もう子供じゃない


「もしかしてナンナは、僕のこと嫌いなの?」
「えっ?」

 ――ナンナはいま、絶体絶命の危機にあった。

 ターラへの行軍の合間の休憩時間である。糧食を配っていたナンナは、最後にやってきたリーフに、真正面から爆弾発言をかまされたのであった。ナンナは、射すくめられたように硬直した。持っていた盆を取り落とさなかったのは、奇跡に近かった。

「そ――そんなことは、ありませんが」
「そう? じゃ、久しぶりに一緒に食べない?」
「えっ、でも、その、……マリータと食べるので」
「マリータなら、さっきものすごい勢いで食べて剣の練習に行ったよ」

 ダキアの森内で偶然の再会を果たしたマリータは、人が変わったように修練に励むようになっていた。
 暗黒の剣に操られてしまったのは、自分の心が弱かったせいだ。エーヴェルに教えられていたにも関わらず、精神の鍛錬を軽視していたからだ――。そういった思いが、いまの彼女を駆り立てているのだろう。

 そんなわけで唯一の言い訳をあっさり破られてしまったナンナは、視線を泳がせる他にない。
 このところ、リーフとともにいると、妙に気恥ずかしい気持ちにかられるのだ。フィアナ村にいるときも気まずく思ったことはあったのだが、レイドリックの手の元から救ってもらってからは、特に顕著であった。
 勇敢に敵に向かっていく姿や、ハンニバル将軍と対等に話す姿、見習い騎士たちに鮮やかな笑顔を見せている姿。ひとつひとつが脳裏に焼きついてしまい、どうにも離れてくれない。

 彼のことが好きなんだろうかと考えると、目元が熱くなるのだが、恐ろしくて自分では判断できない。この大変な時期になにを考えているのだと思えば、人に相談することもできなかった。

 うつむいてしまうと、リーフは不思議そうに目をしばたき、ナンナの周りを歩き始めた。様々な方向から眺め回されたナンナは、蛇に睨まれた蛙同然であった。

「……変なナンナ」
「へ、へんじゃありません」
「ほんとに嫌なら、べつにいいんだけど」
「い、いやじゃありません。じゃあ、ご一緒させてください」
「いいの?」
「はい」

 精一杯の虚勢を張って、ナンナは言った。平常心、と念じながら、リーフについていく。

 適当な木陰を見つけて座ると、リーフがすぐ隣に腰掛けた。ナンナは悲鳴をあげそうになって飛び上がり、リーフの対面に移動した。

「どうしたの、ナンナ」
「こ、子供じゃないんですから。隣同士に座ることないじゃないですか」
「……ついこの前までフィンと一緒に寝てたナンナが言えることか――ぐっ!?」
「もう一年以上前の話です!」

 スプーンを投げつけたナンナは、それを拾って布でぬぐいながら再び腰を降ろした。リーフに子供扱いされるのは、どうしても気に食わないのだ。理由は、自分でもよくわからないけれども。

「それにしてもナンナは、変わったよね。前みたいに僕と話さなくなった」
「……わたしだって、もう大人なんです。いつまでもリーフさまの後を追いかけるようなことはしません」
「つまり、大人になったから、僕と話したり近くに座ったりしないってこと?」

 よくものを見そうなリーフの瞳は、いつも物事の本質を突いてくる。その瞳に見つめられると、嘘や誤魔化しなど簡単に暴かれてしまう。だからだろうか。他の人と違って、素直にしゃべることができないのだ。

「だ、だって。おかしいじゃないですか。ずっと一緒にくっついてるなんて、こ、こっ……恋人じゃ、ないんですか、ら」

 最後のほうは声がかすれてしまった。自分は勢いに任せてなにを言っているのだろう。耳が茹であがるような感覚を覚える。
 するとリーフは、豆のスープを咀嚼して飲みこんで、鼻から息を抜いてみせた。

「うん……まあ、そうだね」
「……」

 今度はがっかりした気持ちが襲ってきて、ナンナは愕然とする。自分はなにを期待しているのだ。バカだ。大バカだ。
 しぼむ心を持て余しながら、ナンナはパンをちぎって口に入れた。固いパンはスープに浸さないととても食べられたものではないのだが、考えている余裕もなかった。
 二人で向き合ったまま、もそもそと食事を続ける。

「贅沢は言えないけど、こんなのじゃなくて、たまにはおいしいご飯も食べたいね」
「……はい」

 そうは答えているが、食事の味などまるでわからない。リーフはナンナの内心を知ってか知らずか、ふと視線を遠くに向けた。

「この森を抜けたら、ターラが見えるはずだ。あそこのはちみつの揚げパン、また食べたいけど……いまじゃもう売ってないだろうな」
「……はい」
「ナンナはあのパン、食べたことあったっけ?」
「……はい」
「本当はさ、あの揚げパンをもう一度食べるために僕はターラ行きを決めたんだ」
「えっ」

