いま、自分にできること


 リーフとナンナは、外衣を脱いでフィンに被せた。小雨の降り注ぐ中で、フィンの身体をなるべく冷やしたくない思いからだった。自分が濡れることなど、もはや気にもとまらなかった。
 さらに、出発前にリーフはナンナに背を向けてしゃがんだ。

「ナンナ、僕の背中に捕まって」
「……大丈夫です。歩けます」

 そうは言っているものの、ナンナの足取りはおぼつかず、顔色は死人のようだった。いまだ発動率の低いライブの杖を、無理を押して何度も使ったのだ。出発の前にリーフは食糧を出したが、ナンナは水しか受けつけなかった。
 ここでターラ公爵の教えが生きた。リーフはきちんと理由を口にすることができた。

「ナンナは僕の背中で休んでて。元気が戻ったら、フィンに杖をかけなおしてほしいんだ」

 そこまで言うと、ようやくナンナは納得して、おずおずとリーフの肩につかまってきた。おぶったナンナの身体は、冗談のように軽かった。

「行くよ」

 フィンを乗せた馬を引き、ナンナを背負いながら、リーフは闇の中を歩きだした。夜の山道の恐ろしさは、旅の中でよく理解している。しかし、日が昇る前にここを離れ、トラキア兵の目を眩ませなければならなかった。

 小雨は思っていたよりもすぐに止み、雲が切れて星が見え始めた。それで方角がわかるようになったのは幸いだった。フィアナ村があるとフィンから聞いていた方角を目指し、道なき道を進む。

 トラキアに近いこの地方は、緑が少なく、道はごつごつして歩きにくかった。はじめは軽いと思っていたナンナの体重は、段々と重く感じられるようになった。冷たい風が、濡れた身体に吹きつけて、凍えるように寒かった。だが、この寒さでフィンが死んでしまったらどうしようと考えると、そちらのほうが辛かった。

 実はもう、馬の上でフィンは事切れているのではないか。そんな絶望感が、じわじわと胸を侵食してくる。
 ナンナも同じ気持ちらしかった。耳元で、しゃくりあげる音が聞こえてくる。

「泣いちゃだめだ、ナンナ」

 言いながら、自分の声も震えていることをリーフは自覚した。

「泣いちゃだめだよ、ナンナ……」

 繰り返しながらも、鼻の奥がつんとして、頭が熱くなった。残酷な夜風は、体温を奪っても、その熱だけは冷ましてくれなかった。
 気がつけば、ナンナとふたりでべそをかいていた。泣きながら、それでも歩いた。どちらの声ともつかぬそれが、混じりあって、暗闇に溶けていく。

 静かな夜だった。まるで、自分とナンナだけ別の世界に放り出されてしまったような気がした。
 惨めで、辛くて、痛くて、でも膝をついてしまうわけにはいかない。
 それが人を守るということなのだと、リーフは生まれてはじめて思い知った。


 明け方になると、リーフの背中でわずかに眠れたのだろうか、ナンナの顔色はすこしだけ良くなっていた。
 フィンが生きているか確認するのは、目を背けたくなるほど恐ろしい作業だった。リーフは寄せた耳からフィンの呼吸音を聞き取れたとき、思わずその場にへたりこんでしまった。

 ナンナは開きかけた傷口を塞ぐと、今度こそ自分で歩くと言った。夜通しナンナを背負って歩き続けたリーフのほうが、体力の限界に近づきつつあったのだ。
 どちらにせよ、休んでいる余裕は子供たちの頭にはなかった。一刻も早く、フィアナ村に向かわなければ。ふたりの頭はそれで一杯だった。

 きつい傾斜の続く山道を、手を繋いで歩く。
 ひとりでは絶対に途中で諦めてしまっていただろう。それでもリーフにはナンナが、ナンナにはリーフがいた。
 挫けそうになるたびに互いの手を握りなおし、燦々と陽の注ぐ下をリーフたちはひたすらに歩いた。食糧も、水も、口にする気にはなれなかった。

 遠くのほうに、たなびく煙が見えてくる。ナンナ、とリーフは掠れた声で呼んだ。ナンナは意識が朦朧としているらしく、茫洋とそちらを見上げた。煙が見えます、と小さな返答。もうちょっとだ。もうちょっと。足を動かし続ける。

 そのとき、がさりと葉擦れの音がした。見れば、薪をとっていたらしき黒髪の少年と目があった。少年はぎょっとして、斧を手に駆け去っていく。
 きっと彼が村の人間たちに伝えたのだろう。入口に、人が集まっていた。村は、丸太で作られた堅牢な木柵に囲まれていて、まるで小さな砦のようだった。彼らを代表するかのように、はちみつ色の髪をした女性がリーフたちを出迎えた。

 女性は、素早くリーフたちの様子に目を走らせると、はっと痛ましげに顔をゆがめた。

「……ここはフィアナ村です。どのような御用ですか」

 リーフはナンナに馬の紐を渡すと、前にでて、じろりと女性を睨みあげた。

 昨日までの彼であれば、裾に縋って助けを乞うていたかもしれない。
 ただ、いまのリーフの瞳には、臣下を守る意思という名の静謐な光が宿っていた。それがターラで培った彼自身の気品と合わさり、ぼろきれのような服を着ているにも関わらず、彼にただならぬ風格を与えていた。

 リーフは無言で肩から下げていたベルトをとった。巻かれていた布を外し、顕になった光の剣の鞘をとる。
 それはリーフにとっての唯一の武器。これを振るって敵を倒すことを、彼は夢見ていた。しかしそれでも、リーフは迷わず差し出した。

「そこの男を助けろ。代わりに、この剣をやる」

 女性の思慮深そうな眼差しが、わずかにたじろぐ。戸惑いを、女性はそのまま言葉にした。

「立派な剣ですね。大事なものではないのですか」
「母上の形見だ。でも、フィンの命のほうがよっぽど大事だ」
「…………」

 女性はしばらくリーフと視線を通わせると、顔だけ振り向いて告げた。

「オーシン、ハルヴァン。馬の足跡を消しに行きなさい。二里先まで、念入りにです。マリータとパトリシアは紫竜山に行ってダグダを呼んできて。馬を隠してもらう必要がありますから。他の皆は、彼を運ぶのを手伝ってください」

 いくつかの返答があがり、呼ばれた子供が各々走っていく。
 見上げるリーフに、女性はしゃがんで目をあわせるようなことはしなかった。対等な客人に対する手つきで、そっと光の剣を受け取った。

「あなたの勇気に免じ、取引を受けましょう。中にお入りなさい」

 つと、女性は顔を馬のほうに向けると、小走りに駆け寄った。力尽きて崩れ落ちるナンナを、正面から受け止める。

「ナンナ!」

 リーフが駆け寄ると、ナンナは完全に意識を失っていた。女性はナンナを抱き上げ、フィンの様子を確かめると、険しく眉を潜めた。

「危険な状態です。すぐに運びましょう」

 屈強な男たちが進み出て、フィンを馬から下ろして運んでいく。彼らが妙なことをしないように、リーフは早足でついていった。
 だが、女性の家まで歩くと、さすがに限界だった。玄関をまたいだ瞬間、目の前が真っ白になり、リーフはその場に倒れこんでいた。

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