遭遇


 猛烈な風雨が顔に吹きつける。鈍色の景色が油絵のように溶けて流れていく。
 馬を疾駆させながら、フィンは守るべき主君を必死に探していた。

「――っ。リーフ様! どちらにおいでですか!」

 腹の底から叫ぶが、返事はない。

 雨の中ではじまったターラの決戦は、混戦の模様を呈していた。城壁は一部が壊されて帝国兵が市街になだれこみ、街路までもが戦場と化している。

 リーフの名の下に集まったレンスター旧臣の内、騎馬兵は正門の守りを任された。フィンとリーフもこの中で戦っていたが、旧臣たちの士気は高く、思いがけず敵軍を押し切ることができた。
 アウグストの進言もあり、リーフは隊をふたつにわけ、片方の隊で城壁外に打って出ることにした。市街に矢を降り注がせる弩弓隊を殲滅し、敵将の首を取るためである。

 ノヴァの血を引く者に怯懦の念はなし、という詩があるが、リーフはその点でいえばノヴァの子孫にふさわしかった。他人に言われずとも自ら門外へ往く危険な隊を選び、その陣頭に立ったのだ。もちろんフィンも護衛として伴についた。

 百に満たない兵での単独行動は、一見、無謀な策にも思えたが、降りしきる雨と霧がリーフたちに味方した。直前まで彼らの存在に気づかなかった弩弓隊は、リーフたちの奇襲に総崩れとなった。

 そこまでは良かったのだ。取って返した先に、トラキア軍のドラゴンナイトの群れを見つけるまでは。

 相手が帝国の重歩兵隊であれば、たとえ発見されても騎馬の脚力で逃げることができる。だが、飛竜と相対しては、馬など地上を這いずるネズミ同然であった。即刻退却の指示が出たが、あちらこちらで兵が動転したため、系統だった陣形で逃げることすら叶わなかった。
 さらに帝国兵の増援までもが来て、なすすべもなく乱戦に突入した。ドラゴンナイトが帝国兵との戦闘を嫌って攻撃を止めたのは不幸中の幸いだったが、完全に崩れた陣形で迎え撃った結果、血で血を洗うような凄絶な戦いとなった。

 そんな混戦の最中で、狭い視界に阻まれ、フィンはリーフの姿を見失ってしまったのである。

 日を追うごとに強くなるリーフの力量を最も間近で見ていたフィンである。彼がそう簡単に死ぬとは思っていない。
 しかし、なにが起きるかわからないのが戦場であった。一刻も早く合流しなければならない。

 そのとき、雷光に似た光が空に走った。フィンは、はっとして南の方角に視線を向ける。
 森の中から空に向かって一直線に伸びた光は、リーフの持っている光の剣のものだ。敵に自らの位置を知らせることを承知で発動させたということは、ただならぬ状況に立たされているに違いない。

「リーフ様……!」

 フィンは鋭く手綱を引き、全速力で光の方角に向かった。



 空に伸びる光の柱を見たのは、無論フィンだけではない。
 ターラを手中に収めるべく放った部下の戦いぶりを眺めていた男は、怪訝に思って光の近くまで飛竜を進めた。
 そして、息を呑んだ。

 木々の合間には栗色の髪をした少年が、馬のそばで剣を杖代わりにして立っている。周りに臣下らしき者はいない。足を痛めていることは、遠目からもわかった。
 その顔立ちは、男がいつぞやに屠ったゲイボルグを持つ若者に瓜二つだ。つけている鎧も、明らかに将の位を示すもの。間者からターラに入ったと情報は得ていたが、まさかこんな場所で見つけることになろうとは。

「――ふ」

 男――トラバントの唇が、皮肉げにつりあがった。
 悠然と飛竜の手綱を引き、下降を命じる。

 まさか亡国の遺児を、こうも簡単に殺せる日が来るとは思っていなかった。北トラキアの民を束ねる少年の存在は、トラキア半島統一を悲願とするトラバントにはただの障害でしかない。余計な芽はさっさと摘み取るに限る。

 近づいていくと、ようやく少年がこちらに気づく。まだ顔に幼ささえ残す年頃の少年であった。その顔が驚愕と恐怖に引きつる様を――トラバントは想像したが、見ることは叶わなかった。

