空を駆ける忌まわしき影


 ごうごうと風が鳴り、肚に響くような雷鳴が響き渡る。空がまるごと降ってきたような雨が、廃屋の屋根を容赦なく叩きつけている。
 リーフとナンナが放りこまれたそこは、緊急時でなければとても使おうとは思えないほど汚く朽ちかけていた。雨漏りしない場所は僅かしかなく、そこもみるみる水が流れこんで座れなくなる。結局ふたりは、立ったままフィンを待ち続けることになった。
 夜のような暗さの中で、時折雷光が廃材の影を白と黒に染めあげる。

「僕に、戦えるだけの力があったら……」

 リーフは惨めな思いを噛み締め、拳を握っていた。ナンナは傷を癒やせるようになり、フィンの役に立っている。なのに、自分だけがただのお荷物だ。

 人を斬ったことに関して、リーフが抱いた罪悪感は人並み以下だった。彼にとっては、フィンの助けになったかどうかが問題だった。彼の後ろでただ守られているだけというのは、王子のすることとは思えなくて、どうしても嫌だったのだ。
 光の剣は、いまはベルトを通して肩にかけている。鞘や柄の飾りが目立たないように、布が巻いてあった。リーフはまだこれを片手で扱うことができない。それがもどかしかった。

 もしもこの剣を使うことができたなら。ドラゴンナイトの群れなんて蹴散らしてやれるのに。フィンにあっと言わせてやれるのに――。
 そんな気配を察したのか、ナンナが心を読んだように言った。

「リーフさま。行ったらだめですよ」
「……わかってるよ」

 再度、閃光のような雷が視界を白に染め上げる。年頃の子供なら泣いてしまうような迫力であったが、リーフもナンナも、その程度ではぴくりとも動揺しない。もっと恐ろしい目に、これまでにいくらでも遭ってきたのだ。

 そのとき、遠くから馬蹄が地を叩く音が聞こえてきた。リーフはナンナと顔を見合わせ、うなずきあうと、そっと物陰から外を伺った。

「フィンだ。行こう」

 まだ少し距離があったが、輪郭だけですぐにフィンだとわかった。ナンナの手をとり、庇の外に出る。冷たい雨が、一気に全身を濡らしていく。
 雨に霞んでいたフィンが近づいてくると、あまりの姿にリーフは息を呑んだ。

 肩や腿に、折れた手槍が突き刺さっていた。ぐっしょりと濡れたマントが、赤く爛れたように汚れている。顔半分を血染めにしたフィンは、それでもこちらに手を伸ばした。

「まだ追われています。お早く!」
「おっ、お父さま! すぐにライブを……っ」
「そんな時間はない。急いで乗れ!」

 リーフは血の気が飛んでいくのを感じながら、ナンナとともに馬に乗りこんだ。むっと立ちこめる血の匂い。フィンはリーフが体勢を整えるのを待たず、馬を走らせた。
 フィンが一度の戦闘でここまで傷ついたのは、ターラを出てからはじめてのことだった。ドラゴンナイトの真の恐ろしさを知らなかったリーフは、頭を割られるような衝撃を受けた。話だけに聞いていた、父と母の命を奪った竜騎士たち――。自分に剣が使えたら勝てただなんて、とんでもないことだった。

 痛いほどの勢いで雨粒が顔を叩く。見上げたフィンの瞳は、異様な凄みを湛えて前を見据えていた。

 ――どうして、そんなにまでなって戦えるんだ。

 剣ひとつ振れないだけで泣いてしまうような自分に、こんな傷を負ってまで馬を走らせ続けることは、きっとできない。
 なのにフィンは当然のようにそれをする。これまでに何度も。泣き言のひとつも漏らさずに。

 ――どうして。

 と、フィンは視線だけ上方に向けた。

「リーフ様、頭を低く。馬の背に這うようにしていてください」

 同時に背中を押され、リーフは腕の中のナンナとともに身体を伏せた。刹那、ごうと風が鳴った。

「っ!!」

 そのときリーフの脳裏に浮かんだのは、フクロウにさらわれていくネズミのイメージだった。抗えないほど巨大な影が、翼を延べて空から滑りこんでくる。捕食者の爪を輝かせて。その姿に気づき、息を詰めたときには――もう遅い。
 刹那の交差。フィンが槍を振るう気配。身体に闇が被さったと思った途端、ガキン、と鈍い音がした。なにが起きたのか、リーフにはまったく理解できなかった。巨大な存在は、後方に去っていく。
 恐る恐る後ろを振り向いたリーフは、傷を負って体勢を崩した竜が腹を見せて横転し、地面に叩きつけられるところを見た。すさまじい量の水しぶきがあがり、竜の姿は灰色の霧の向こうに消えていく。

 すごい、と口にしかけたところで、フィンに頭を掴まれ下を向かされた。鋭く風を斬る音。飛来する何本もの手槍を、フィンはすべて槍の柄で叩き落とした。
 一度だけ、ドッと鈍い音がしたので、リーフはどきりとした。しかし、馬は相変わらず走り続けているし、フィンもなにも言わない。聞き間違いだろうと信じて、リーフはナンナとともに馬にしがみつき続けた。

