フィアナの女神


 目覚めたとき、まずはじめに浮かんだのは、また死ねなかったのかという思いだった。
 そして、自省と諦観の念がこみあげてくる。自分はまだ弱いままだ。弱くあることを許されてはいないのに。

 すぐさま騎士としての気概を取り戻し、フィンは素早く辺りを見回した。時刻は深夜。丸太を活かした作りの部屋。ベッドは乾いていて清潔だった。布を貼った窓から、わずかに月明かりが注いでいる。
 リーフやナンナの姿は、見えない。一方で、自分の槍は無防備に壁に立てかけられている。敵に捕まったというわけではなさそうだった。まさか、ここがフィアナ村なのだろうか……。

 フィンはすぐさま行動に移った。身体を起こすと、とんでもない激痛が走ったが、時間をかけて慣らせばどうということはない。槍を取って、杖代わりにしながら部屋を出る。

 確認すべきは脱出時の経路。そしてリーフとナンナの所在。ここの住人を信じる信じないに関わらず、それだけははっきりさせておく必要がある。

 馬はどこにつれていかれたのだろうと、建物を出て裏手に回った。だが、それらしきものは見つからなかった。
 村は面積こそ狭いが、荒んだ様子はなく、むしろこの時勢には珍しく治安が良さそうだった。境界をぐるりと囲む巨大な木柵と物見櫓に守られている。良き指導者がいるに違いなかった。

 ただ、ここから脱出するとなると、正面の入り口しかなさそうだ。馬がない状況では、骨が折れそうだった。
 ひとまず現状を認識すると、次はリーフの所在を検めようと、フィンは建屋の玄関に戻った。

「あなたにはつくづく驚かされますね。そんな死にかけの身体でこうも動き回るなんて」

 ぞっと背筋が凍り、槍を構えた。体調が万全ではないとはいえ、玄関に立つ女の気配に気づけなかった事実は、少なからずフィンを打ちのめした。

「おやめなさい。いまのあなたでは、私には勝てませんよ」

 くすりと女は笑い、腰元の剣に指をかける。その動きとかすかな殺気だけで、女が相当の使い手であることが知れた。たしかに、現状では太刀打ちできない手合だ。フィンは無言で槍を納め、石突を地面につけて敵意のないことを示した。
 女は満足気にうなずき、腕を組んだ。

「ここはフィアナ村。私はフィアナ義勇軍の長、エーヴェルともうします。安心なさい、あなたの連れの子供たちは、二階で寝ています。来たときはひどく弱っていましたが、もう元気を取り戻しました」
「…………」
「いまのあなたに必要なのは、温かいベッドと休息です。あの子たちをこれからも守りたいなら、私の言うとおりにするのが良いでしょう」

 沈黙の合間に、風が吹いた。山の中特有の、冷たく乾いた風だった。
 夜闇にまぎれて影となった女を、フィンは正面から見据えると――。
 槍を持ち替えて胸に右手を当て、静かに会釈した。

「わかりました。しばらくお世話になります」

 女はふと顎をあげた。

「意外ですね。もっと渋るものかと思いましたが」
「……私の知り合いが言っていました。時には、肚をくくって休むことも必要だと」

 僅かな間のあと、女はふふっと笑い声を漏らした。

「とても良いお知り合いに恵まれたのですね」

 フィンは答えずに目を伏せた。女は玄関の戸をそっと開き、中に誘う。そこで、フィンはふと足を止めた。

「失礼。名乗っておりませんでした。私は」
「フィン」

 女の声は大きくはなかったが、心の隅まで通る、不思議な音色をしていた。
 振り向いた女は、月明かりの下でうっすらと、しかし優しい笑みを浮かべた。

「――知っていますよ。あの子が、何度もそう呼んでいましたから」



 次に目が覚めたのは、昼過ぎになってからだった。
 ちょうどエーヴェルが包帯を取り替えてくれているところで、フィンははじめて彼女の顔を明るいところで見ることになった。
 はちみつ色に波打つ髪を後ろでそっけなくまとめた彼女の顔立ちは、化粧気がないにも関わらず、はっとするほど整っている。ただその美しさは、花のようなラケシスとは違って、気高くすらりとした美しさだった。
 ふと、眉を寄せる。

