それはまだ、恋には遠く


「あの、フィンさま……」

 夕日影に照らされておずおずと見上げてきたのは、ターラ公爵令嬢リノアンであった。
 舞踏会用の淡いピンクのドレスに身を包む姿は、幼くも凛としており、ターラに咲く花と賞賛されるにふさわしい美しさだ。

「リノアン様。舞踏会に行かれたと聞きましたが……」

 嫌な予感を覚えながらフィンが問うと、リノアンはかすかにうつむいた。

「はい、それが、手違いがあったようで、エスコートの騎士がまだ来ないのです。このままでは舞踏会に遅れてしまいます。フィンさま、どうか、代わりの騎士役をお願いできませんでしょうか」

 そう言って、ちらりと上目遣いでこちらを伺ってくる。だがまあ、不自然さはない。若干棒読みなのが気になるが。

「……騎士役でしたら、屋敷内の衛兵でもよろしいのではないですか?」

 問うと、リノアンは「それが……」と言って廊下のほうに目配せした。
 すると微妙な間を置いてから、ナンナが現れた。ナンナは異様に緊張した様子で、恐る恐る口を開いた。

「あ、あのっ、その……。……ええっと、なんだっけ……?」

 助けを乞うようにリノアンを見るナンナ。
 リノアンの顔が強張り、なにか目線でやりとりをはじめる。続いて後ろから小走りに現れたアスベルが、ナンナに何事か耳打ちをした。ナンナが「あ、そっか!」と言うと、青い顔で逃げていく。

「あの、わたし、どうしても舞踏会に行きたいんですっ。リノアン姉さまが行くって言うから、わたしも行くんです。行けなきゃ、死んじゃいます! お願い、連れてって!」
「そうなんです。ナンナが、どうしてもというのです。しかし、ラケシス様がいらっしゃらないので、代わりにフィン様に連れていっていただきたいのです。わたしからも、お願いします」

 リノアンがナンナを庇うように立ち、早口で援護する。廊下の影では、アスベルがあわあわしているのが丸見えだった。

「…………」

 先ほどのターラ公爵のしたり顔が、脳裏に過ぎっていく。

「あ、あの、フィンさま」
「――わかりました」

 ため息をついたフィンは、子供たちの茶番に付き合ってやることにした。どちらにせよリーフがいるのなら、舞踏会に行かなければならない。

「支度をしてまいります。ナンナも、着替えてきなさい」
「やった! 成功――ふむっ」

 素早くリノアンがナンナの口を塞ぎ、「では半刻後に」とにこやかに下がっていく。次期市長か次期市長の妻になる彼女は、幼いながらに中々強かなようだった。



 このようにフィンの説得という難事を仲間に押しつけたリーフであったが、彼は彼で、大変だった。

「まあ、きれいね。これをわたしに?」

 舞踏会の前日、リーフは買っておいたルビーの首飾りをラケシスに渡した。ラケシスの出発の日まであと数日。この日を逃せば、チャンスは二度となかった。

「うん。イザークに行くラケシスを守ってくださいって、お願いをかけたんだ」
「そう……ありがとう。とてもうれしいわ」
「うん。……それでね」

 周囲に人がいないことを確認してから、リーフはまごつきつつ、そっと囁いた。

「その首飾りをつけて、きれいなドレスを着てるラケシスが一度だけでいいから見たいんだ。ね、みんなには内緒で、明日、一緒に舞踏会に来てくれない?」

 リーフ少年、生まれて始めてのデートの誘いである。計画の内とはいえ、さすがに緊張するセリフだった。
 するとラケシスは、顔を赤らめてもじもじするリーフを微笑ましく思ったらしい。いたずらっぽく笑って首をかしげた。

「もう。その歳で女を口説いていたら、あなたが大人になるころにはだれかに刺される羽目になるわよ?」
「えっ……?」
「ふふ、いいわよ。じゃあ、ふたりでこっそり行きましょう」
「ほんと!? やった!」

