大輪の花


 フィンは午後の日課として、街中での事件や諸外国の情勢を記した報告書に目を通すようにしている。無論、自分たちに関わる危機がないか、確認するためである。

 ディアドラ王妃が逝去してからというもの、グランベル帝国の圧政は度を超えるようになっていった。集めた情報によれば、フリージ家に支配された北トラキアでは、民衆が奴隷のような扱いを受けているらしい。
 そのような報告内容を目にするごとに、焦燥が頭の奥を焼く。

 いつごろターラを出て決起すべきだろうか。現時点でリーフはまだ8歳と幼く、残存するレンスター騎士の総大将になるには心もとない。
 しかし、早く行動を起こさねば北トラキアは荒廃するばかりだし、潜伏する騎士たちのほうが諦めてしまうかもしれない。
 そもそも、トラキア半島内に、レンスターの騎士があとどれほど生き残っているのか――。

 しかめっ面で字面をなぞるフィンに、声をかける者がいた。

「あ――あの。と、父さま」

 振り向くと、盆に紅茶のカップを乗せたナンナが、頬を朱に染めて立っていた。緊張に、唇が引き縛られている。

「なんだ?」

 呼び方を咎められなかったことに、ナンナはぱっと表情を明るくした。

「あの、そのっ。お茶を持ってきました。よかったら、どうぞ」
「ああ――置いておいてくれ」
「はい、父さま!」

 喜び勇んでテーブルに紅茶を置くと、ナンナは盆を抱きしめて走り去っていった。
 そんなに、父と呼ぶことが許されて嬉しいのだろうか。

 怪訝に思いつつカップをとると、フィンは口をつけた。
 ――と、通りがかりに一部始終を見ていたターラ公爵が、にやっと笑みを浮かべた。

「ようやく娘を認知したんですかな」

 フィンは盛大にむせた。

 激しく咳きこみながら視線だけ向けると、ターラ公爵は大変に人の悪そうな顔をしている。どうやら、知らぬ間にとんでもない容疑をかけられていたらしい。

「ち、違います。あの子は、実の娘ではありません、それは確かです」
「ほーう、そうか。それは失礼を言ったな。悪かった」

 謝罪しながらも、その表情はむしろ面白がっている。この人は苦手だ、と、フィンはしばしば公爵に感じていた印象を再認識した。

「それにしても、顔色がよくなったな。いやいや、結構なことだ」

 ターラ公爵は勝手な指摘を残し、笑いながら去っていく。
 後に残されたフィンは、そうだろうかと思いながらカップを置き、書類に目を戻した。
 ちなみに、ナンナが初めて淹れた紅茶はとんでもない渋さであったが、青髪の騎士はそのような味の機微のわかる繊細な舌は持ちあわせていない。すこし苦いな、とだけ思いながら再び情報の渦に埋没していく。

 ――と、そのとき。不意に、フィンは視界の端に動くものを捕らえた。



 旅に適した時期を選んだとはいえ、イード砂漠の灼熱の太陽は、すべての生命を焼きつくすかのようだ。
 砂を含む風にはためくフードを押さえながら、ラケシスは馬の手綱を引いて砂漠を行く。

「久しぶりの感覚ね」

 つぶやきながら、ハシバミ色の瞳で目印代わりに立てられている丘の旗を確認する。一定の距離ごとに建てられた旗は、広大な砂漠での旅人の命綱ともいえた。
 何年か前、彼女は、この目印を頼りにレンスターまでひとりで旅をしたのだ。

「子供がいないと楽は楽だけど、話し相手がいないのが寂しいところだわ」

 ラケシスはそうごちると、ひとり笑った。以前、ここを通ったときは、寂しいなどとは思わなかった。使命感で胸はいっぱいで、ただ前に進むことに全力をかけていた。長く険しい旅路だったことは、よく記憶している。

 しかし、それからの旅は、ひとりではなかった。リーフと、ナンナと、あと、もうひとり。砂漠越えよりよほど悲惨な時期もあったが、なにもかも、あっという間に過ぎていったように思える。一方で、輝くような記憶がいくつもあった。

 わたしは、ひとりぼっちだと思っていたのに。

 ラケシスは唇だけでそうつぶやく。いつのまにか、ひとりではなくなっていた。そう思えるようになったのは、やはり、あの3人のおかげだ。

 青髪の彼はいまごろ、どうしているだろう。寂しがって泣いていればいいんだわ、と心のいじわるな部分が言い、自分のことなんかまったく忘れてしまっているだろうと、心の弱気な部分が言う。
 ただ、予想はどちらも正しくないと、ラケシスは直感的に考えていた。