「……あなたとは、どこかで?」
「昨日刃を向けたと思ったら、今日は口説きですか。ずいぶん変わり身の早い騎士様ですね」
「……」

 すげなく茶化されてしまい、フィンは閉口した。シアルフィ遠征のときに見た顔である気がしたが、この様子だと他人の空似だろう。

「リーフとナンナには、村の仕事を手伝ってもらっています。――良い子たちですね。瀕死のあなたの手当てをして、この村まで連れてきたのです。ふたりとも、夜通し歩いて高熱を出し、三日も寝こんでいました」
「…………」
「しかし、私がもっとも驚いたのはあなたの身体です」

 フィンが起きたのをいいことに、上体を起こさせて胴周りの包帯も変えながら、エーヴェルは続けた。

「いったい、どういう生活をするとこうなるのですか」

 涼しげな目には、咎めるような光が浮かんでいる。

「私の義勇軍の戦士だって、ここまで多くの傷跡は持ちません。しかも、命に関わるような傷ばかり。正直なところ、あなたがいま生きているのが不思議なくらいです」
「……それが私の使命です。私は命を賭しても、リーフ様を守らなければならない」
「忠義の騎士というわけですか。そして、そのような傷を負うだけの相手に追われ続けたのですね?」
「……」
「いつごろからそのように戦っていたのです?」
「リーフ様が二歳の時分からです」
「――」

 エーヴェルは絶句したように言葉を切らし、そして力なくかぶりを振った。

「それでよく、心が壊れてしまわなかったですね」

 手際よくナイフで包帯の後始末をすると、エーヴェルは陶器に入った水を勧めながら、こんなことを言った。

「人の心は、そこまでの傷に耐えられるものではありません。一度大きな傷を負えば、二度目の傷を恐れて逃げるほうを選ぶのが生き物の本能なのですから」

 言葉が耳に染み、心がわずかに波打つ。おまえの心はとうの昔に壊れているのだと、遠回しに言われているような気がした。
 だがそれも事実なのかもしれない。心にひびの入る出来事など、これまでにいくらでもあった。自分でも知らない内に心は壊れており、いまはその欠片だけを抱いて生きているのかもしれなかった。
 もしそうなら、どれほど辛くとも涙がでない理由も。うまく笑えなくなってしまった理由も、合点がいく。

「いったい、なにがあなたをこうまで戦わせたのですか?」
「それは……」

 痛ましげな視線を受けて、フィンは考えこんだ。

 亡き主君の願い。祖国再興の夢。先に逝った数多の者の祈り。
 次々と頭の中に思い浮かんでは消えていく。
 そして、心のもっとも奥底にある、あのひとの笑顔。

 思いを巡らすフィンを見て、エーヴェルは淡く笑った。

「……あなたは興味深い人ですね。それに、あの子たちも。――リーフは、どこかの王族の子ですね?」

 ふたりの視線が重なった。無言の答えを受けて、エーヴェルはうなずく。

「あの子は人の上に立つ者の目をしています。はじめて村に来たときの振る舞いも、見事なものでした。リーフに感謝なさい、あなたを助けるために、礼の品として母の形見を差し出したのです」
「っ」
「気にすることはありません。いまは、あの子の意思を尊重して私が預かっていますが、いつか必ずお返しします」

 あれほど剣に固執していたリーフが、光の剣を手放したという話は、にわかには信じられなかった。そうまでして、自分の命を救おうとしたことも。
 エーヴェルは微笑んで言った。

「この村と私が信用できると思ったときには、素性を話してください。それまではゆっくりと休むことです」

 物静かな立ち振るまいに、不思議と気を落ち着かせる穏やかな声。いつのまにか、うなずかされてしまう。エーヴェルは、不思議な女だった。
 そのとき、玄関のほうがにわかに慌ただしくなった。子供たちの声が聞こえてくる。

 エーヴェルはくすりと笑うと、立ち上がって廊下に声をかけた。
 リーフとナンナが涙ながらに飛びこんでくるまで、そう時間はかからなかった。


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