卑怯者


「フィン、ひとつ訊きたいんだけど、いいか」
「はい」

 ミーズ城を発って、数日。馬上から、リーフは気遣わしげな目を向けてきた。

「放浪していたころ、フィンはよく後で食べると言って僕とナンナだけに食事をさせていたな。――もしかして、自分は食べていなかったのか」
「…………」

 なんだと思ったフィンは、ひとつ瞬きをして、視線を前方に戻す。

「大したことではありません」

 リーフは物言いたげに口を開いたが、目蓋を伏せて、「そうか……」と返すにとどめた。じっと考えこんでいる様子の主君を横目に、フィンはさりげなく崖側に回って、リーフの馬がうっかり足を踏み外さないようにしてやった。

 このところ、リーフは物思いにふけることが多くなった。あのアウグストとかいう元司祭に色々と吹きこまれ、悩んでいるらしい。今も、きっと彼になにか言われて問うてきたのだろう。余計なことを、と心の中で元司祭に悪態をつく。

 あの旅路で、つらい思いをしなかったといえば、嘘になる。投げ出したくなったこともある。だが、己に与えられた使命を貫くことこそ騎士の務めだ。キュアンに目をかけてもらい、槍を下賜されたときから、この魂をレンスターに捧げると誓った。だから、すべてが当然のことなのだ。ただそれを、途切れそうな光を手繰りながら全うしてきただけで。

「リーフ王子、フィン様も。あちらがハンニバル将軍の山荘です」

 先導役を担っていたカリオンが、指さして言う。ひとつ山を越えた先の山肌に、木々に隠れるようにして屋根が覗いていた。そこには、ハンニバル将軍の内密の保護のもと、ドリアスをはじめとしたレンスターの残存兵が集まっているらしい。
 そのとき、耳元に電流に似た感覚が走り、フィンは反応して意識を巡らせた。アウグストも気づいたようで、険しく言う。

「いかん、あれはトラキア軍の軍勢だ! 山荘に向かっておりますぞ」
「なんだって!? あそこはハンニバル将軍の山荘のはずなのに、どうして……」
「――将軍に嵌められたのかもしれませぬな」
「やめろ、アウグスト! ハンニバル将軍はそんなお方ではない。とにかく救援に行くぞ!」

 すでに山荘付近には重歩兵隊とドラゴンナイトの群れが近づいている。フィンはリーフの命令に従い、全軍とともに全速力で山荘へ駆けた。ふたたび、戦いがはじまる。



「――セルフィナ様。終わりましたよ」
「えっ」

 つとセルフィナが顔をあげると、ロベルトの心配げな目線とぶつかる。見れば、腕に包帯がきれいに巻かれていた。

「ああ――ありがとう。相変わらず、上手ね。医者になったほうがいいのではないの?」
「よく言われますけど……でもぼくは、父の意思を継ぎたいんです」

 見習い騎士のロベルトは、恥ずかしそうにはにかんだ。山荘にトラキア軍が押し寄せてきたときは、死をも覚悟した顔をしていたが、やはり、この少年には穏やかな顔のほうが似合う。

「それにしても、リーフ王子は素晴らしい方ですね。あんなに勇猛に戦われていて。ぼくより年下だなんて、とても思えません」
「そうね……」

 ロベルトの語り口とは裏腹に、先ほどのリーフとの謁見を思い出すたびに、セルフィナの心は沈むばかりだった。もちろん、リーフとの再会は夢にまで見た出来事だった。たくましく育ったリーフの笑顔はエスリンそっくりで、涙がこぼれそうになった。
 ナンナの成長ぶりにも驚いた。精巧な人形のような顔立ちは、姉のように慕っていたあのひとに瓜二つで――。
 しかし、あのひとは、一緒ではなかった。

 黙りこんだセルフィナを見て、ロベルトは自分に非があるものと思ったらしかった。

「す、すみません。疲れておいでなのに、余計な世間話を」
「……違うのよ。ありがとうね、ロベルト。そろそろ部屋に戻るわ」

 セルフィナが立ち上がると、ロベルトはふと視線を彼女の後ろにやり、目を丸くした。
 振り向いたセルフィナは、身体を固くする。開いていた戸から入ってきたのは、青い髪をした旧友であった。

「フィン様……!」

 ロベルトが慌てて立ち上がり、礼の姿勢をとる。リーフを託された騎士フィンの名は、山荘に集まった若い騎士たちの間で有名であり、憧れの的でもあった。
 そんな当人は、よどみない所作で近づき、正面からセルフィナを見据えてきた。

「セルフィナ、少し話をしたいのだが」
「あっ、ぼ、ぼくは先に行ってます。どうぞごゆっくり!」

 二人の合間に落ちる微妙な間に気づく余裕もないらしく、仕掛け人形のようなぎこちなさで、ロベルトが部屋を出ていく。
 セルフィナはため息をつくと、無言で席に座り直した。互いに譲りあう仲でもない。フィンも、なにも言わずに対面の椅子に腰を下ろした。

