風のように


 ――あなたのお父さまは、大地を駆ける風のような人だった。
 ――わたしの元にやってきて、ひとときの温もりをくれて、そして去っていった。

 それは蜜色の記憶。母の膝元で聞いた昔話である。
 名も知らぬ父のことを語るとき、なぜか母の瞳には苦しみも憎しみもなく、とろけるような憧憬だけがあった。きっと、母は父の生き方を心から愛していたのだろう。
 母は自分の頭を撫でながら言ったものだった。

 ――あなたもいつかきっと、お父さまのようになるのでしょうね。

 母の予言は、現実となった。
 自分はいま、風のように生きている。

「王子! 傭兵さんがたのお出ましだぜ!」
「アスベル、魔法で薙ぎ払ってすぐに下がって! フェルグス、ブライトン、ヒックス、前衛を頼む! カリンは上空から援護! 戦闘はなるべく避けて進むんだ!」
「はい、リーフ様!」
「あいよ、承知!」

 ここまで高揚する戦場は久々であった。背後からはマンスターの帝国兵が、前方からは血に飢えた傭兵どもが、群れをなして襲いかかってくる。全員で馬を疾駆させているが、馬の扱いに慣れぬ者も多く、陣形を整えることも容易ではない。その間にも次々と降っては地面を削るメティオの炎。状況は最悪中の最悪。だからこそ、血が滾る。

 フェルグスは、傭兵の第一陣を切り抜けると、リーフの様子を伺った。指示を飛ばしつつ自ら剣を振るう馬上のリーフは、返り血にまみれて尚、瞳を炯々と輝せている。マンスターからの脱出時には、さまざまなことがありすぎた。帝国への憎悪と憤怒と、苛烈な意思。それが、たった15歳の少年に、王者の覇気を与えていた。

 興味深い少年である。この暗黒の時勢に、ここまで生気にあふれた者をフェルグスは知らなかった。その気迫は、途中で会った風の勇者よりも幼く、泥臭く、それでいてまばゆい。

 同時に、危うさもある、とフェルグスは思う。はちみつ色の髪の女が石にされたときの、魂が迸るような絶叫。時に冷静さを欠くその姿は、いつか根本から折れてしまいそうでもあった。
 ――だからこそ、力を貸したくなるのだが。

「げっ」

 そんなことを考えている内に、両脇を山に挟まれた街道の向こうに、新たな傭兵の姿を見つけた。
 剣を抜き払った姿を見た瞬間、まずい、と本能が叫ぶ。数こそ多くないが、どれも手だれの剣士だ。

「王子! 味方を散開させろ! あんなのとやりあったら首が飛んじまうぜ!!」
「駄目だ、後ろの敵も迫ってきてる! 周りも道が悪くて馬じゃ進めない!」
「私が空から攻撃して道を開きます!」
「おいばか、やめろ!!」

 先走ったカリンが、ペガサスを駆って空から強襲を仕掛けようとする。だが、ペガサスナイトの訓練も受けていない彼女である。あんなぎこちない扱いの槍で歴戦の傭兵を襲えば、返り討ちにあうのは明白だ。

「くそっ!」

 間に合え、と念じながら馬の腹を蹴る。矢のように、風のように、目を細めながら大地を駆け、カリンより先に傭兵の元に至ろうとする。
 そのときだった。

 フェルグスは背筋に異様な寒気を感じた。
 それは、傭兵も同じだったらしい。水のような立ち方が、揺らぐ。
 だれもが放たれる殺気の根源を探し、同じ方向に視線を向けた。

「――っ!」
「きゃっ、エルメス!?」

 フェルグスは反射的に、手綱を引いていた。カリンのペガサスも、本能からか主の命令を破って上空に退避する。
 彼はそのまま、右手の森から現れたそれを――見た。

 機影がひとつ。騎士風の、青い髪をした地味な男だ。
 だが、そんな呑気な感想を抱いている場合ではないことは、一目見れば容易にわかる。彼の背から立ち上る、陽炎のような殺気。背筋に、怖気が走る。
 騎士が槍を両手で構え、獣の獰猛さをもってして傭兵たちに襲いかかった。
 すると、後ろからリーフの叫び声があがった。

