あなたが、教えてくれたから


「――このように、北トラキアにある4つの王家は、時には同盟を組み、時には仲違いをしてきた。ただし、南方のトラキア王国に敵対し続けたことは共通している」
「僕が王になったとき、彼らと協調することができるんだろうか」
「リーフ、忘れているぞ。4王家の内、コノートとマンスターの王家は断絶しているのだ。フリージの役人を追い払った後は、協調ではなく、庇護のもとに置くべきではないかな?」
「そうなったらトラキア王国と同じじゃないか。元からある国を潰して自分が君臨するような侵略者に、僕はなりたくない」
「そうか。では、変化を望まず、他国の痛みから目をそむけ、規律を順守して譲らず、排他的に正義を謳う、まさしくレンスターらしい王になるというのだな」
「…………」
「私の言い方が不服か?」
「……ううん。公爵の言うことは……なんとなく、わかる。でもさ。でも、そうやって考えていったら、すべての不幸をなくすには――」

 リーフは、広げられた地図ごしに、光る眼差しでターラ公爵を見返した。

「僕がトラキア半島全土の王になるしかないじゃないか」

 対峙したふたりの間に、沈黙が落ちる。
 先に笑ったのは、ターラ公爵のほうだった。

「――それ以上の答えは、私にもわからん。あとは自分で考えろ」
「……」
「どうした。王になるのは、そんなに嫌か」
「嫌じゃない。ただ、僕はノヴァの聖痕を持たない人間だ。そんな僕が皆に王として認められるには、どうしたらいいんだろうって考えてた」

 ターラ公爵は、皮肉げに口元を歪める。聖痕を持たない王子。リーフはその劣等感に一生つきまとわれることになるのだろう。
 だが、こればかりは他人が何を言っても変わるものではない。自分で乗り越えなければいけない壁だった。

 リーフがターラに来てから、3年が経った。すっかり少年らしくなった彼は、一国の王子として申し分ない知性を身につけつつある。あと8年。いや、あと5年あれば、必ず将として立つことができるようになるだろう。
 そう考えると、我知らずにんまりとしてしまう。優秀な子供を手ずから育てあげることは、ターラ公爵にとって一種の娯楽でもあった。彼こそが新しきトラキア半島の王になるのだと、ターラ公爵はもはや確信に近い予感をもっていた。

「失礼します、公爵」

 扉がノックされて、執事が入ってくる。平素と変わらない態度で耳打ちされた内容に、ターラ公爵はちらりとリーフに目を向けた。

「わかった、すぐ行く。――リーフ。狩りの予定が入ったゆえ、フィン殿と支度をしてこい」
「――!」

 リーフの瞳が、はじけた。ターラ公爵が告げたそれは、緊急事態を告げる符丁だった。
 この言葉を受け取った際は、慌てず騒がずフィンと合流し街を脱出すること。あらかじめ決められていたとおり、リーフはコクリとうなずいて部屋を出ていった。


 もともとターラ公爵はリーフの存在を、細心の注意を払って隠していた。優秀であるがゆえにターラ公爵が遠縁の親戚から引き取った養子――そう知られていたリーフの真実を知る者は、ほんの一握りだった。
 そこへ、ターラ進撃の大義名分を探していたグランベル帝国は密偵を放った。はじめは公爵の手腕で、そのような密偵はすべて屋敷から排除されていた。

 ところが帝国は、じわりじわりと外からも経済的な圧力をかけてきた。トラキア王国も同様だった。ターラは商業の街であり、他の都市の存在がなければ生きてはいけない。帝国、トラキア王国、ターラの間に、外からは見えない激しい攻防戦があった。このとき、トラキア王国とターラの同盟の証として、リノアンが王子アリオーンの婚約者になることが密約されている。ターラを守るためには、仕方のない判断であった。

 そんな外交戦の最中、多忙を極めたターラ公爵は、屋敷内の密偵をひとり見落とした。侍女に扮して潜りこんだ女は、リーフとターラ公爵が国や王の在り方について毎日のように議論を重ねている姿を見た。
 その髪の色と、目の色。会話中に何度もでてくるレンスターの名。なにより、リーフという名前。

 情報を受け取った帝国の上層部、特にフリージ家は騒然となった。
 レンスター王家の遺児リーフが、ターラで生きている。事実は、だれにも覆しようがなかった。

 これぞまさに千載一遇の好機といわんばかりに、帝国軍はターラに押し寄せて包囲網を敷いた。ターラ公爵のリーフ隠匿は帝国への反逆の意思の現れであるとして、即刻処断の対象となったのだ。

 帝国の動きは迅速かつ徹底していた。ターラの3つの城門が同時に攻撃の対象となり、街には城壁外から放たれる弩弓が降り注いだ。宣戦布告なしの攻撃は、戦争というより懲罰といったほうが正しかった。