 さすがにぎょっとすると、リーフはニッと笑ってみせた。

「なんてね、嘘だよ。ナンナが僕の話を聞いてないみたいだったから、からかってみた」
「…………」
「ねえ、ナンナ」

 名を呼ばれ、ナンナはスプーンを握りしめた。恐る恐る見上げたリーフは、思いがけず真面目な顔をしていた。

「ターラにラケシスがいるといいね」

 つと、心臓を握られる錯覚を覚える。ナンナは無意識に胸元の首飾りに触れた。先ほどの激しくうねる気持ちとは別の、炭火のようにくすぶる思いが浮き上がってくる。

「覚えてる? ターラから逃げ出した日、フィンに言われたこと」
「……はい」

 忘れるものか。あの辛く悲しく、きらめくような記憶を。抱かれたフィンの腕の感触から、その言葉から。すべてを昨日のことのように思い出せる。

「――お母さまは、きっと生きている。だからいつか、わたしたちは帝国を破って、ターラに戻って」
「すべてが終わったら、ラケシスを探しに行こう」

 リーフが続きをつぶやいて、深くうなずいた。

「いまでもフィンは、ラケシスが生きてるってちゃんと信じてる。だから僕たちは、ここまで生き延びてきたんだ。あの日の約束を果たすときが、きたんだよ」
「……でも、お母さまはターラに帰っていないかもしれません」
「大丈夫。もしターラにラケシスがいないなら、イザークにいるってことだよ。僕たちが帝国軍と渡り合っていれば、イザークのシャナン王子も動き出す。僕たちが合流するときに、きっとラケシスにも会えるよ。それに、まだ会ったことのない君のお兄さんにも」

 ナンナは、コクリとうなずいた。おそらく自分は、とても頼りない顔をしていたのだろう。リーフはもう一度笑って、言った。

「ナンナ。大丈夫だよ。きっと、大丈夫」
「――あ」

 ようやくナンナは気づいた。
 リーフは、自分を励まそうとしてくれているのだ。
 自分はただ、浮わついた気持ちを持て余していただけなのに。

 穴に入ってしまいたい恥ずかしさと、自分をなじりたい思いと、それらを押し流してしまう熱い感覚が胸を灼く。

 ――ああ、これは。

 理解したナンナは、唇を噛みしめ、首飾りを握った。リーフを見上げて、ちいさく返事をした。

「…………はい」
「あ、笑った」
「えっ」

 リーフは白い歯を見せて、満面の笑みを形作る。

「ようやく笑ったね。フィンにはよく笑うのに、僕の前だと全然笑ってくれないんだ、ナンナは」
「そ……そう、でしょうか」
「そうだよ」

 いつから、彼はこんなに優しい声を出すようになったのだろう。
 もう子供ではないと言ったのはナンナ自身だ。なのに、今更になって思い知る。
 リーフもまた、子供ではないと。

 諦めに似た気持ちで、ナンナは自身の心を認めた。

 ――わたしは、リーフさまに恋をしている。

 言語化してしまえば、事実はストンと胸に落ちていった。
 一緒にいたい。笑ってほしい。もっと近くに寄りたい。もっといろんな顔を見せてほしい。
 次々と沸いてくる情動を、ナンナは苦笑とともに受け入れていく。

 ――そうね。リーフさまがお許しになる限りで、すこしだけなら。

「リーフさま。ターラについたら、空いた時間に屋台を探してみましょう。どこかで、残っているかもしれません」
「うーん。行きたいけど、そんな暇はないだろうなあ」
「暇は作るものです。リーフさまがもうちょっと早起きすればいいんですよ」
「げ。……そんな朝早くに、屋台なんてやってないよ」
「じゃあ、早起きして確かめに行きましょう」

 渋面になるリーフを見て、ナンナは笑ってしまった。過酷な行軍中のひとときなのに、心がこんなに軽くなるのが不思議でたまらない。
 すると、リーフはふとナンナの顔をじっと見つめてきた。さすがにそんなことをされると気恥ずかしい。

「なんですか?」
「……うん」

 思案顔のリーフがなにかを言いかけたそのとき、進軍準備を告げる笛の音が聞こえてきた。

「あっ、いけない。急がなきゃ。僕は先に行くね」

 リーフはそう言うなり、一気にスープをかきこんだ。ぺろりと唇を舐めて、先に立ち上がる。
 そして去り際に、さも当然のように告げた。

「僕は、ナンナのことが好きだよ」

 …………。

 …………。

 停止するナンナに「じゃ」と笑顔で手をあげると、リーフは走っていった。
 その姿が見えなくなってからたっぷり数秒を置いて、ナンナの手の内から、からーん、とスプーンが落ちていく。

「……えっ? …………え、えっ?」

 気持ちに整理をつけたはずの少女は、こうしてふたたび懊悩の渦へと捕らわれていくのであった。

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