子供のけんか


「ナンナ、なにしてるの?」

 久しぶりに屋根の下で眠れる夜だった。捨てられた農村の廃屋に一晩の宿を借りたリーフたちは、布で隙間風を塞ぎ、床の上の埃を払うと、ようやく人心地つくことができた。フィンは食糧の調達に行き、室内にはリーフとナンナが残されていた。

「あ――はい。お母さまの無事を、お祈りしてました」

 部屋の隅でじっとしていたナンナは、振り向いて答えた。両手は胸元の首飾りのあたりに添えられている。
 旅中は目立つので服の中に隠しているが、彼女はラケシスと揃いの首飾りを肌身離さず持ち歩いているのだ。

「ん、そっか。終わったら、こっちに来なよ。そこは寒いだろう」
「はい」

 リーフが暖炉の面倒を見ていると、しばらくしてようやくナンナは隣にやってきた。その指は、まだ首飾りのあたりをいじっている。
 毎日首飾りに祈りをこめれば、母は必ず帰ってくる――それが、ナンナの願掛けだった。
 暖炉の前で毛布にくるまり、ナンナはほうと息を漏らした。

「はやくお母さまが帰ってくればいいです。そうしたら、お父さまとお母さまに結婚してもらって、お父さまに本当のお父さまになってもらえるのに」
「ほんとにナンナはフィンが好きだね」
「はい。だっていつもわたしのことを守ってくれるし、優しいし、お父さまって呼んでいいって言ってくれるし……」

 頬を緩ませて語るナンナの横顔に、リーフは笑ってしまう。ターラで出会った他の子供たちは、フィンについて嫌いとまではいかずとも、若干怖がっている節があった。
 なのにナンナだけは、フィンに全幅の信頼を寄せている。あの仏頂面に平気で満面の笑みを向け、すげなくされても、めげずに後を追いかける。いまもまだ、夜はフィンと一緒に眠っている。

 幼いリーフには気づけるはずもなかったが、それは母ラケシスの影響によるものだった。
 ラケシスがまだターラにいたころ、ナンナを腕に抱いた彼女は、まるで別の人を抱いているかのように顔をすり寄せてこうつぶやいたのだ。

 ――フィンは、本当は、優しいひとなのよ。

 母が心を預けた相手を、娘は疑いもなく好きになった。そして、胸のどこかで母の痛みに気づいていたナンナは、無意識のうちに母とフィンの絆が切れないように振る舞っていたのだ。
 そんな母を想っての行動は、ナンナ本人も気づいていない、幼くひたむきで、痛々しいものでもあった。

「リーフさまも、よかったらお父さまにお願いして、お父さまになってもらえばいいんです」

 無邪気な発言に、リーフはちくりと胸を刺された気分がした。僅かな間の後に、リーフは顔を背けた。

「……僕には、立場があるから」
「たちば?」
「僕はレンスターの王子だろう。父上はキュアン王子で、母上はエスリン。ふたりが両親だからこそ、僕は王子でいられるんだ。フィンに父上になってもらうことは、できないよ」
「……よく、わかりません」
「ナンナは子供だからなあ」
「むっ。子供じゃありません」
「子供だよ。まだライブの杖も使えないんだろう? 杖が使えるようになったら大人の証拠って、ラケシスが言ってたじゃないか」
「そ、それは…………つ、つ、使えます!」

 リーフのいじわるな物言いに、ナンナは思わず嘘を口走った。練習はしているが、これまで一度も成功していないことを、リーフはよく知っていた。

「へえ。じゃあ僕に使ってみてよ。ほら、今日の昼に藪で引っ掻いたところがあるから」

 リーフはにんまりと笑って、手の甲の切り傷の痕を差し出した。後には引けなくなったナンナは、唸りながらライブの杖を取り出し、リーフの傷口に近づけた。いまの彼女の身の丈ほどもある杖を握りしめ、精神を集中する。

「んーーーーーっ」
「…………」
「やーーーーーっ」
「…………」
「ふーーーーーっ」
「ナンナ、ぜんぜん治ってないよ」
「こっ、これから治るんです!」

 肩で息をしながら、ナンナはリーフの手の甲にぐりぐりとライブの杖を押し当てた。

「ちょ、ナンナ、痛いんだけど」
「しっ、集中しなきゃできないんです! しゃべらないでください!」
「い、痛い! えぐらないでよ、痛いってば!?」

 すったもんだの果てにリーフが自分の手を取り戻して背中にやると、ナンナはぐずぐずと泣き始めた。

「でっ……できます。ちゃんと、ひとりで……っ、お母さまみたいに、使えるんです……っ」

 まさか泣かれるとは思っておらず、リーフは困ってしまった。

「ああ、もう……いいよ、できなくたって。傷なんて、放っておけば勝手に治るし」
「ほんとにできるんです! わたし、子供じゃありません!」
「わかってるってば! 怒鳴らないでよ!」
「怒鳴ってるのはリーフさまです!」