 彼はいまだに迷っているのだろう。託された者としての意思を揺るがしかねない感情を抱くことに。
 だれにも打ち明けず。だれにも心を開かず。たったひとりで、思いを巡らせているのだろう。
 始めて会ったときから、彼はそういう人だった。

 だから、ラケシスは決めていた。
 イザークから帰ってきたとき、彼に拒絶されたなら、思いっきり泣いて、身を引こう。
 ただ、もしも彼が受け入れてくれるなら。

 ――今度こそ、わたしがあのひとを守るのだ。

 砂煙の向こうに、旅団らしき影が見えてきたのは、ちょうどそのときだった。普段なら行き会った旅人同士、情報交換をするのが常であったが、ラケシスはなんとなく嫌な感じを覚えた。幌のついた大きな馬車を一台だけ引き、静々と砂漠を進んでくる。窃盗団などではなさそうだが、なにか、禍々しい気配があった。
 辺りには巨大な岩が塔のようになって乱立していたので、その影に隠れることにする。

 馬の首筋を撫でて落ち着けてやりながら、ラケシスは前方を往く一団を注視した。御者は、フードつきのマントを目深に被っている。その脇を固めるように、黒いローブを着た魔道士が4名、うつむきがちに歩いている。

 不気味な様子に眉を潜めていると、彼らはゆっくりと通り過ぎていき、馬車の後ろ側が視界に入った。格子がついた先に見えた『荷物』に、ラケシスは全身の肌を粟立たせた。

(子供じゃない!? しかもこんなに大勢――!)

 そこには、二十名ほどの子供たちが詰めこまれていた。ある者は膝を抱え、ある者はぐったりと横になっている。
 ラケシスの脳裏に、オアシスで聞いた噂話が過ぎった。ロプト教団と手を組んだグランベル帝国は、子供たちを生け贄に邪悪な儀式を行おうとしている――。
 聞いたときには、グランベル帝国の支配にあえぐ人々が作った根も葉もない噂だと思った。子供を生け贄にするなど、そんなばかな話が実際にあるとは思えなかったのだ。
 しかし、これはまさか……。

 ラケシスは素早く辺りを見回した。近くには助けてくれるような人も、通報できる村もない。しかも運の悪いことに、このあたりはロプト教団の秘密神殿があるといわれている地区だった。

 見なかったことにして先を急ぐことは、できる。ラケシスとて己の息子を救いに行くために旅をしているのだ。こんな場所で、義心に囚われて行動を起こしたところで、失敗は目に見えている。自分は、確実に帰らなければいけないのだ。帰って、あのひとに会わなければいけないのだ。

 だが――。

「いやだわ」

 口の中でつぶやきながら、馬から弓矢をとり、番える。よく引き絞り、放った。矢を背中に受けた魔道士が倒れこむ。他の魔道士が、にわかに浮足立つ。

「あのひとの無茶でバカなところが、移っちゃったみたい」

 素早く次の矢を放ち、二人目を仕留める。三人目は、矢が逸れて仕留め損なった。彼らが魔道書を取り出し、詠唱を始める。剣の柄に手をかけ、走りだした。魔法が発動する直前で、胴を切り裂く。これで3名。即座に、着ていたマントを放って姿をくらまし、横に飛んで吹き出す闇の息吹を避ける。驚く魔道士の元に走ると、逆手に持ち替えた剣で喉笛を掻き切った。

「……っ、はあ、はあ、はあ……」

 心臓が壊れたように早鐘を打っていた。だが、まだ終わっていない。御者台に登ると、御者の男は顔を蒼白にして両手をあげた。無精髭を生やしており、浮浪者のような顔形だった。

「ま、待ってくれ! 俺は、ただ雇われてるだけなんだ! い、命だけは助けてくれ!」
「……この馬車を、動かして。元きた街に連れていきなさい」

 男の首に刃を突きつけ、ラケシスは低く告げた。男は泣き出しそうな顔で首を横にふる。

「そ、そいつぁいけねえ。すぐそこの寺院にこれを届けることになってんだ。時間になっても来ないとわかったら、やつら、地獄の底まで追いかけてくるぜ!」
「ならあなたを殺してわたしが馬車を動かします」
「ひっ……」