「――?」

 予想に反し、少年は一瞬だけ瞳を見開いた後に、覚悟を決めたように顎を引き、戦意を湛えて剣を構えたのだ。年齢相応の態度ではない。覚悟を決めた、戦士の顔だった。

 それが砂漠で敢然と向かってきた彼の父親の顔にかぶり、記憶を刺激する。この少年は、紛れもなく、あのとき拾った娘の――弟なのだ。
 トラバントはすこしだけ趣向を変えることにした。森の中に飛竜を下ろし、悠然と少年を見下ろす。
 少年は、うなるように言った。

「トラキア兵だな」
「いかにも。そして貴様は、レンスターの王子リーフであるな?」
「……そうだ」

 忍びの身であるため、トラバントは目立たぬ黒衣を着ている。少年――リーフがこちらの正体を見破れぬのも、当然であった。
 ただし、リーフの受け答えは、下手をすれば気圧されるほどに堂々としたものだった。トラバントは鼻を慣らして問う。

「このような場所で敵にまで居場所を知らせるとは、すこし軽率ではないか?」
「確かに、迷った。でも、この足じゃろくに馬も走らせられない。臣下を呼ぶしかないと思った」
「戦いの最中では、駆けつけるのも難しいと思うが?」
「おまえになどわかるものか。あいつは、必ず来る」

 その眼光が虚勢でないことは、一目みればわかった。本気で臣下を信頼している顔だ。そして、そうした顔をする者だけが、配下から本物の信頼を勝ち得ることができることを、トラバントはよく理解していた。
 あの男の倅にしては、面白い少年だ。唇に笑みを刻みながら、肩をすくめてみせる。

「だが先に来たのは私だった。私に勝てると思うか?」

 リーフは、すうと眼を細めた。

「……難しいと思う。おまえは、強い。見ればわかる」
「ならばどうする? 泣いて命乞いでもするか?」
「命乞いなんてしない。戦えるだけ、戦うだけだ。僕はまだ、死ぬわけにはいかない。それに、おまえたちは父上と母上の仇だ」

 右足の筋か骨を痛めたのだろう。身体の重心の位置がおかしい。額には脂汗が浮いている。だが、その瞳から戦意が失われることはない。彼に寄り添う馬までもが、飛竜を前にしても逃げ出すことなく、敵意を顕に前足で大地を小突いている。
 その清廉とした闘志の歪む様を見たくなり、トラバントはわざと嘲るように言った。

「そうとも。我々の軍が貴様の両親を殺した。臣下から聞いているか? キュアンもエスリンも首を刈り、死体は金品を剥ぎ取り心ゆくまで辱めてやった。首はトラキア城の門に三日三晩晒されておったわ。中々良い景観であったぞ」

 期待したとおり、リーフの目がぎらりと光った。暗い赤銅色の瞳に、黒い憎悪が渦巻く。わずかに開いた唇の間から、犬歯が覗いた。激怒していると、一目で知れた。
 ところが、その喉が紡いだものは、予想した恨み言ではなかった。

「なぜだ」

 少年は、狂わんばかりの憎しみをこめて、問うてきたのである。

「なぜ、それほどまでの悪意をレンスターに向けた?」

 わずかな不快感が首元に走る。怒り狂って斬りかかってくれば良いものを。そうまでして対話を求める器量を、その年齢で持ちあわせているというのか。
 まさか。あの直情的な男の息子が。ありえない。トラバントは追撃の方法を変える。

「当然ではないか。北トラキアの連中に受けた仕打ちを思えば、挨拶程度のことだ。利己的な北の貴族どもによって、いったい幾人のトラキアの民が飢えて死んだことか。何人の女が貞操を売り、何人の男が無頼に身を落とし、人生を破滅させたことか。その怨嗟を北トラキアの頂点に君臨する者が被るのは、当然であろう」
「……南トラキアの貧困については、話に聞いている」
「だからどうした? 貴様が北トラキアを代表して地に手をつき、謝りにくるとでもいうか? 貴様を八つ裂きにして死体を城門に磔にしておけば、確かに民の心もそれなりに癒されるかもしれんな?」

 わざと追い詰める言葉を選び、トラバントは嘲弄した。答えのない問いを投げられた人間は、口ごもるしかない。簡単に答えが出るのなら、この世界に戦いなど必要なかったはずだ。
 実際にリーフは、苦悩に顔をゆがめ、視線を落とした。しかし、覇気を衰えさせることはせず、歯を食いしばって答えた。

「……そうか。それが、トラキアの民の率直な想いか」
「ほう、我らが苦しみを理解したとでもいうのか?」
「理解なんてできない。僕はその苦しみを直接味わったことがないし、想像するのがせいぜいだ」