「フィン! フィン、来てくれたのか!!」

 戦神がその怒りを撒き散らすかのように次々と傭兵を屠ると、騎士は振り向いて答えた。

「話は後です! お急ぎください!」
「わかった! みんな、あの騎士は味方だ! 彼に続いてくれ!」
「――」

 フェルグスは小さく舌打ちをして再び馬を駆けさせた。
 自分の力を過大評価するつもりはないが、これでも剣一本で生きてきたという自負がある。
 なのに、――あの男に勝てない。一目でそうわかってしまう相手を見せられると、ガキ臭いとは思いつつも、悪態をつきたくなってしまうのである。

「なんなんだ、あの男は」



 ミーズ城に入り、ハンニバルとの謁見をリーフが済ませると、ようやく束の間の休息がやってきた。
 糧食もわずかながら配られた。パンをくわえてスープ皿を手に中庭に向かうと、カリンとナンナの姿があった。
 つと、フェルグスはパンを口から外す。カリンが中庭の隅で胃の中のものを戻しており、横でしゃがんだナンナが、丸まった背を気遣わしげに撫でている。
 二人の近くの花壇の脇には、食べかけのパンとスープが置いてあった。

 フェルグスは鼻から息を抜いた。無理もない。脱出時の血なまぐさい戦闘を考えれば、食事を胃が受けつけなくて当然だ。

「おいおい、大丈夫か?」

 近づいていくと、ナンナが先に振り向いた。カリンは苦しげに浅い呼吸を繰り返している。

「うー、気持ち悪い……さっきまでは大丈夫だったのに、おっかしいなぁ……」
「なんだ、思ったより元気そうじゃねぇか。心配して損したぜ」
「ううー! なによぉ……っ、かよわい、乙女が、苦しんでるって、いう……ううっ」
「カリン。中に入って横になりましょう。お湯を飲んで、あったかくしておけば、出発のときにはよくなると思います」

 ナンナはカリンの額に張りついた髪をわけてやりながら言うと、手をとって立ち上がらせた。フェルグスにも、さりげなく会釈をする。

「付き添ってくるので、そこのご飯は取っておいてください」
「ああ……」

 ナンナの顔を正面から見るのは、はじめてだった。けぶるような金髪に、きめ細かな白い肌。長い睫毛に縁取られた瞳は宝石をはめこんだようで、まるで、絵画の世界からやってきた住人のようだった。
 二人の背中を見送り、そのまま食事をとっていると、しばらくしてナンナだけが戻ってくる。

 ナンナは軽く頭を下げると、フェルグスの対面に座り、食べかけのパンとスープをとった。よく焼き締めた固いパンをちぎり、豆のスープに浸して、蕾のような唇に運ぶ。どことなく気品を感じさせる少女であったが、決して食事の速さは遅くはない。むしろ、早い部類に入る。

「おまえさん、大丈夫なのか?」
「はい?」

 ナンナは、目を瞬かせた。それだけ見れば、花園がよく似合う美しい姫君である。だからこそ、違和感があった。

「……いや。飯、食えるんだなと思ってな」
「早く食べて、他の方の怪我を診なくてはいけませんから」

 フェルグスの眉の角度があがった。

「まさか、まだ働くつもりか? やめとけよ。食事の後にえぐいもの見ると、カリンみたいになるぜ」
「――?」

 不思議そうにナンナはフェルグスを見返してきた。そして数秒後、ようやくこちらの思惑を悟ったように「ああ」と声を漏らし、苦笑を浮かべてみせた。

「――気遣ってくれて、ありがとう。でも、慣れてます」
「…………」

 彼女に感じた違和感。それは、戦いの直後でも平然としていることだ。
 牢屋内でリーフに聞いた話が脳裏に蘇る。彼は、ナンナとずっと一緒だったと言っていた。つまり彼女は、生まれてこの方、王子と同じように帝国やトラキアに追われ続けたということなのだ。
 ナンナのわずかに眉のさがった笑みは、その凄惨な人生を物語るようで、フェルグスは一時、言葉を失った。

「どうしたんですか?」
「……いや。これまで、さぞ大変だったろうな」
「普通だと思います。大変な思いをしてるのは、みんな一緒でしょうから。すこし、程度の違いがあるだけで」