 弩弓が建物を貫くたびに、ナンナが肩を飛び上がらせてしがみついてくる。
 フィンは焦りに身を灼かれる思いで、窓の外を睨んでいた。リーフはもうひとつの窓にとりつき、拳を震わせている。

「フィン、僕たちになにかできることはないのか」
「――ありません。いまは、ターラ公爵を待ちましょう」

 あらかじめ用意されていた街の外への隠し通路は、間者の手によって潰されていた。フィンの手で待ち伏せしていた敵はすべて屠ったが、通路は使えなくなっており、公爵邸に引き返してくるしかなかったのだ。

 弩弓の雨が終わると、一時、街は静かになった。しかし、弩弓の飛んできた方向からして、帝国軍は完全にターラを包囲しているようだ。逃げ場は、どこにもないように思えた。リーフのつぶやきに、フィンの心臓が跳ねた。

「……僕は、死ぬんだろうか」
「リーフ様の命は、必ずお守りいたします」
「……うん」

 リーフはうなずいたが、信じている気配はなかった。いつの間に、こんな眼をするようになったのだろう。夕闇に沈む街を見つめる彼の瞳は、己の宿命に対する覚悟をすでに決めているように思えた。

 ターラ公爵が険しい顔で入ってきたのは、それから間もなくしてのことだった。

「連中の要求は簡単だ。ターラ市の城門を開き、帝国の支配を受け入れ、リーフの首を差し出せば市民に手は出さんということだ」

 フィンが庇うようにして動いたにも関わらず、リーフはターラ公爵の元に縋りついて言った。

「だったら僕を連れていってよ。僕の命ひとつで街やみんなの命が救われるなら、僕は――」

 そこまでしかリーフは言わせてもらえなかった。ターラ公爵の無骨な拳が、リーフの頬を殴りつけた。

「リーフさま!」

 倒れたリーフにナンナが駆け寄る。ターラ公爵は、鋭い眼光でリーフを睨みつけた。

「それが王たる者の態度か。頭を冷やし、私の教えを思い出せ」
「…………」

 うなだれるリーフを無視し、ターラ公爵はフィンに低く告げた。

「見張り台に、当直番が使う通用門がある。付近は草むらになっているゆえ、貴公なら夜闇に紛れ進むこともできるだろう」
「しかし付近に展開した帝国軍はどのように切り抜けますか」
「私が自ら私兵とともに正門から出て、連中の注意を引く。その間にすり抜けるのだ。――できるか?」

 地図で見張り台の位置を確認すると、フィンはうなずいた。滞在の間に、ターラ周辺の地形は自分の足で歩いて頭に叩きこんである。危険な橋だが、それ以外に道はないだろう。

 しかし――。フィンの透徹な意思にノイズが交じる。ターラを去れば、あの人との繋がりが断ち切れてしまう――。
 唇を噛んで、フィンは言った。

「……参りましょう、リーフ様。ナンナも」
「お父さま、お母さまのことは――」
「今は逃げるのが先だ。行き先も残していくことはできない。帝国兵に漏れる可能性がある」

 ナンナの顔が、くしゃりと歪む。それが自分の心の一部分と重なって、フィンは拳の中で爪を立てた。
 立ち上がったリーフは、光の剣を佩き、荷物を手にした。無言のままに、ターラ公爵に一礼して部屋を出ていく。いま別れの言葉を言えば、泣き出してしまうからだろう。
 二度と会えないであろうことは、フィンも理解していた。帝国兵の残忍なやり方は、報告書で何度も目にしている。リーフなしに公爵がでていけば、見せしめに殺されるに違いなかった。

「……お世話になりました」
「礼を言うならリーフにしろ。あやつに見込みがなければ、レンスター王家の遺児などという劇物、はじめから塩をまいて追い払っていたわ」
「――それでも。心よりお礼を申し上げます」

 苦手に感じていた皮肉げな面差しが、傲然と笑う。ターラ公爵は背を向けると、手を軽く振った。

「己の夢を忘れんようにしろ、騎士殿。心を殺すなよ」

 フィンはもう一度頭を下げると、ナンナの手を取って部屋を出ていった。
 それが、ターラ公爵との最後の会話となった。



 ターラ公爵の予想通り、公爵が私兵を伴って門を出ると、帝国兵の関心はそちらに集中した。フィンたちは、草むらに紛れ、彼らの軍営をすり抜けるようにしてターラを脱出した。夜闇の中とはいえ、敵と数歩ほどしか離れていない場所を進むこともあり、見つからずに済んだのは奇跡的だった。