 ゆるりと目線があがり、トラバントを捉えた。まっすぐに開かれた瞳に射抜かれた思いがして、わずかに呼気を止める。

「それでも、おまえたちのやり方は間違っている。おまえも、トラバント王も。復讐のために平気で人の尊厳まで傷つけるようなやつらに、民を幸福にさせることなんてできはしない!」
「ほざくな、小僧が!!」

 衝動的に叫んでから、トラバントは愕然とした。王たるこの自分が、たった15歳程度の少年に一瞬でも圧倒されたというのか。

「ならば貴様はどうやって民を導く? 傲慢な北の貴族らしく、南の犠牲の上に自らの栄華を築き上げるのか?」
「北とか南とか。おまえみたいに、いちいちわけて考えるからおかしくなるんだろう」

 リーフは吐き捨てるように言った。滾るような憤怒と憎悪をまといながらも、己の目的を見失わない。そんな、王者にふさわしい風格を眼光に秘め――。

「ただ助け合えばいいだけなんだ。食べ物の豊富な土地と、鉱山の豊富な土地。すべてがひとつになれば、トラキア半島は大きな国になれる。――簡単なことじゃないか」

 彼はそう語った。
 トラバントがそうしたように、幼い唇で、国家を語った。

 本能が、この少年を殺せと叫んでいた。いますぐ殺さねば、幼い猫は将来化けるかもしれない。
 だが――同時に気づいてしまう。彼は猫などではない。いつか自分を食い殺す才覚を秘めた、虎の仔だと。

 言葉が途切れる。トラバントは、正面からリーフを見据えた。

 彼自身の望む未来は、リーフと同じ、トラキア半島の完全統一だ。アリオーンとアルテナは、その統治を任せられるように教育した。北の貴族どもを徹底的に駆除し、北トラキアを穀倉庫として大国グランベル帝国と渡り合える強国を作る。それが貧しい国の王として屈辱的な人生を生きてきたトラバントの野望であり夢であった。

 なのにリーフは己と同じことを、己よりも高らかな光を湛えて語る。
 己に持ち合わせることのなかった、清廉な光をもってして。
 その事実の、なんと疎ましいことか――。

「リーフ様!」

 鋭く馬蹄で土を削りながら、一機の騎士が踊りこんできた。騎士はこちらに気づいて、顔色を変えた。

「おまえは――」
「フィン!」
「リーフ様、お下がりください! この男は、トラバント王です!」
「――っ!?」

 リーフの驚愕を背に、騎士が疾風となって斬りこんできた。怖気を覚えるほどの速さと正確さ、そして容赦のなさ。青い瞳に、積年の憎しみが煮えたぎっている。
 ――この表情こそが、あの少年に求めたものなのに。

 トラバントはドラゴンナイト用の長槍で騎士の槍を受けた。騎士は槍を滑らせ、火花を散らせながら首元を狙ってくる。が、届く寸前でトラバントは飛竜を発進させた。特別に訓練された飛竜は、平地からも一瞬で舞い上がることができるのだ。
 はためく翼によって大量の木の葉が巻き上がり、騎士が悔しげに目を細めながらも手槍を取った。その闘志に、ただならぬ凄みがこめられている。いまは属国と化したレンスターの、かつての忠臣であったに違いない。このまま戦えば、いらぬ手傷を負うであろう力量を持っていた。

「また会おう、レンスターのリーフ王子。次は敵としてな」

 手綱を操り、投擲される槍を避けながら、トラバントは一気に高度をあげた。あっという間に王子と騎士の姿は森の中に消えていく。そのまま、身を隠すために雲に入った。
 どれほど飛んだだろう。雲から出るころには、雨は先程よりも弱まっていた。
 霧雨を受ける頬に、片手をかぶせる。

「そうだ。私は、貴様の敵だ……」

 決して相容れない存在。倒すべき相手。抹殺しなければならない邪魔な火種。
 レンスターのリーフ王子。
 もしかすると、自分よりも良い国を作るかもしれない少年。

「そんなことがあってはならない」

 言い聞かせるようにトラバントはつぶやいた。長年をかけて積み上げてきた矜持が、彼の心に敵意と殺意を宿していく。
 手をどけたトラバントは、はるか下方にある森に冷徹な眼差しを落とし、――昏い情念を胸の内から言葉にした。

「トラキアの王は、私なのだ」


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