「……なんのお話ですか?」
「グレイドは、生きているのか」

 他人行儀に話し始めたことに一瞬覚えた後悔は、フィンの一言で消し飛んだ。かっと頭が熱くなり、机の下で拳に爪を立てる。
 可能な限り冷静に、セルフィナは肯定を示した。

「はい。生きています。お父様から聞きませんでしたか? いまは、ターラへ救援に出ているのですが」
「ターラか。……そうか、会いたかったが、この情勢ではやむを得ないだろうな。どのくらいの手勢で行ったのだ?」

 我慢我慢我慢、と頭の中で念じていたのだが、あまりの言い草に、自制心は空の彼方へ飛んでいった。
 どん。拳を机に叩きつける。持てる限りの怒りをこめて、目の前の甲斐性なしを睨み上げる。

 ところが可愛くないことに、フィンは身じろぎひとつせず、怪訝そうにセルフィナを見返した。それがさらに、セルフィナの苛立ちを煽った。

「……あなたは、変わっていませんね。本当に、本っ当に、10年前からなにひとつ変わっていない……!」
「なんの話だ」
「口を開けば国や戦いのことばかり。ほかに、言うことはないのですか」
「……?」

 フィンは瞬きに疑問符を乗せている。本気でわかっていない顔だ。すんでのところで殴りかかりたくなる衝動を抑え、うなるようにセルフィナは言った。

「なぜ、ラケシス様をおひとりで行かせたのです」

 ようやく、フィンに反応が見られた。だが、それもほんのわずか、目を細めただけだ。

「リーフ様から、すべて聞きました。おひとりで砂漠を越えるなんて、無茶に決まっています。なのにどうして止めなかったのですか」

 怒りに涙があふれそうになり、セルフィナは唇を噛み締めた。大好きだったラケシスの笑顔が、脳裏に浮かぶ。そして、アルスターの離宮で遠くにいるフィンを見ていた苦しげな横顔も。
 リーフが生きていると知ったとき、きっと彼女にも会えるのだろうとセルフィナは信じていた。辛い旅路の中で、あの切ない想いが報われていたらどんなにいいだろうと思った。なのに、現実はこうも残酷だ。

「……ラケシス様の意思は、固かった。私は使命があるため、トラキア半島を離れるわけにはいかなかった」
「言い訳です、そんなのは」

 セルフィナは鋭く切って捨てた。フィンも否定しない。ほんの少しだけ疲れたような顔をして座っている。

「あの方の悲しみを、お気持ちを、わかっていたのでしょう? なのに、どうして……」

 問いたいことは多すぎて、最後まで言葉にならなかった。セルフィナはフィンを射抜くように睨みつけた。

 10年前に別れた日から、フィンの姿は時を止めてしまったように変わっていない。漂う仄暗さ。影のような佇まい。自分だけが苦しんでいるとでも言わんばかりの、静謐に荒んだ瞳。
 彼が途方もない悲しみを抱いていたことは知っている。辛い思いは、いくらでもしたのだろう。だが、それでも許せなかった。だれもが、苦しみながら生きているのだ。彼だけを許せというなら、突き放されたラケシスの想いは、いったいどこへ行けばいいのか。

「……あなたは卑怯者です」

 吐き捨てるように、セルフィナは言った。フィンは目を伏せて、黙っている。己の怒りは、彼の心の真ん中を刺し貫いたに違いなかった。なのに、気分は晴れるどころか、毒に侵されたように沈んでいくばかりだった。
 惨めな思いにすらかられて、セルフィナは押し出すように続ける。

「私は、この言葉を取り消すつもりはありません。騎士様に無礼な口をと思うのでしたら、お父様にでもなんなりとおっしゃってください」
「――」

 フィンは答えずに立ち上がった。机の木目に視線を落としたセルフィナに、彼の表情を伺う余裕はなかった。洗練された騎士の所作で椅子を戻し、向きを変えて歩いていく気配を、耳に感じることしかできない。
 ふと、問いが転がった。

「アルスターにいたころに」
「……?」

 セルフィナは視線だけを向けた。戸口のところに立った騎士の後ろ姿は、夕暮れの逆光に照らされ、輪郭しか見えなかった。

「あの方から、私についてなにか聞いていたか」

 唇を引き縛る。彼にとって最も鋭い刃になる言葉を探す己の浅ましさを自覚しながら、セルフィナは答えた。

「あなたに、振られてしまったとおっしゃっていました。それでも、あなたにもらったものは返していくと。――実際に、そうされたのでしょうね」
「…………そうか」

 ふらりと、風に吹かれたようにフィンは出て行った。
 無人となったそこを、セルフィナはじっと見つめていた。そして、机に腕をつき、両の掌に顔をかぶせる。
 ため息とも嗚咽ともつかない息が漏れた。ラケシスを失った悲しみと、彼をなじることしかできない歯がゆさと自己嫌悪が、心の中でぐちゃぐちゃに混じりあっている。

 これからも、フィンの助けになってやってくれ。
 そう、亡き王子から言われていたのに、いまはできる気がしなかった。顔を覆ったまま、セルフィナは小さく、キュアン様、とつぶやいた。

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