しかし、実際はまったく別の場所へ。
 なのにフィンは、何日か姿を見せなかったことにすら何も言わない。帰ってきた次の朝は、まるで前日も会っていたかのように「おはようございます」と微笑んでみせたのだ。

 もちろん、騎士としては、当然の振る舞いなのだろう。
 だが、ラケシスは、なんとなく――わたしに興味がないのかしら、と憮然とした気持ちにもなるのであった。

「ねえ、フィン。今度、早駆けに行かない?」

 誘ったのは、単にフィンの慌てる姿が見たかったからだった。
 こちらを見たフィンの瞳は、わずかに揺れたように思えた。
 しかしフィンはすぐに苦笑でそれを隠してしまう。

「早駆けでしたら、イーヴ殿や他の騎士殿が付き添われるでしょう。私の出る幕ではありません」

 思いがけずあっさりと断られたことにプライドを傷つけられ、ラケシスは眉を吊り上げた。

「どうしてです。わたしが誘っているのよ。――ならこうしましょう、わたしはレンスター式の馬術を習いたいのです! さあ、これであなたが教えてくれるでしょう?」

 フィンは慌てるどころか、息を抜いて穏やかに答えた。その反応が、さらにラケシスの神経を逆撫でする。

「それでしたら、キュアン様にお願いすればよろしいかと思います。見習い騎士の私が姫に間違ったことを教えるわけにはいきません」
「あなたが間違ったことを教えるわけがないじゃない!」

 ただの悪戯心ではじめたことが、気がつけば本物の苛立ちに変わっていた。
 フィンは困ったように目を伏せた。

「私はまだまだ、未熟者ですので。申し訳ありません……」

 彼が見えないところで濡れ布巾を持つ手を握りこんだのを、ラケシスは察しようもなかった。
 二人の合間に気まずい沈黙が落ちる。
 先に口を開いたのは、ラケシスだった。

「……いいわ。もう誘いません」

 ぷいと顔をそむけ、作業に戻る。最低な気分だった。
 自分の白馬に触ろうとすると、白馬はびくりと身体を震わせる。

「どうしたの、カルナン」

 問うてから、ラケシスは馬が怯えていることに気がついた。自分が大声を出してしまったからだ。
 見れば、フィンがさりげなく厩を行き来し、気が立った馬を鎮めて回っている。

「…………っ」

 罪悪感と、なにかに負けた気持ちがこみあげてきて、ラケシスは馬の手入れもそこそこに、厩を後にした。
 後から思えば、その日は彼女にとっての厄日だったのかもしれない。
 最悪の一報は、午前中に続いてもたらされたのだ。



「どういうこと!? シャガールは気でも違ったのですか!?」

 ラケシスは、怒りを顕にしてテーブルを叩いた。だが、シャガール蜂起の報を伝えに来たベオウルフの眉は、ぴくりとも動かなかった。

「単に奴に堪え性がなかったというだけだ。ま、グランベル側の統治も酷ぇやり方だったから、どっちもどっちだがな」
「兄様がそんなことをお許しになるはずがありません!」
「エルトシャンも万能じゃない。いかに一国の王とはいえ、やつは一人じゃ自国も取り戻せない若造に過ぎんからな」
「兄様を悪く言わないで!!」

 とうとう、ラケシスの瞳から涙が溢れた。はっとしたラケシスは、頬を手で拭いながらベオウルフに背を向ける。

「……シグルド公子は、アグスティの返還を何度もグランベルへ進言されていたわ。それに、このまえ兄様と会ったときには、戦は必ず回避すると約束してくださったのよ」
「そりゃ、妹の前で『俺じゃシャガールを止められません』なんて情けない返答ができるわけないだろ。まったくあんたは、頭の隅までおめでたいな」
「な……っ!」

 振り向きざまに、憎悪すらこめて睨みつける。
 醒めた目をしたベオウルフは、肩をすくめてみせた。

「大体、あのときのエルトシャンの顔色をみたか。死人も同然だったぞ。それを妹のあんたが察してやれずにどうする」
「っ、そんなことは……!」

 ない、と言い切ることができず、ラケシスは言葉に詰まって立ちつくした。


 グランベルがアグスティを占領して一年。シグルドとエルトシャンは、隠密に連絡をとりあう関係が続いていた。
 もちろん、実際に会うことなどできない。シグルドの保護下にあるラケシスも、エルトシャンへの接触は禁じられていた。
 だが、いてもたってもいられず、数日前、ラケシスはベオウルフに護衛してもらって兄の潜伏するシルベール城へ赴いたのだ。
 久しぶりに会う兄に、ラケシスはたっぷり数分は抱きついた。互いにいつ命を落としてもおかしくない情勢下で、不安に揺れる心はちぎれる寸前だったのだ。
 泣きじゃくるラケシスの頭を、エルトシャンは涙が止まるまで撫で続けてくれた。
 そして、無断で来てしまったラケシスを咎めもせず、それどころか優しく元気づけてくれたのだ。

(わたしは、兄様に会えたことが嬉しくて、甘えるばかりで……兄様のことをぜんぜん見ていなかったんだわ)

 思い出してみれば、別れ際に、兄はベオウルフに「妹を頼む」と頭を下げた。
 一国の王が、ただの傭兵に頭を下げたのである。無論、ラケシスは怒り、このような男に敬意を払う必要などありませんと怒鳴った。
 だが、そのとき。兄はすでに、覚悟を決めていたのではないか――。
 自覚すると、さらに涙があふれてきた。

(兄様……兄様、いや。戦わないで。わたしの傍にいて……)

 祈りがそのまま天に届けばどれほど良いことだろう。
 そのとき、頭の隅にフィンの顔が浮かんだ。いつでも同じ時間に厩で待っていてくれる、陽だまりのような青年の顔が。
 衝動的に、あの優しさに縋りたくなる。兄様を助けて、と。
 しかし――今朝の出来事が脳裏に瞬く。そうだ。彼に救いを求めても、彼は朝と同じように首を横に振るだろう。彼は、レンスターの人間なのだから。

(わたしは……)

 諦念が、冷たい水となって全身に広がっていく。

(わたしは、ひとりぼっちなんだ……)

 叫びたくなるような重く暗い感情を受容したとき、ラケシスは決意した。

(泣いてちゃ駄目。わたしが……わたしがなんとかしなきゃ。兄様を守らなきゃ)

「おい、ラケシス」
「近づかないで!」

 ベオウルフを激しく拒絶すると、ラケシスはもう一度涙をぬぐって踵を返した。
 未だ幼さを残す少女の顔には、追い詰められた子鹿のような悲壮な意思がみなぎっていた。


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