交差


 その日の朝は、はじめから様子が違っていた。

 同じ時間に厩で顔を合わせたのは、いつもと同じだった。
 だが、自分より僅かに遅れてやってきたラケシスは、手折られた花のように、暗く沈んでいた。

 アグストリアの挙兵を諌めに行ったエルトシャンが、獄中に囚われたのだという。
 もはや全面戦争は避けられぬ事態となり、シグルドはアンフォニー城への進軍を決めたのだ。エルトシャンの安否は、いまだに知れない。

 ラケシスは以前から兄への思いを公言しており、その気持ちの大きさは、周囲の知るところであった。
 フィンの前で俯くラケシスは、いまにも擦り切れてしまいそうだった。

「……ラケシス様」

 手を止めて、フィンはつぶやく。繰り返される日々の中で、いつのまにかフィンはラケシスの名を呼べるようになっていた。
 するとラケシスはフィンの顔を見て、歪むような笑みを浮かべた。

「騎士になる者が、出撃初日にそんな顔をするものではなくてよ。わたしは……平気よ」

 必死に自分を強く見せようとする姿が逆に痛々しく、手を伸ばして支えたくなる。
 だが、ノディオン王家の姫であることを誇りにしているラケシスは、そんなことを望みはしないだろう。
 そこまで思い当たった途端に息苦しさを感じて、フィンは不可解な感覚に拳を握った。

(私は、ただ、いつも通りにこの方が笑って話しかけてくれる……それだけでよかったはずなのに)

 心がこんなにも悲しいのは、ラケシスの元気がないからではない。もっともっと、根源の感情が、なにかを叫んでいる。

(私は、なにを望んでいる……?)


「さあ、急いで済ませてしまわなくては」

 わざとらしく言いながら、ラケシスは馬の手入れを始めた。彼女の白馬は、主の感情を汲みとったのか、不安そうに鼻を鳴らしている。
 フィンは手を動かしながらも、ラケシスを横目で伺っていた。彼とて出陣初日となればやることは山積みなのだが、彼女の様子がどうしても気がかりだった。

 眠れていないのだろうか。ラケシスは時折足をふらつかせている。

「ラケシス様。よろしければ、私が代わりましょうか」

 するとラケシスは、むっとして厳しく答える。

「結構よ。前にも言ったでしょう、この子はわたし以外に触られることが嫌いなの。それに、馬の手入れは主の勤めで、しょ――」

 言葉は、最後まで続かなかった。彼女の身体が後ろに大きく傾ぎ、細い足がもつれた。
 身体を支えきれずに、後ろに倒れる。――そこには、隣に繋がれた馬の後足があった。
 ぞっと背筋が冷えた。知らない馬の背後に回ってはいけないことは、騎士見習いに初めに教えられる知識でもあった。生身で馬に蹴られると、命を落とすことすらあるのだ。

「ラケシス様!」

 彼女の身体は馬に当たり、その場に崩れる。突然の衝撃に驚いた馬が悲鳴をあげ、足を振り上げる。視界が、白に染まる。
 判断する前に、身体が動いていた。
 飛ぶように駆け寄ると、彼女の腕を掴み、引き寄せながら床を蹴る。
 ろくに受け身も取れずに柱に背中をぶつけ、痛みに呻いてから、フィンは自分がなにをしたのか悟った。

「――――え」

 殴られたように、フィンは呆然と目を瞬いた。
 厩の独特の臭気さえ塗りつぶして鼻孔を刺激する、甘くやわらかな香り。胸にもたれた繊細な顔立ちが、温かなぬくもりを伝えてくる。そして、手の中にある折れそうな手首の細さ。広がった髪がさらりと落ちて、服の上からだというのに熱い感覚が頭を痺れさせる。
 全身が、かっと熱くなった。呼吸が止まり、口の中が干上がり、まともな思考ができなくなる。

 ――同時に、無性に泣きたくなった。

「……ぅ……」

 腕の中のラケシスが、目を開ける。そして、状況に驚いて身を離す。
 だが、フィンも同じように、彼女の肩を掴んで引き離していた。

「……フィン?」
「…………っ」

 唇を噛む。
 今は、今だけは、名前を呼んでほしくなかった。
 顔をそむけ、押し出すように告げる。

「申し訳、ありません……。とっさのことでしたので……」
「え、ええ……ごめんなさい。わたしも、不注意でした」

 ラケシスは自分の身を抱くようにして、柱に掴まりながら立つ。言葉を探すような沈黙の後、小さく彼女はつぶやいた。

「これでは……足手まといですね。今日はイーヴたちに付き添ってもらって、後方から支援することにします」
「……はい」

 フィンが背を向けて立ち上がると、ラケシスは動揺を隠せない様子のまま、桶を持って厩を出ていった。
 誰もいない厩に残されたフィンは、しばらく石像のように停止してから、――手を、顔にかぶせた。

「私は……」

 吐き気がするほどの絶望感とともに、心の中でつぶやく。

(私は、あの方をお慕いしている…………)

 それは心のどこかで否定していた感情であった。
 だって、それを認めてしまったら。彼女に対する感情を言語化してしまったなら。

 諦めなくてはならない現実を突きつけられるだけなのだ。

 自分の身分は、はるか東のレンスターの、見習い騎士。
 恋い焦がれた相手が遠く離れすぎていることなど、フィンには嫌というほど理解できる。

 だから朝の厩でわずかな会話を紡ぐだけで良かった。
 小さな聖域の中で、仄かな煌めきに触れるだけでよかった。

 なのに今となっては心は貪欲に彼女を欲している。
 もっと近くにいたい。もっと話したい。もっと笑ってほしい。自分だけに、笑ってほしい。

 激しい鼓動が巡らせる浅ましい感情に、嫌悪感と痛烈な苦痛を覚え、フィンは顔を覆ったまま爪を立てた。
 それが今後永遠に続く痛みであることを理解しながら、彼はひとり、目を閉じることしかできなかった。


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