 二人は牙を剥いて睨み合うと、フンと鼻を鳴らして同時に背中を向け合った。
 狭い廃屋の中に、重苦しい沈黙が落ちる。
 暖炉にくべられた木々が崩れ、ぱちりと炎が割れるように揺らめいた。

「……ナンナ。新しい薪、くべといて」
「リーフさまがやってください」
「…………」

 渋々とリーフは、薪をいくつか暖炉に放り込んだ。フィンが起こしてくれた大事な火だ。絶やしてしまうわけにはいかない。
 手についた木の粉を払いながら、どうしてこんなに嫌な気分になるんだろうと、リーフは考えた。旅で疲れているというのもある。フィンがいない不安もある。けれど……ナンナは、リーフにとって、大切な妹も同然なのに。どうして泣かせてしまうのだろう。

「フィン、まだかな……」

 口の中でつぶやいて、膝を抱えなおす。
 しばらく無言の内に手遊びをしながら過ごしていると、ふいにナンナが立ち上がった。

「どこ行くの」
「ついてこないでください」

 ナンナはぷいと顔をそむけ、外へ出ていく。小用かと思って見送り、廃屋にひとりきりになる。
 ところが、待てども待てどもナンナは帰ってこなかった。
 流石に心配になり、リーフは振り向いて扉のほうを見た。暖炉の明かりで、自分の影が化物のように大きくなっていた。
 得体の知れない恐怖を覚え、走って戸を開けた。恐る恐る裏手を覗きこんだリーフは、はっとした。

 暗がりに美しい金髪が揺らめいている。
 ナンナが、冷たい風に吹かれながら、ライブの杖を振っていた。

「……っく……できるもん……わたしにだって……できるって、お母さまが、言ってくれたもん……ひっく……」

 何度も袖で目元を拭いながら、ナンナは杖を握りしめては集中し、治療の光を灯そうとする。

「わたしがライブを使えたら……お父さまだって喜んでくれるもん……もう大人だねって、褒めてくれるもん……」

 しゃくりあげるナンナの後ろ姿を見て、リーフはまた胸を刺される感覚を覚えた。

 ――ナンナは、ずるい。

 リーフは唇を噛み締めた。自分よりも自由に感情を表現できて、自分よりも簡単にフィンに甘えられて、自分よりもずっと努力している。

(僕だって好きに言いたいことを言いたい。フィンに父上になってもらいたい。僕だって。僕だって――)

 音を立てないように部屋に戻り、暖炉の前でリーフは膝を抱えた。火にあたると身体は暖かくなったが、心は暗い水の中にいるように冷たいままだった。
 それが一番愚かなことだとわかっていながら、リーフはひとり、じっと膝を抱えていた。

 なんのことはない。
 リーフもまた、すこし人より大人びているというだけで、まだ幼い子供だったのである。



 さて、一方。
 彼らの食糧を調達中の保護者は、ひとり懊悩の中にあった。

「……やはり、行かせるべきではなかった」

 あのとき、あの人を力ずくでも止めておけばよかった。女性ひとりでの砂漠越えなど、無茶であったのだ。
 過ぎたことを悔やんでも仕方ないことは知っている。それでも、ひとりになると、フィンの心には後悔の波が押し寄せてくるのだった。
 いくつもの過去の情景を思い出し、歯を食いしばってかぶりを振り、時折ひとりごとを漏らしながら――。

 フィンは、森の獣と血みどろの戦闘を繰り広げていた。

 どうやらこの廃村は、森の中に住まう猛獣の被害に耐えかねて捨てられたらしい。森に一歩足を踏み入れれば、人の血に飢えた熊や狼が次々と襲いかかってきた。

 ――が、はじめにフィンを襲った彼の倍ほどの身丈もあろうかという熊は、うるさそうに頬を歪めたフィンの槍に開いた口から串刺しにされた。
 続いて狼の群れやよくわからない獣たちが闇に乗じて襲いかかってきたのだが、もちろん規律だった動きなどない。フリージ兵の追撃から逃げ切ったフィンにとっては、この程度ピクニックも同然だった。槍を動かしている内に、思考だけが暇になり、面倒なことを考えだしてしまったのである。

「いまごろどこに…………しかし、私は…………」

 飢えた獣どもにとっては、恐怖の一夜だった。ぶつぶつと独り言をつぶやく不気味な騎士は、彼らが襲ってこなくなるまでひとしきり殺戮の刃を振るうと、一番大きそうな獲物を縄で縛り、食糧とするため引きずっていくのであった。


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