 ラケシスの眼光に怯んだ男は、暫しの沈黙の後、「わかったよ」と渋々馬車を動かし始めた。
 反対側に向きを変える間に、ラケシスは自分の馬を連れてくると、荷車の格子を外し、中に入った。

「あなたたち、大丈夫?」

 饐えた臭気に顔をしかめながらも、問いかける。ほとんどが死んだように答えなかったが、反応する気力が残っていた子供が数名いた。ラケシスの姿にいたく驚いた様子で、ひとりの少女が呆然とつぶやいた。

「女神さま……?」

 髪の色は黒だったが、ナンナと同じくらいの身体の大きさだった。ラケシスは、胸がいっぱいになった。

「いいえ、違うわ。わたしは、ノディオンのラケシス。女神じゃないわ。――昔は、王女だったけどね」
「ラケシスさま……」
「もう平気よ。これから街に帰るから、安心なさい」
「ほんとに……? ぼくたち、おうちに帰れるの……?」

 別の少年が、見開かれた瞳からぽろぽろと涙をこぼす。みるみる伝播する嗚咽と泣き声に、ラケシスはやってよかったと心から思った。
 道すがら、子供たちと御者から詳しい話を聞く。彼らはイザークの農村の子供たちで、帝国兵の子供狩りに遭って運ばれてきたらしい。

「俺だってこんなことしたかねぇ。でも、運び屋を断った俺の親友は帝国兵に殺されて……俺は……怖くて……」

 涙ながらにそう語る御者を前に、ラケシスは唇を噛み締めた。ターラにいたときにはまるで気付かなかったが、世界は知らぬところで、暗黒の時代に突入しているのかもしれない。帰ったらあのひとに伝えないと……。
 そのとき、胃を圧迫されるような嫌な感じがした。ラケシスは御者から鞭をとりあげると、素早く馬に振るった。

「ど、どうした!? ――んな!?」
「鞭を当て続けて! 捕まったらおしまいよ!」

 ラケシスは御者に鞭を押し付けると、転がり落ちるように馬車から降りた。辺りに禍々しい紫の魔法陣が浮かび、十名近くの魔道士たちが現れていた。

「あ、あんた! 死んじまうぞ!」
「急いで行きなさい! 振り向いちゃ駄目よ!」
「ラケシスさま!」

 みるみる速度をあげる馬車は、子供たちの叫び声を遠のかせていく。それでいい、とラケシスは思った。いつだって自分は守られてきた。どんなに苦しいときも、だれかがいてくれた。エルトシャン、ベオウルフ、セルフィナ、ナンナ、リーフ、そして――。
 だから今度はわたしがだれかを守る番だ。
 わたしは、戦わなければならない。

 それが一番守りたい人とは違っても。

「――あ」

 剣を抜きながら、ラケシスは呆然とつぶやいた。涙が浮いた。血がにじむほどに、唇を噛みしめる。

「……あなたも、きっとこんな気持ちだったのね」

 青髪の下でひたむきに遠くを見据える横顔が目蓋の裏に浮かび、彼の名を、一度だけ呼ぶ。
 魔道士たちが次々と闇の魔法を顕現させる。輝くような金髪をなびかせ、気高く頬を引き締め、両の足で彼女は相対した。まるで、大輪の花が咲き誇るかのように。
 そして、歯を食いしばり、瞳を輝かせる。


「さあ、行くわよ!!」



「っ」

 武人の反応で、身体が強張る。フィンは動いたもののほうに素早く顔を向けた。
 ただ、それは、近くに飾られていた花瓶から、バラの花が一輪、床に落ちただけのことだった。
 大したことではない。息を抜いて、再び書類に戻る。
 しかし、落ちたバラがいつまでもこちらを見つめているような気がして、フィンは再び視線をそちらにやった。
 絨毯の上に落ちたバラは、落花するとは思えないほど瑞々しく立派だった。ラケシスが好んで飾っていた、真紅のバラだった。

「…………」

 不吉な予感を覚え、頬をゆがめる。立ち上がったフィンは、落ちたバラを拾い、そっと花瓶の横に置いてやった。
 けれど、一度落ちた花は、元の姿に戻ることはない。
 一輪だけ転がったそれは、うなだれ、涙を流しているように見えて、フィンはしばらくそこから目を離すことができなかった。


 その後、一年が過ぎ、二年が過ぎても、ラケシスは戻ってこなかった。


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