懐かしき都


 5年ぶりのターラは、降り注ぐ長雨によって灰色に濡れていた。
 帝国軍の包囲網の間を縫って城壁内に入ったリーフたちは、休む間もなく総攻撃への準備に追われることになった。

 地形の確認のために街中を馬で進んでいたフィンは、つと手綱を引いて歩を止めた。
 見上げた先には、以前ターラ公爵の別邸として舞踏会が開かれていた屋敷がある。
 ――無残に変わり果てたその姿に、フィンはわずかに眉を下げた。

 帝国の支配を受けてから、すぐに公爵家から取り上げられたのだろう。トラキア半島の豊かさを象徴していた豪奢な彫刻や飾り細工は剥ぎ取られ、外装は帝国風の無骨な造りに改築されていた。帝国兵の兵舎代わりに使われたらしく、芝生は荒れ放題になり、折れた武具が散乱している。美しかった庭園の草木も、ほとんどが枯れてしまい、見るも無残な様子だ。
 そこで暮らしていた兵たちも、子供狩りが始まってからは姿を消したのだろう。いまや屋敷は、廃屋同然となって錆びた門の奥に閉ざされていた。

 フィンは、しばらくその場に佇んでいた。彼の瞳は、そこに眠る記憶ごと死に絶えてしまったような屋敷の、懐かしい姿を探してさまよっていた。

 あの日の晩は、よく晴れていたものだった。窓からは眩しい光がこぼれており、開かれた外門の向こうは、来訪者の馬車で一杯だった。
 曲がりくねった通路に造られたバラのアーチは、見事に配置された燭台によって複雑な陰影を作っており、幼いナンナがその下を踊るように歩いていく。
 巨大な正面玄関の前には四人の衛兵が立っており、貴人の来訪を告げる鐘を鳴らす。ほどなくして玄関の戸が開き、中の光が嵐のように吹きつけてくる。
 リノアンの手を引いて進むと、世界が鮮やかに変わる。瀟洒な照明の下、池に咲く蓮の花のように、色とりどりの貴族の男女が踊っている。
 流麗な音楽と、香水の芳しさ。シャンデリアのきらめきと、紅を引いた乙女たちのほほ笑み。


 そんな夢のような空間の中に、真紅のドレスを着たあの人が、目を見開いてこちらを見つめていた。


 小雨を吸った髪から、雫がぽたぽたと落ちて頬に当たる。顎からも、雨水が滴っている。身体は、冷たく濡れていく。節々に感じている軋みが、普段よりも強く痛む。
 フィンの瞳に映る鈍色の景色からは、あのときの面影を少しも感じ取ることができなかった。
 それほどまでの年月が経ってしまったのだと、ひとり思う。

「頭を冷やすにしても、少し長くはありませんか?」

 だれにともなく、フィンはつぶやいた。

 ターラに、ラケシスの手がかりはなかった。リノアンは悲しげに首を横に振るだけで、便りのひとつも来ていないということだった。

 もちろんターラに帰ってきたからといって、会える確証があったわけではない。
 それでも、――期待は、していた。
 勝手にターラを脱出したフィンたちを、腹を立てながら待ってくれていたなら、どれほど良かったろう。
 せめて手紙の一通でも届いていたら、どれほど良かったろう。
 少なくとも、こうも胸が詰まる思いはしなかったはずだ。

 ただ、彼女がイザークへ行ってしまったのは、フィン自身の責任でもある。
 きっと行かせない方法はあったのだろう。自分が、自分の意思で、その選択をしなかっただけで。
 だからこれも、自身の罪への報いなのかもしれない。手綱を握りこみ、目を伏せる。

「お父さま!」

 唐突な呼び声に、現実へと引き戻された。振り向くと、ナンナが馬を駆ってくるところだった。
 ナンナは剣の修行があまり好きではない割に、乗馬のほうは得意だった。巧みに手綱を操ってフィンの隣につけてくる。

「市街の調査はもう終わったのか」
「はい。どこも同じような様子でしたから。みんなターラを捨てて脱出したいみたいで、荷物をまとめて様子を伺っています」
「……それはリーフ様に伝えるべき話だな。私は正門のほうまで回ってから帰る。先に行って報告を頼む」
「はい……」

 リーフの名前が出ると、ナンナはすこし困ったように目を逸らす。
 ただフィンは、ナンナの後ろで気まずげに同乗している藤色の髪をした若い男が気になって、目をやった。

「その男は」
「あっ、はい。市街地の酒場で呑んだくれてたんですが、魔法が使えるみたいなので。ひっぱたいて、連れてきました」
「そりゃないだろ。かわいい女の子を愛するのが男の務めなんだ――いっ!?」
「腰に手を回さないでください。お父さまに言いつけて、串刺しにしてもらっちゃいますよ」
「ん? そういやさっき――げっ。お、お父様って、まさか」
「そこにいるひとです」

