蜜の味


 ――やられた。

 フィンとラケシス、ふたりの顔に浮かんだ表情を言葉にするなら、これ以上のものはないだろう。
 さっとラケシスからリーフが離れ、フィンからリノアンが手を離す。そして。

「えいっ!」

 後ろからついてきていたナンナが、助走をつけ、全身を使ってフィンに体当たりをかました。
 自失していたフィンは、あえなく前方に突き飛ばされる。あっ、と思ったときにはすでに遅く。

「きゃっ」

 すぐそばで聞こえた小さな悲鳴に、慌てて足を踏ん張ると、腕の中には真紅のドレスを着た娘が収まっていた。
 ふわりと鼻孔を刺激する、甘い香り。いつか厩で感じたそれと、同じもの。

「え、あ」

 頭が真っ白になった。わけがわからないほど狼狽する。なにか言わなければならない。だれに? なにを? 頭は途切れ途切れの思考の断片を振りまくだけだ。
 そうこうしている内に、子供たちは脇の壁のほうに逃げていった。無邪気な――いいや、半分くらい邪悪な笑い声が、別世界のもののように聞こえてくる。

「あんの子供たち……あとで覚えときなさい」

 ようやくラケシスの唸るような声を、耳がとらえた。見下ろすと、至近距離に彼女の顔。普段からきれいだと思っていたが、着飾った姿は吸い込まれそうなほどだった。視線に気づいたラケシスが、はっと目を伏せる。フィンもまた、不自然な方向を向いた。
 ところが、身体を離そうとしたところで、別の貴族たちとぶつかる。謝罪して端に行こうとするが、次の曲がはじまってしまっていた。

「……ああ、もう。しょうがないわ、一曲踊るわよ」
「え、あ、え」
「ちゃんと手を回して。わたしに恥をかかせないでちょうだい」

 怒ったように言われ、微妙な場所をうろついていたフィンの手が無理矢理腰に回される。ラケシスの足がステップを踏み始めると、なしくずしにフィンも踊ることになった。

 重めのバラードの中を、抱き合ったままゆったりと揺れる。易しい曲でよかった、とフィンは取り急ぎ状況に感謝した。ある程度の作法は騎士の嗜みとして心得ているが、難しい動きが入る曲は、キュアンやグレイドならともかく、自分では絶対についていけない。

 ラケシスはフィンの胸に顔を寄せ、伏せ見がちにしている。瞳は、相変わらず憂いに沈んでいた。触れた部分から伝わる感触は、すこしでも力をこめれば砕けてしまいそうだった。
 繊細な花束を抱いているようなのに、その有り様はなぜか哀しい。

 彼女がこんな顔をするようになったのは、いつからだろう。遠い日に厩で語らった彼女は、輝くような笑顔を湛えていたものだった。
 だが、それは自分も同じことだ。あのころは、もっと素直に笑えた気がする。最後に笑ったのはいつだろう。よく、思い出せない。

 夢見た光景に足りないもの。最後の、大切な一欠片。
 それは、ラケシスの笑った顔だった。

 ――ここにいる人たちはみんな、誰かのために戦っているんだよ。

 記憶の果てでそう言っていたのはだれだろう。

 ――誰かを思う気持ちに比べたら、国同士のいさかいなんてどうでもいいもの。
 ――そして、いくらでも強くなれる……。

 そうだ。人を思う気持ちは、論理も、倫理も、平気で打ち壊してしまう。
 こんなにも心を騒がせる、恐ろしく、呪わしく、狂おしい感情。だから、それを胸に抱くことは、罪だと思った。腹の底に秘めたまま、静かに彼女の幸福を祈ることこそが、自分の幸福なのだと信じようとした。

 なのに、結果は残酷だ。

「――私は。私は、あなたから、笑顔を奪ってしまったのでしょうか」

 つぶやくと、ラケシスの長い睫毛がかすかに震えた。

「……そうかもしれないわ」

 答えは儚げで、途方もなく悲しい。
 胸の内が、冷たくなっていく。諦念が、全身を支配していく。
 正しい選択をしてきたつもりだった。散っていったものたちに恥じぬ生き方をしてきたつもりだった。
 なのに、どうしてこうなってしまったのだろう。