 フィンは元きた山道を駆け上がると、途中から道をそれて密林の中へと馬を突っこませた。木々の密集する傾斜面に駆け足の馬で入るのは無謀といえたが、もともと3人乗りなので大した速度は出ていない。いまはとにかく空の狩猟者から身を隠すことが先決だった。

 暗い獣道をひたすらに突き進む。つきだした針のような枝葉に、容赦なく外衣の裾を破られる。手足は切り傷と痺れで、感覚がなかった。フィンの荒い呼吸音が、頭上から聞こえてくる。永遠に思える苦痛の時間。まだかと思って顔をあげたリーフは、はっとした。

「フィン、このままじゃ森から出ちゃうよ!」

 前方の木立の向こうはもう明るい。なぜフィンは気づかないのだろうと、リーフは首を回した。そして、ぞっとした。

「フィン……?」
「――、――」

 フィンの眼は開いていたものの、虚ろな霞がかかっていた。身体が、前に倒れかかっている。だからこそ見えたものがあった。
 ――背中に突き刺さった手槍の柄が、呼吸と同じリズムで動いている。血が、馬の太ももにまで流れていた。

「フィン!」

 反射的に身体を起こすと、フィンの体勢が崩れ、横から落馬する。慌ててリーフは手綱をとって馬を止め、ナンナとともに飛び降りた。

「――っ! お父さま!!」

 ナンナが飛ぶように縋りつき、ライブの杖に念をこめる。フィンは自らが倒れたことにも気づかない様子で横たわっている。その呼吸が、段々と弱々しくなっていく。
 頭の中が、真っ白になった。リーフはフィンの肩を揺さぶった。

「フィン! いやだっ、フィン! しっかりしろ!」
「リーフさま、やめてください! 傷がもっと開いちゃいます!」
「だって、だってフィンが! フィンが死んじゃうんだぞ!? 急いで、ライブ、そうだ、ライブを――!」
「――っ!」

 ナンナの手が振りあがって、リーフの頬を叩いた。痺れるような熱さの後に、ナンナの涙に濡れた瞳がこちらを睨みあげてきた。

「お父さまがそんなふうに慌てたことがありますか!!」
「――」

 思考が冷たく痺れた。呼吸を止め、ナンナを見返す。
 肩を震わせ、ぼろぼろと涙を流しながら、それでも気丈に振る舞おうと、ナンナは歯を食いしばっていた。

「リーフさまは、強くなるために剣の修行をしているんですよね。なら、そんなことじゃだめです。わたしたち、強くならなきゃ。お父さまを助けられるように、強くならなきゃ……っ!」

 唾をのんで嗚咽をこらえ、ナンナは再び杖に集中する。
 リーフは叩かれた頬を押さえ、呆然と目を見開いたまま、へたりこんでいた。

「フィン…………」

 死んだように動かない臣下の名を、つぶやく。ナンナの持つ杖からきらめきがこぼれ、彼の身体に吸いこまれていく。
 ナンナは額に玉のような汗を浮かべて、何度も杖を発動させる。取り乱して叫びたい気持ちは、リーフと同じか、それ以上だろうに。

(なのに、僕は……)

 自分はただ、フィンと同じように活躍がしたいだけだった。剣を振って敵を倒せるようになって、フィンやナンナに認めてほしい。そんな思考で頭を一杯にしていた。人に甘えることを我慢しているのは自分だけ。苦しいのも自分だけなのだとさえ考えていた。
 それに比べて、本気でフィンを助け、守ろうと努力するナンナの、なんと輝かしく見えることか。

 ぎゅっと拳を握りしめたリーフは、包帯と水筒を取り出してフィンに取りすがった。

「リーフさま」
「ごめん、ナンナ。そのまま杖を使ってて。間に合わないところは僕が手当てする。手伝うことがあったら、言って」
「――はい!」

 汗をぬぐい、ナンナはうなずいた。すぐさまナンナの指示で、刺さった手槍を抜く。抜いたところから血が噴くのは恐ろしい光景だったが、自身が汚れるのも構わずリーフは処置を続けた。リーフは血まみれになり、ナンナは汗まみれになりながら、必死で手当てをした。

 どれほどの時間が経ったのだろう。杖の使いすぎでナンナが嘔吐してしまうころには、もう日が暮れていた。フィンの口元に手を当て、まだ呼吸をしていることを確認したリーフは、森の途切れ目を見据えた。小雨がまだ降っているが、夜の闇は空の脅威から身を守る盾にもなる。

「フィアナ義勇軍を頼ろう」

 今度こそ、住処を求めてではなく、臣下を守るために、リーフは言った。青い顔をしているナンナの背をさすってやりながら、力をこめて続ける。

「僕たちふたりで、フィンを義勇軍のところに運ぶんだ。トラキアの兵士にみつからないように。それしかフィンを助ける道はないよ」
「はい……」

 霞む目をこすりながらも、ナンナはうなずいた。致命的な傷はなんとか塞いつもりだが、これが本当に適切な処置だったのか、リーフもナンナも判断できなかった。あまりに血を流しすぎたフィンの鼓動は、いまにも止まってしまいそうに思えた。
 けれども――。

 君主は、最後まで臣下を見捨ててはいけない。ターラ公爵に学んだことが、はじめて血肉となってリーフの身体を動かし始めた。
 フィンの身体を馬に乗せるために、リーフは毅然と立ち上がった。


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