 若者は、恐る恐るこちらを見て、「お若いお父様で」と愛想笑いをした。若干、顔色が青い。

「では、わたしは先に戻ります。お父さまも、お気をつけて――」

 そこでナンナは言葉を切った。屋敷の存在に気づき、はっと目を見開く。そして、苦しげに眉根を寄せた。

「お父さま、ここって……」
「気をつけて帰れ」

 フィンはそれだけ告げて、馬の腹を蹴った。ナンナとは、――いいや。いまは、だれとも、その話をしたくない。口に出せば出すほど、自分の弱さを露呈する羽目になる。

 帝国の総攻撃を控えた市街は、死んだように静まり返っていた。いつぞやの賑わいは夢のように失せ、人通りの耐えた町並みは落ち葉やごみが放置されるままになっている。
 正門で見回りの手伝いをしていたフィアナ義勇軍の面子と情報交換を済ませると、フィンはまっすぐに公爵邸へと向かった。
 玄関のところで髪を拭いていると、グレイドと鉢合わせになった。

「いま、呼びにいこうと思っていたところだ。まったく、貴様と顔を合わせるのは面倒な時ばかりで、ろくに酒も飲めんな」
「この時勢では飲む酒も作られてはいないだろう」
「違いない」

 会話を交わしながらも、ふたりは早足に廊下を進む。

「城壁が崩れかかっている部分があった。あれを突破されると市内に敵が流れこんでくるぞ」
「ああ。そちらにも兵を割くことになっている。分散による犠牲と市内での戦闘は、もとより覚悟の上だ」
「苦しい戦いになるな」
「相変わらず涼しい顔で言ってくれる。貴様は、変わらんな。いいや――」

 グレイドはつと言葉を切らし、視線をさまよわせた。言葉に迷うような沈黙を置いてから、問うてくる。

「……貴様は、なぜそうも変わらずにいられる?」
「――?」

 横目で問い返すと、グレイドは年齢相応の疲れとしわの刻まれた眼を険しく細めた。

「この戦いが無謀にすぎることは、だれの目にも明らかだ。私でさえ、レンスター再興の夢を疑うことがある。我々の戦いは無意味ではないかと考えることがある。――これまでに、何人もの騎士が絶望の内にドリアス卿の元を離れていった」

 深い懊悩を湛えたまま、グレイドは押し出すように続けた。

「そんな夢を、なぜ貴様は変わらずに抱いていける? やはりリーフ王子のお傍にいたからか? あの方は、それほどの忠誠を捧げるに値する名君なのか?」
「…………」

 フィンは視線を前に戻す。答えなど、決まりきっていた。

「私がいまこうして戦っている理由は」

 迷いもなく、言葉を紡ぐ。

「それがキュアン様に与えられた使命だからだ」

 グレイドが、凝然とこちらを見返した。
 数秒の間の後、なにかを言いかけて口を閉じ、腕をもたげ、ぐしゃりと自らの髪をかき回す。
 そして、唇の端をゆがめると、敗北を認めるように言った。

「……はは。筋金入りだな、貴様は。セルフィナがあれほど怒っていた理由が、わかった気がする」

 だが、とグレイドは笑みを浮かべて続けた。

「それでも、貴様のそんなバカなところが変わっていなくて、安心した」
「……褒めているつもりか?」
「貶しているに決まっているだろう。ただし、バカにしかできんことも、世の中にはある」

 そう言って、グレイドはフィンの背中を叩いてきた。先ほどまで眉間に浮いていたしわが、消えている。それだけで、昔日の明るい性格が戻ってきたように見えた。

「これまでよくリーフ王子を守り切ってくれた。やはりキュアン様の目は、間違っていなかった」
「その台詞は、まだ早い。我々は、明日をも知れぬ身だ」
「いまぐらいは言わせておけ」

 笑うグレイドの顔を見て、フィンはこの屋敷の昔の持ち主の言葉を思い出した。

 ――己の夢を忘れんようにしろ、騎士殿。心を殺すなよ。

 過酷な戦いの果てに荒んでいたグレイドの表情に、いまようやく心が宿ったように思えるのは、気のせいだろうか。
 だとすれば、自分はどうだろう。まだ、心を保っていられているだろうか。
 ――心は、あるだろう。もし完全に砕けてしまったなら、あの屋敷を見てああも苦しい思いにかられはしなかったはずだ。
 いまだ夕闇の中で、時になじられ、滅びを身近に感じながら、ぎりぎり光を見ていられる自分の姿を、ターラ公爵は認めてくれるだろうか――。

「――行くぞ。正念場だ」
「ああ」

 緩みかけていた歩調を引き締め、二人は軍議の場へと向かった。
 夜明けの向こうには、想像を絶する死闘が待っている。それでも散った者の遺志を継ぐ彼らに、立ち止まる道はないのである。

 続きの話
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