 包囲網を突破すると、暗闇に紛れながら走れるだけ走った。はじめに目指す先は、ターラ公爵が馬を隠してくれている山間の小屋だ。
 蔦や蔓に足をとられ、リーフやナンナは何度も転んだ。ところが、リーフどころかナンナまでが、途中で弱音を吐くことはしなかった。
 ただ、流石に夜半を過ぎるとナンナの足がおぼつかなくなり、フィンが背負うことになった。
 リーフはひとり、強情ともいえるひたむきさで足を動かしている。

 夜明けが訪れる頃に、小屋に辿り着いた。明るくなった空の先に、ターラの城壁が見えている。
 まだこんなにも近い。あるいは、もうあんなに遠い。どちらともとれる距離だった。

「お母さま……お母さま……ぅうっ」

 城壁を見たナンナは、泣きじゃくった。これまで毎日のようにイザークの方面に続く街道を見に行き、母の帰りを待っていたのだ。ラケシスの存在は、ナンナにとって大きな心の支えだった。そして、もう失ってしまったに等しい支えだった。
 リーフはナンナの隣で、唇を噛みしめている。こみあげる気持ちを必死で押さえているのは、後ろ姿だけでも理解できた。

 また、自分たちは帰るべき場所を失ったのだ。
 それだけではない。レンスターが落城してから旅路を共にした人まで、なくしてしまった。

 フィンは、約束の一年が過ぎてから、ラケシスがまだ生きていると信じようとしていた。イザークの情勢は混乱していると聞く。どこかで足止めをくらい、手紙も出せずにいるのかもしれない。気まぐれな彼女のことだから、何年かすればひょっこり帰ってくる――。

 そんな望みを嘲笑うかのように、心の深淵が、絶望を謳う。
 彼女はもういない。彼女はこの世にはいない。今回のことは、彼女への思いを断ち切る良い機会ではないか。

 さあ、前を向け。
 おまえの使命を思い出せ。
 誇り高き騎士であれ。
 だれよりも強く、だれよりも猛く。
 先に逝った者たちに誇れる道を行け――。

「…………」

 ぱん、と。
 フィンは、自分の頬を自分で叩いた。
 静かに子供たちの後ろに近づき、名を、呼ぶ。

「ナンナ。それに、リーフ様」

 ナンナが涙に濡れた瞳を。リーフが、疲れと悲しみに荒みきった瞳を。それぞれこちらに向ける。
 膝をつくと、彼らの頭を両手に抱え、思いきり抱きしめた。

 そのとき、雲間から陽が差しこんだ。

「ラケシス様は、きっと生きておいでです」

 背中を明るく照らされる。腕の中からは温かな体温を。外界から与えられる熱は、己が生者であることを知らしめる。
 そんな優しい真実を教えてくれた人がいた。甘美な絶望と優美な闇に身を委ねた自分に、手を差し伸べ続けてくれた人が。
 無知で愚かで、死の安らぎに焦がれすらした自分に、守ることの本当の意味を教えてくれた人が。

「ですから、私たちは生き延びましょう。生き延びて、いつか立ち上がり、帝国軍を破って――ターラの方々に、必ず会いに参りましょう」

 耳元で、幼い嗚咽がこぼれた。
 ひたすら辛さを我慢していたリーフが、ついに耐え切れなくなったのだ。
 つられてナンナもフィンに抱きつき、鼻をすすりだす。

 自分はとうの昔に泣き疲れ、涙も枯れてしまった。けれど、自分の代わりに彼らが泣いてくれる。それだけで充分だ。
 フィンは自らの心に誓うように、言った。

「そして、すべてが終わったら……ラケシス様を探しに行きましょう」

 リーフの引き攣れた吐息が、わめくような涙声に代わっていく。叫びは、空高くに昇り、散った。フィンは大切な主君と同じ色の髪をしたリーフの頭を抱きながら、ゆっくりと目を閉じた。

 ――キュアン様。
 ――あなたは、心に思いを宿すのは構わないとおっしゃいました。
 ――ならば、どうか――。

 遠く高い蒼穹が広がる空の下、彼らは3人きりだった。涙を吹き散らす風が、吹きぬけていく。帰る先はどこにもない。
 なのに、生きていける気がしていた。

 彼女にもう一度会って、もう一度、同じ言葉を告げるまでは。
 いままでのことを、謝るまでは。
 あの笑顔に、再び巡りあうまでは。
 きっと、この足は歩いていける。

 だから――フィンはリーフの泣き声に乗せ、天にいるであろう亡き主君に向けてつぶやいた。


 ――どうか心の奥底で、あの人を想い続けることを、お許しください。
 ――私に喜びと悲しみと、ともに生きることを教えてくれた、あの人のことを。


 続きの話
 戻る