傷を負った果てに


 フィアナ村では、二日に一度、午後の時間を使って武芸の稽古が行われる。

 木剣を持ったリーフは、力強く踏み込んで相手の胴を狙った。と、見せかけて直前で右に飛び、両手で利き手に打ち込む。
 ところが、会心の一撃はむなしく宙を裂いた。目の前の気配が消滅し、かと思った瞬間、思いきり背中を木剣で叩かれる。うめき声が漏れて呼吸が止まり、地面に倒れこんだ。

「あっはは! これで五本、ぜんぶ私の勝ちー!!」

 マリータは満面の笑みを浮かべて木剣を空に突きあげた。背中をさすりながら、リーフは起きあがる。

「うう、なんで勝てないのかなぁ……今日こそいけると思ったんだけど」
「私に勝とうなんて百年早いのよ。だって私、最強だもん」
「あまり慢心してはいけませんよ、マリータ」

 肩をそびやかすマリータを、ため息まじりに注意したのはエーヴェルだ。

「あなたの腕前は、たしかに目を見張るものがあります。しかし、剣士としての強い心を養わなければ、本当の強者にはなれませんよ」
「はーい」

 こんな様子でマリータは返事をするものの、どうも右から左という様子だ。実際、彼女には村の男とも充分に渡り合えるほどの実力がある。理念や心構えを説かれても、彼女にはその必要性がわからないのだ。
 困ったようにこめかみを揉むエーヴェルの横では、ナンナが杖を持って見学している。マリータはそちらのほうに興味がいったようだった。

「ナンナもいっしょにやろうよ。剣の使い方、一から教えてあげるよ」
「わっ、わたしですか!?」

 ナンナが自身を指差すと、リーフがさしたるふうもなく言った。

「えーっ。ナンナは馬鹿力だから、剣を習うより杖で相手を殴るほうが早いんじゃないの?」
「……」

 さっと顔色を曇らせたナンナは目を伏せ、何歩か下がった。そして、いたたまれなくなった様子で「お水をとってきます」と言って駆け去っていった。

「あれ、ナンナ? どうしたんだろ――だっ!?」
「このバカ!」
「なんで僕が殴られるの!?」
「自分で考えなさいよ、ヘチマ鈍感!!」

 表情に大量の疑問符を浮かべるリーフと、腕を組んで怒りを顕にするマリータ。
 と、マリータは、エーヴェルと同じように離れたところから稽古を眺めていたフィンに気がついた。

「あっ、フィンさん! ねえねえ、よかったら稽古に付き合ってよ!」

 フィンは目を瞬く。あっという間に駆け寄ってきたマリータは、目を爛々と輝かせて背伸びをした。

「ナンナから聞いたの。フィンさんって、すっごく強いんでしょ? いちど手合わせしてみたいの。ね、ね、お願い!」
「いけません」

 鋭い制止の声は、エーヴェルから放たれたものだった。歩み寄るエーヴェルの足音に、緊張がこめられている。

「えーっ、どうして? 一本くらい、やらせてくれてもいいでしょ」
「……私も構いませんが」

 フィンも、素直にマリータに賛同した。ようやく歩けるようになって数日。この辺りで、ある程度身体を動かしておきたかったのだ。
 ところが、エーヴェルの表情は固いままだった。

「マリータ。稽古相手が欲しいなら、オーシンとハルヴァンに頼みなさい。さ、行って」
「…………」

 母の顔にただならぬものを感じたのか、マリータは神妙な態度になってうなずくと、未練を残しつつもリーフとともに離れていった。
 残されたフィンは、目線だけでエーヴェルに理由を問う。
 エーヴェルは、わからないのかという風にフィンを見返した。

「傷は塞がっても、痛みがまだ残っているのでしょう」
「――」
「私の目を甘く見ないでください。隠していても、歩き方でわかります」

 見ぬかれていたことには驚いた。確かに、歩くだけで節々にわずかな鈍痛が走る。
 ただ――。フィンは静かに答えた。

「今に始まったことではありません。それに、訓練を怠れば腕が鈍ります」

 エーヴェルは大きなため息をつき、腕を組んでフィンをひたと見据えた。

「あなたはこれより半年、槍を握ってはなりません。盗賊討伐にも加えませんので、そのつもりでいてください」
「それは」
「このままでは、あなたは死んでしまいます」

 互いの距離を図るような沈黙。フィンはわずかに眉を寄せる。

「なぜ、そう思うのですか」
「言ったはずです、あなたが生きているのが不思議でならないと。傷とは、ただ見た目が治れば良いというものではないのです。これ以上身体に無理をしけば、――確実に、あの子たちを泣かせることになりますよ」

 エーヴェルの鋭利な指摘は、弱いところを的確に突いてくる。
 ただ、彼らが成人するまでこの身体が持ってくれるなら、それでもいいのではないかと。甘やかな囁きが、胸の内から漏れでてくる。

 そんなフィンの考えが表情に出ていたのだろうか。エーヴェルの声音が、温度を下げた。

「愚かな想像はやめておきなさい。戦いだけのために生き、死んだ者など、賞賛にも尊敬にも値しません」
「……私の存在が新たな未来の礎になるなら、それで充分です」
「あなたの亡骸の上にある栄光を見て、あの子たちが喜ぶとでも思いますか」
「すでに私も、リーフ様も、数多の亡骸の上に立っています」
「私は過ぎたことを話しているのではありません。未来の話をしているのです」

 エーヴェルの言い分は、正しい。辛くなるほどに、正しすぎる。
 しかし、それがもっとも残酷な言い方なのだと、彼女は気づいているだろうか。生者として迷い、悩み、苦しみ続けることの悲しさを、彼女は理解しているだろうか。思考を止めて戦う気楽さに流れたくなるこの気持ちを、味わったことがあるのだろうか。
 たとえ正しいことをしても、最悪の結果は当然のように降りかかってくるのに。

 そこまで思考を進めてから、フィンはひどく弱気になっている己自身を自覚した。
 ラケシスはもう死んでしまったのではないか。自分はもう長くないのではないか。軋み声をあげる身体を抱えていると、そんなことを考えてしまう。エーヴェルの指摘のとおり、歪みは確実に蓄積されていっているのだ。

 どちらにせよ休息が必要なのは事実だろう。少なくとも、リーフが成人するまで、あと数年は確実に戦わなければならない。

「……わかりました。しばらくの間、稽古は控えます。ですが、身体が癒えたら私の判断で始めさせていただきます」

 エーヴェルはもどかしげに首を振り、背を向けた。

「私にあなたを救うことはできません。しかし、心からあなたを案じています。あなたを想う人の声に、どうか耳を傾けてください」

 それだけ告げて、去っていく。背筋の伸びた後ろ姿を見送りながら、フィンはつと空を見上げた。
 空の色だけは、キュアンの背中を追っていた時代とまるで変わらない。自分だけが、こうも変わってしまった。
 ならば、いつか自分が地に果てるときも、きっと空は悲しいほどに美しく広がっているのだろうと。
 終わりの時を焦がれる想いに蓋をすることができないまま、フィンもまた、背を向けた。


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