ナンナ


 ラケシスは、よく晴れた日の朝にターラを発っていった。
 別れ際、うつむくリーフ、大泣きするナンナのふたりを、ラケシスはたっぷり数分も抱きしめていた。

 ナンナの胸元には、リーフから贈られた首飾りが光っている。母とお揃いのそれに、毎日お祈りをすると、ナンナは何度もラケシスに誓った。それでも耐え切れずに、泣き出してしまったのだ。

 無理もないことである。彼女にとって、ラケシスはたったひとりの肉親なのだ。

 フィンは別れを惜しむ者たちから、すこし離れたところに立っていた。ラケシスが馬に乗ったとき、わずかに視線があった。
 ラケシスは一度だけ微笑むと、顔を進行方向に向けた。彼女らしい、毅然とした別れ方だった。

 ラケシスを乗せた馬は、あっという間に地平線の先へと消えていった。ナンナはリーフと手を繋ぎながら、姿が見えなくなっても、ずっと手を振っていた。


 夜になり、リーフを寝かしつけると、フィンは控えの間に戻った。伯爵に願い出て、そこはフィンの自室のようになっていた。――といっても、室内に彼らしさを表現するものはなにもない。ただ片隅に、簡素なベッドが一台置いてあるだけだ。

 今日は特にやることもない。手早く着替えたフィンは、ベッドに腰掛け、燭台をとって灯を吹き消した。ふっと部屋が闇に沈み、月明かりが窓枠の形を床に描き出す。

 燭台を置くと、ふと手が止まった。
 フィンは床に視線を這わせたまま、そっと自身の唇に指で触れた。

 ――もし、わたしがイザークから帰ってきたとき、同じことを言ってくれたら――。

 いいのだろうか。あの人を想うことは、許されるのだろうか。
 今までそれは、弱さの極みだと思っていた。心が揺れていては、本当に大切なものを守れない。今の自分の使命は、リーフを守ることなのだ。

 わからない。心の中に問うても、闇が返ってくるだけだ。

「キュアン様…………」

 つぶやいて、かぶりを振った。ブーツを脱いでベッドに入り、壁に向かって横になる。
 浮かんでくる様々な思いの中で、ようやくうつらうつらとし始めたとき、小さく扉がノックされた。

 こんな時間にだれだろう。怪訝に思いながら扉を開けると、だれもいなかった。――いや。
 視線を下ろしてみると、枕を抱きしめた寝巻き姿のナンナが、涙目でこちらを見上げていた。

「どうした」
「…………」

 ナンナはしゃくりあげながら、目尻をこすっている。しばらく待っていると、ようやくわけを話しだした。

「怖い夢を、見ました。母さまが、死んじゃう夢……」

 どきりとしてナンナを見下ろす。ナンナは、フィンの足にひしと抱きついてきた。

「わたし、怖くて、怖くて。だから、その。一緒に寝ても、いいですか……?」

 言葉遣いこそ大人びたものの、彼女は見た目も中身も、ようやく7歳になったばかりの甘えたがりの少女だった。しかも、いままでずっとラケシスと同じベッドで寝ていたのだ。寂しくなるのも当然といえた。
 だが、自分でラケシスの代わりが務まるとは到底思えない。リノアンに頼もうにも、彼女の寝室は建屋が異なる。どうやって諭したものだろうか……。

「…………」
「……お願いです」
「…………」
「……ううっ」
「…………」
「……ふぅぇぇ……」
「……わかった」

 折れたのは、フィンのほうだった。
 鼻から息を抜くと、フィンは「入りなさい」と言ってナンナを迎え入れた。ここでぐずられたら、隣の部屋で寝ているリーフを起こしてしまう。

 仕方なくベッドに入って掛布を持ち上げてやると、ナンナは嬉しそうにぴょこんと入ってきた。すぐさま自分の枕を起き、小さな身体をすり寄せてくる。異物感に、全身がやや強張る。
 思えば、人生でだれかと寄り添って寝たことは一度もなかった。どうしていいか、さっぱりわからない。このまま朝までいろというのは、なにか、拷問めいたものであるように感じられた。

