あともう少し


 古い木戸を何度か叩いていると、壁にあいた小さな穴から疑り深そうな目が覗いた。

「なにか用かね」
「食糧を分けていただきたいのです。いくらか銀貨の持ちあわせはあります」

 しばらくの沈黙の後に、覗き穴から目が消え、鍵が開く音がした。
 ところが、開いた扉から現れた老婆に投げつけられたのは、腐った果物だった。フィンの額にあたり、べちゃりと落ちる。

「あんた騎士だろう! あんたたちが戦争ばっかするせいで、この半島は滅茶苦茶だ!! そら、食糧ならやったよ。さっさとどっか行きな! この疫病神!」

 錆びたナイフをこすりつけられるような糾弾。戸は閉められ、鍵がかけられた。
 ようやく山間に見つけた小屋でこれである。フィンは落ちた果物に目を落とし、額を拭うと、黙って家に背を向けた。リーフやナンナが一緒でなくてよかったと、それだけを考えるようにした。

 取り急ぎ、代わりとなる食糧を探しにいかなければならない。彩りに乏しい山道を歩いていると、後ろからだれかがついてくる気配があった。
 さきほどの老婆が、金品を目当てに尾行してきているのだろうか。気づいていることを知らせるためにフィンは振り向いて鋭い眼光を走らせ――ふと止まった。

「あっ……」

 立っていたのは、ナンナと同じくらいの歳の少女だった。みすぼらしい身なりをし、背負った籠に山菜を積んでいる。
 少女は困ったように視線を左右に泳がせると、突然頭を下げた。

「あの、ごめんなさい。おばあちゃんがひどいこと言って……。昔はとても優しいおばあちゃんだったんです。でも、行商人のお父さんが帝国兵に殺されてああなっちゃって……ほんとにごめんなさい」

 どうやら先程のやりとりを近くで立ち聞きしていたらしい。少女はフィンのぼろぼろの旅装を哀れそうに見上げ、山道のほうを指差した。

「もしご飯が欲しいなら、フィアナ義勇軍を訪ねるといいと思います」
「フィアナ義勇軍?」

 耳慣れぬ名前を聞き返すと、少女はコクリとうなずいた。

「ここから山を越えてずっといったところにいる義賊の方々です。わたし、山で迷ったときに偶然、助けてもらったことがあるんです。とてもいいひとたちでした」

 そこまで言ってから、少女はやわらかく微笑んだ。

「お兄さんは強そうですから、きっと仲間にいれてもらえると思います」



「――じゃあ、そこに行こう」

 フィアナ義勇軍の話をすると、リーフはすぐに食いついた。ターラを出て二年になろうとしており、彼の瞳には定住地を強く求める色があった。
 だがフィンは慎重論を唱えた。

「まずは行って様子をみるのが良いでしょう。私たちを匿う器量があるか否か、見極める必要があります」
「義勇軍と名乗るくらいなんだろう。僕たちを売るような真似はしないよ、ぜったいに」

 リーフの楽観的な考えに、フィンは賛同する気になれなかった。今までにも、義賊を名乗りながらリーフが賞金首とわかれば眼の色を変えて襲ってくる山賊たちを、フィンは何人も見ていた。人は、本当に大切なものを守るためなら平気で他を切り捨て、傷つける。なにより自身がそうであったことを、彼は痛みとともによく自覚していた。

 ただ、言葉での否定はしない。リーフはここのところ、妙に焦っている節がある。下手に意見を切り捨てては、以前のように勝手な行動を起こされかねなかった。義勇軍の村のある方角を教え、そちらに向かうことだけフィンは約束した。

 隠れ家にしている岩屋で、ナンナは先に眠っていた。ライブの杖の使いすぎで、体力を消耗しているのだ。それでもフィンが傷を負うたびに杖を使いたがるので、扱いに困るほどだった。

 夜になってリーフが眠ると、ひんやりした洞窟内の空気に身を浸しながら、フィンは手を目蓋にかぶせ、息を抜いた。
 身も心も、疲れきっていた。安心できる時間など、一時もない。リーフとナンナの有り様も、思い通りにはならない。四肢が石のように重たかった。慢性的な頭痛に近い頭の重さがある。
 フィアナ義勇軍の話を聞いても、心はちっとも晴れなかった。期待したところでどうせまた裏切られる。錆びついた諦念が、胸の内を支配していた。

 こんな日々はいつ終わるのだろうと、フィンは考えた。もしかすると、永遠に終わらないのではないか。そう思うと、息が引き連れるようだった。
 身体が闇に浸かるような虚無感の中で、フィンはあえぐように何度も主君の顔を思い出そうとした。自分はあの人にただひとり、リーフの守りを命じられたのだ。これは、自分にしかできないことなのだ。
 朝焼けに照らされた主君の存在は、闇の中で一条の光となって、フィンの心を繋ぎとめてくれている。ただ、それはあまりに細く、いまにも切れそうな糸だった。

 ふと気を抜けば、絶望に落ちこみそうになる。
 なにもかも捨てて、槍を自身の胸に突き刺してしまいたい。
 そうすれば楽になれる。もう、なにも考えなくていい。

「――」

 どうしても辛さに溺れてしまいそうになったとき、フィンは心の内でこうつぶやくようにしていた。

 あのひとは、ターラに戻ってきただろうか、と。

 さらさらと流れる黄金の髪。濡れたハシバミ色の瞳が、きらめきの屑となり、瞬くように脳裏を駆ける。
 フィンは手を動かし、唇に指で触れた。

 ――どうか私に、あと少しだけ力をください。
 ――あなたに会うまで立っていられる力を、分けてください。


 形のよい小さな唇が、「しかたないわね」と微笑んだ気がした。


 ようやくまどろみに包まれようとしたそのとき、異様な風切り音が耳朶を打った。

「――っ!」

 すぐさま洞窟の入り口に寄って辺りを伺い、――フィンは絶句した。
 月夜に浮かびあがる岩場に、苔色の鱗をもつドラゴンが次々と降りてくる。見間違えようもない。トラキア王国の、竜騎士団だ。レンスターの遺児は彼らにとっても欲しい首であり、辺境の守備隊が捜索していたのであった。

 それから先は、悪夢のようだった。リーフとナンナを連れて血路を開き、一気に山を下る。義勇軍の元へ向かう道は狭すぎて、とてもではないが逃げ先として選べなかった。

「リーフ様とナンナはこちらでお待ちください。敵を撹乱してまいります!」
「フィン!」

 見つけた廃屋に嫌がるふたりを押しこめ、フィンは馬を駆って海岸沿いの道を走った。夜明けとともに空には重たい雲が立ちこめ、雷の音が聞こえてきた。そんな空から10機ものドラゴンナイトが次々と槍を手に滑空してくる。

 ――キュアン様も、同じ光景を見たのだろうか。

 ふと闇の内に流されそうになったのも束の間。フィンは槍を手にとると、戦いに身を投じた。

 あともう少し。
 もう少しだけ立っていられますようにと、願いをつぶやきながら。


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