持たざる臣下


 トラキアの土は、赤い。
 荒涼とした岩山の狭間に生える緑は弱々しく、景色は雄大だが代わり映えがない。湿り気のない空が、どこまでもきつい日光を降り注がせている。

 砂の混じった風の吹き抜ける中、フィンは、ようやくリーフの口からマンスターでの出来事を聞くことになった。

「そんなことが……。申し訳ありません、リーフ様」
「フィンが謝ることじゃない。僕がエーヴェルを守れなかっただけだ。僕は、こんなに自分の無力を思い知った日はない……」

 返り血を落としても、リーフの表情から悲壮さは抜けなかった。
 これまでにリーフが歩んできた修羅の道で、様々な人間が犠牲になってきた。しかし、親しい者を目の前で失ったことは一度もなかった。大切な人を失う、心が握りつぶされるような痛みを、リーフははじめて知ったのだろう。

 その苦痛は、フィンも味わったことのあるものだ。そして、どのような慰めも、どのような励ましも、心に届かないときがあることを、フィンはよく知っている。

 だからフィンはなにも言わず、幼い主の横顔を見つめていた。生きていても、一度味わった痛みから開放されることはない。どれだけ進もうと、痛みは後から必ずついてくる。
 フィンがそうであるように、リーフがその傷をこれから背負って生きていくのだと思うと、哀れだった。それが人生なのだと言ってしまうには、あまりに悲しい。

 だが、次にリーフが口にした言葉には、身体が反応していた。

「それに、捕らえられてた子供も、全員を救えたわけじゃなかったからね。マンスターの人たちに言われたよ。聖戦士でもない僕に、期待はしない。本物の聖戦士が現れるのを待ち続けるだけだって」
「リーフ様、それは……!」
「当然のことだ。当然のことなんだよ、フィン」

 城壁に背をもたれ、リーフは笑おうとした。だが失敗して、顔をうつむかせる。泣くまいと唇を噛みしめているのは、傍目にもわかった。
 ゲイボルグが使えないとわかったときから、リーフは槍の修練を拒否するようになった。それは、彼なりの現実逃避だったのだろう。しかし逃げたところで、いつか現実には追いつかれる。

「……リーフ様」

 フィンは息を吸おうとした。キュアンがここにいれば、なにを言うだろう。考えたが、他ならぬ聖戦士である主君は言葉を返してくれなかった。フィンは、自身の言葉で語るしかなかった。

「私は、あなたがお生まれになったときからお供をしておりますが、あなたは幼いころから人より多くの苦難を乗り越えていらっしゃいました」

 キュアンのようにうまく言えないことにもどかしく感じながら、続ける。

「ゆえにこそ、マギ団を率いて敵の追撃を躱せたのでしょう。あなたは、充分立派に戦われたのです」

 言葉に嘘はなかった。つい先日ようやく初陣を迎え、エーヴェルの指示で戦っていたリーフが、寡兵相手とはいえ自ら指揮をとったのだ。彼に指揮官としての才能があることは明らかだった。

 ただ、そんな思いもどこまで伝わっただろうか。リーフは前髪で表情を隠したまま、「うん」と短く答えただけだった。
 ざらついた砂が、風が吹くたびに地面の上で踊っている。息苦しくはない、しかし薄闇にまみれたような沈黙が落ちる。

「…………強くなりたいな」

 ぽつりと、リーフはつぶやいた。涙を押し殺した、弱々しい声で。

「アウグストは、僕に幻想としての英雄になる資格があると言った。僕は、それでも構わない。僕の立場を利用して、帝国を倒して北トラキアを解放できるなら、喜んで僕の命も人生も捧げる。でも――」

 乾いた砂を足で踏みしめ、顎を引いて続ける。

「弱いままでいるのは、いやだ」

 リーフは腕で目元を乱暴に拭い、顔をあげた。赤くなった目が、正面を見据える。
 その横顔に宿る意思の強さに、フィンはわずかに息を呑んだ。己が同じ年齢であったときには、確実に持ち合わせていなかったなにかを、すでにリーフは眼光の中に湛えている。

「僕は強くなる。だれよりも強く。僕の守りたい人を、守れるくらいに。――そして、いつか必ずエーヴェルを助け出す!」

 それは、痛みを引きずり俯きながら歩くのではなく、痛みを糧に毅然と前へ進んでいく強さだ。いまでさえ自分が持ち得ない強さを示されて、フィンは目眩すら覚えた。

 リーフはこちらに顔を向けた。暗い赤銅色の瞳が、脳髄を灼くように、まっすぐにフィンを射抜く。
 言葉が、力強く放たれた。

「フィン。おまえは死んじゃだめだぞ」
「――」

 呼吸を止められたまま、フィンは低いところにあるリーフの眼を見返した。

「もう、家族を失くすのはいやなんだ。僕とフィンの力をあわせて、ナンナを守って、エーヴェルを救うんだ。いいな。フィンはぜったいに死ぬな!」

 主とはいえ、心のどこかで子供だと思っていた。亡き主君から残された、大切な希望の証。なにがあっても守りきらなければならないもの。
 だがこのときフィンの前に立っていたのは、紛れもなく、彼に行くべき先を示す『主君』であった。殴られたような感覚とともに、それを悟る。

 そして――なによりも、キュアンに付き従っていたころと同じように。
 存在を認められ、生きることを許される。その喜びに、心が震える。

 わずかに開いた唇を、閉じた。歯を食いしばり、胸に手を当て、静かに頭を垂れる。
 ――キュアン様。
 かつての主の名を心で呼んでから、ふたたび口を開く。

「承知しました。我が槍と我が誇りに誓って、二度とリーフ様のおそばを離れません」

 顔をあげると、リーフはようやく、ニッと笑ってみせた。キュアンそっくりの笑い方で、腕を伸ばし、フィンの上腕をかるく叩く。

「うん。ありがとう。フィンがいてくれて、よかった」

 たったそれだけの言葉に、救われたような思いがするのはなぜだろう。

 そのとき、城壁の勝手口が開き、アスベルが顔をだした。

「リーフ様、こちらでしたか。出発の準備が整いました」
「わかった。すぐ行く。――フィン、行くぞ」
「はっ」

 フィンは返事をして、リーフの三歩ほど後ろについた。これまでのようにリーフを背中に隠すのではない。主君と臣下の、正しい位置取りだった。フィンも、リーフも、互いにそれを認めていた。
 するとリーフは、歩きながら、振り返らずに言った。

「フィン。僕たちは、フィアナ村には戻らない。次の行き先は、ターラだ」
「!」

 意図せず拳に力が入る。リーフは余計なことは言わなかった。フィンもまた、一度目を伏せただけで、足を止めたりしなかった。

 ――あの方は生きている。そう信じると決めたのは、自分自身ではないか。

 心の弱い部分が叫ぶ不安を殺し、フィンは前を向いた。持たざる者の、なけなしの勇気を振り絞って。

 死んではならない。
 あのひとに、もう一度会うために。
 そして、主君の命令を果たすためにも。

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