 時は進んでいく。抗えない運命の流れは、いつだって全身に押し寄せてくる。だれも待ってはくれない。自分の足で、進んでいかねばならない。
 それが真理だとはじめからわかっているのに。どうしてこうも、失ってしまうのだろう。

「……でも、きっと。あなたから笑顔を奪ったひとりは、まちがいなく、わたし」

 背に回された細腕に、力がこめられた。

「わたしたちはお互いに傷つけあっているの。――ひどい仲ね」

 歪むように微笑むその顔を、幸福にさせたい。笑っていてほしい。たったそれだけでいい。
 それは彼女が兄を失ったときからの願いだった。
 ただ、願いを口にするには、自分の手足は枷だらけだった。
 自分にラケシスを幸福にすることはできない。去っていった者たちのあの目が。自分を捕まえて離さない。

 けれども。
 キュアン様。

 あまりにむごいではありませんか。

 好きなひとに、好きだと言うこともできないなんて。
 好きなひとを、笑わせてあげることもできないなんて。

「ラケシス様」

 心が、ちぎれてしまいそうだった。

 未来の夢に、たったひとつの幸福を描くことも許されないのかと。

「行かないでください」

 ――ふいに。
 肩に触れていたラケシスの手に、力が入った。

 我に返った途端、フィンはすぐに言葉を取り消そうとした。
 ひどいことを言った。彼女の覚悟を踏みにじった。そんなことは、あってはならないのに。こんな調子では、また頬を叩かれる。

 ラケシスの瞳が、一度だけ瞬いた。
 フィンの首に細い指がかかる。と、同時に、美しい金の河と甘い香りが近づいて。
 否定しようとした唇を、塞がれた。

 時が停止した。流れていた音楽が聞こえなくなり、視界は黒く溶け、思考は砕け散った。

「――」

 きっと、ものの数秒のことだったのだろう。周囲ではだれひとり、気にしている者はいない。
 立ち止まった足が、ラケシスにつられて、また動き出す。

「――ふふっ」

 顔を離したラケシスが、笑い声を漏らした。
 目から宝石のような涙が散っている。頬を上気させてなお、彼女の顔は可憐で美しい。
 呼吸の仕方を忘れたまま、涙と微笑みに見入る。
 なぜだろう。泣いているというのに、その笑顔はここ数年で見た一番のもので。

「わたし、いまなら、あのひとの気持ちがわかるわ」

 フィンの服をくしゃりと握りしめ、ラケシスは、涙を湛えた瞳で微笑んだ。

「――その言葉だけで、わたしには十分」

 微笑みは、次第に歪んでいく。フィンの胸元に額をあてて、ラケシスはしばらく口を閉ざした。
 ゆったりとした音楽の中を、ふたりで揺れる。
 静かな時間だった。厩にいたときを思い出す、優しく、悲しい時間だった。

「……ね、フィン」
「はい」

 寄り添うラケシスが、小さく囁く。

「もし、わたしがイザークから帰ってきたとき、同じことを言ってくれたら――」

 言葉は最後まで続かなかった。音楽が終わり、拍手が囁きをかき消してしまう。
 雪のように儚く溶けたその先を、ラケシスはなんと言うつもりだったのだろう。

 見上げるラケシスと、フィンは視線を通わせた。濡れたハシバミ色の瞳には、無言の叫びがあった。
 だが、それも束の間。ラケシスは静かに目を伏せ、そっとフィンから身体を離した。



 ――さて、一方、壁際では。

「リーフ様、どうなってるんですか?」
「わかんないよ。二人とも奥のほうに行っちゃうんだから……ああ、もう。フィンの頭しか見えない」
「わたしも見たいですっ。リーフさま、そこ代わってください!」
「こ、こら! ナンナ、せまいっ。服を引っ張るなってば!」

 柱の台座に上って背伸びをするリーフと、無理矢理リーフにしがみつきながら台座にあがろうとするナンナ。彼らのいる位置からは、二人の姿が合間合間にしか見えないのだ。
 ふとアスベルがみると、リノアンが真っ赤に染まった顔を両手で覆っていた。

「どうかしたんですか、リノアン様」
「み、見てしまいました……」
「はい? なにをです?」
「…………」

 いまにも湯気を立てそうなリノアンに、アスベルは首をかしげるばかりであった。


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