 そう言って、ナンナは胸元にさがった首飾りを握った。
 その瞳に漂う気丈さは、つい今日まで牢獄に入れられ、育て親にも等しい女性を失い、決死の戦いをくぐり抜けてきたとは思えない。
 首飾りをいじっていたナンナは、少しだけ時をおいて、再びこちらを伺ってきた。

「あの、フェルグスさん。フェルグスさんが、とても人生経験が豊富そうなので訊くのですけれど」
「なんだ?」
「男の人は、一度女の人を好きになったら、いつまで好きでいられると思いますか?」
「……そりゃあ、恋愛相談ってやつか?」

 ナンナは首を横にふった。

「わたしのことではないんです。でも、とても大切な人の話です」
「へえ。ま、経験からいわせてもらえば、男ってのはバカな生き物だからな。一度愛した女は、一生忘れねえぜ」
「一生? もう、二度と会えないかもしれなくてもですか?」
「なんだ、死に別れでもしたのか?」
「違います。でも、……似たようなものかも、しれません」

 声が掠れる。まるで自分のことのように、ナンナは苦しげに目を伏せた。先ほどの言葉は嘘で、好いた男が別の女を追いかけでもしているのだろうか。

「そうだな……その男は格好いいか?」
「はい」
「見た目じゃねぇぞ。中身の話だ。男として信頼できるか? 命を預けられるか?」
「はい。立派な方です。それに……強くて、とても優しいです」
「そんじゃなおさらだ。優しいやつほど、後に引きずる。別の女と一緒になっても、幸せにはなれるだろうが、前の女のことを忘れたりはできねぇよ、きっと」
「…………」

 ナンナは、ぎゅっと膝の上で拳を握りしめた。

「俺の回答は、お気に召さなかったか?」
「……いえ。半分、安心しました。でも半分、不安になりました」
「なんだそりゃ」

 軽薄な笑いに、真摯な目線が返る。心を洗うような、清廉とした表情。紡がれたのは、自分の邪推とは正反対の答えだった。

「その人も、その人の好きな女の人も、わたしの大好きな人たちなんです。だから、好きでいてほしい。でも、好きでいつづけるのが、とても辛そうなんです。今日だって……」
「今日? もしかして、王子かそこらの話なのか?」

 問うたが、ナンナはかぶりを振って話を断ち切ってしまった。代わりに、すこし背を後ろに倒し、いたずらっぽく笑う。心の疑念まで拭い去ってしまうような軽やかさで。

「フェルグスさん。わたし、聞いたことがあるんですけど。男の人って、ばかな生き物なんですか?」
「は? ……そりゃあ、きっと、おまえさんが思ってる5倍くらいはな。だがな、大抵、女はそのバカさに惚れるもんだ」
「……だからお母さまは好きになったのかしら」
「ん?」
「いいえ。わたし、食べ終わったので、そろそろ行きます」
「あっ、そうだ。最後にひとつ聞きたいんだが」

 食事をきちんと最後までたいらげたナンナが、きょとんとこちらに視線をよこしてくる。

「ミーズ城に入る前に助っ人に入ってくれた、あの青い髪の男。さっき、あいつとなにか話してただろう。知り合いなのか?」
「…………」

 するとナンナは、尊いものを見るように、目を細めた。

「……はい。立派な方です。強くて、とても優しい。わたしの、大切なひとです」
「は」
「あとのことは、秘密です。相談に乗ってくれて、ありがとうございました」

 こぼれるような笑みを残し、ナンナはカリンの分も回収して城内に入っていった。駆ける様子でもないのに、気がつけば姿は消えている。まるで、風のように。

 残されたフェルグスは、しばらくの停止の後、ぼりぼりと後頭部をかいた。

 ――あなたのお父さまは、大地を駆ける風のような人だった。
 ――わたしの元にやってきて、ひとときの温もりをくれて、そして去っていった。

「あいつも、風みたいなやつだな」

 虚空に向け、フェルグスはこぼした。ただし、自分とは違う、ふんわりと香るような優しい風。
 もしかすると、母が語っていた父もそんな人だったのではないかと考え――。

 そうして、ただの想像だと笑って流した。

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