 仰臥したまま硬直するフィンの服を、ナンナはくいくいと引っ張った。

「あの、お願いです。ぎゅって、してください」
「…………?」

 これ以上なにかさせる気か、とナンナを凝視する。きっといまのフィンの顔を見ればナンナは泣き出しただろうが、残念なのか幸いなのか、室内は暗くて互いの表情すら見えなかった。ナンナは遠慮なく抱きついてくる。

「母さまは、よくしてくれました。こうやって……ぎゅーって」

 なぜ母のしてくれたことを自分に求めるのか。大変に人選を誤っている。
 運命を呪いながら、言われるままに横向きになり、ナンナの背に手を回す。すると、ようやく落ち着いたのか、ナンナはほっと息を漏らした。

「……怖かった……わたし、母さまにも兄さまにも会えずに、ひとりぼっちになっちゃうと思って……」

 ナンナが身動ぎをすると、ちゃりちゃりと金属音が鳴る。手の中に、例の首飾りを握りしめているのだ。

「なんどお祈りしても、届かない気がして……怖かった……」

 胸に顔をこすりつけられる。鼻をすするナンナの身体からは、じんわりとした熱が伝わってきた。

「あったかい……」

 次第に温かさがなじんでくるのは、不思議な感覚だった。いくらか時間がたつと、ようやくフィンも幾分か力を抜くことができた。
 ナンナは夢見がちにつぶやいた。

「母さまは、いつ帰ってきますか……?」
「……何度も言ったはずだ。一年程度になる」

 ラケシスは、シャナンたちと別れるときに、潜伏先の当てをいくつか聞き出していた。まずはそちらを周り、シャナンとの接触を試みるといっていた。
 そして、もし見つからなかった場合、一年を区切りとして戻ってくると。

 いまごろ彼女は、オアシスで夜の砂漠を眺めているのだろうか。

「いちねん……長いです」
「我慢しなければいけない。辛い旅をしているのは、ラケシス様自身だ」
「はい……。リーフさまも、父さまも、待っているんですものね」
「ナンナ」
「――あっ」

 ぴくりとナンナは身をこわばらせた。ナンナはこれまで、何度もフィンを父と呼んではたしなめられていた。最近は減っていたが、――心の中では、ずっとそう呼びつづけていたのだろうか。

「あ、あの……」

 意を決したように、ナンナは言った。

「わたし、やっぱり……父さまが、ほしいです。だって、もし母さまが帰ってこなかったら……わたし……」

 声に涙色が交じる。闇の中に吐露された痛みを、フィンはじっと見据えた。

「だから、あの……父さま、って……呼んでも、いいですか……?」

 ラケシスの涙が、脳裏によぎる。
 いままで、その深さに思いを馳せたことはあったろうか。他人の想いを、本気で考えたことがあったろうか。
 自分はもしかしたら、己の痛みから目を背けるばかりに、人の痛みに鈍感すぎたのかもしれない。

 以前の自分であれば、即座に断っていただろう。それが、どれほど他人を傷つけるかも知らずに。

 しかし、いまは。不思議なほど簡単に、答えがでた。

「――構わない」

 ナンナの息を呑む気配。気まずいような居心地の悪さを感じたのも、一瞬のこと。

「うれしい……」

 つぶやいて、ナンナはもう一度フィンの胸に顔を押しつけた。

「うれしいです……父さま、父さま……」

 ――ナンナ。
 フィンは声に出さずにつぶやく。

 彼女の名は、あまり貴族らしくない響きだ。ラケシスは、もしかすると、娘に亡国のしがらみを押し付けたくなくて、ありふれた庶民のような名をつけたのかもしれない。
 思えば、ラケシスはナンナを自由に育ててきた。リーフに比べてナンナはこれといって才能がない平凡な娘だったが、だからといってリーフのようになれとは一度も言わなかった。リノアンのような令嬢に育てることにも、あまり関心がなかったように思う。

 それゆえだろうか。ナンナの心は純粋で、時に見る者を不安にさせ、時に和ませる。
 そして、心を覆う殻も、いつのまにか剥ぎ取られてしまう。

「おやすみなさい、父さま……」

 噛みしめるように何度も父さまとつぶやいて、ナンナはフィンの服を握りしめた。泣き疲れていたのだろう。その吐息が眠りに馴染んでいくのは、すぐのことだった。

 今宵は一睡もできないと覚悟していたが、腕の中の小さな寝息を聞いているうちに、フィンもいつのまにか、深い眠りに落ちていった。


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