 計画の第一段階を完了させたリーフは、翌日、細心の注意を払って部屋を抜けだした。フィンの監視が緩んでいたことも幸いして、見つかることはなかった。
 ――三階の窓からロープを垂らして逃げたなど、フィンが聞けば卒倒するだろうが。

 約束の場所でラケシスと落ち合ったリーフは、我を忘れて立ちつくした。

「うふふ、リーフ様。ひとつ、減点ね。男が女を待たせてはいけないのよ」

 そう笑うラケシスの着飾った様は、至高の玉石と呼ぶにふさわしかった。
 身にまとう真紅のドレスは花のように広がり、白い肌との対比が鮮やかだ。豊かな金髪は鮮やかに結い上げられ、うなじにかかる後れ毛に自然と目がいってしまう。紅を引いた唇は普段以上の色気を漂わせ、頬はまるで花びらを浮かべたよう。首からはリーフが贈った首飾りが上品に輝き、耳元では同じ色のピアスが揺れていた。

「……すごい、ラケシス。バラのお姫さまみたいだ」
「よろしい。会ったらすぐに相手を褒めるのは、大事なことよ」
「うん……でも、ほんとにきれいだよ。首飾りも、すごく似合ってる」
「まあ、お上手ね」

 ラケシスは冗談めかして言うと、リーフの頭を撫でた。ふわりと甘い香りが鼻をかすめ、リーフは首から頭のてっぺんまで真っ赤になってしまった。

「さ、王子さま。エスコートしてくださいます?」
「――は、はい」

 カクカクとうなずいて、リーフは行儀作法の師から教わったとおりにラケシスの手をとり、口づけをしてから、馬車のほうに引いていった。


 始めて足を踏み入れる舞踏会は、まるで異世界のようだった。
 巨大なホールの壁から霞むほどの天井までが、壮麗な絵画や彫刻で飾られている。いたるところに花飾りが垂れ、これもまた見事な風情だ。
 感嘆の息を漏らしながら視線を戻せば、色とりどりの服を着た貴族たちがたむろい、中央で踊っている。壁側では豪華絢爛を極める料理が並び、反対側では、数十名にも及ぶ楽団が流麗な音を奏でていた。

「はぁ――すごいね、ラケシス。こんなに人がいるなんて」
「そう? まあまあってくらいかしら。ほら、きょろきょろしないで。胸を張るのよ」
「うん。でも、ラケシスがいちばんきれいだよ」
「……いやだわ。この子、段々父親に似てきたんじゃないのかしら」
「ん?」
「なんでもないのよ。行きましょう」

 ラケシスにはごまかされてしまったが、リーフは本気でラケシスが一番きれいだと思っていた。確かに着飾った貴族たちは美しかったが、香り立つような艶やかさを放っているのは、ラケシスだけのように感じられたのだ。

 実際に、ラケシスとすれ違う者たちはみな振り向いていた。どこの貴族の令嬢だろう。だれかがそう囁く。しかもエスコート役が8歳の少年なのだから、好奇の目を誘わないはずがない。
 しかし、リーフは生来の物怖じしない性格だった。ラケシスの手をとって、中央に進み出る。

「踊ろう、ラケシス」
「ふふ、ちゃんとリードしてね」

 曲が変わったところを見計らって、踊りの輪に入る。
 踊っている最中は、夢のような時間だった。ラケシスはリーフの母代わりだったが、憧れの人でもあった。
 いまだ恋とは呼べない未熟な気持ちを抱いたまま、音楽の中にたゆたう。

 しかしリーフがつと目をあげると、ラケシスはどこか悲しそうな顔をしていた。

(大丈夫だよ、ラケシス)

 リーフは理由のわからない痛みを覚えつつ、目でラケシスを励ました。

(きっとフィンが来るから。フィンだって、こんなラケシスを見たら、きっと……)

「……リーフ様。ずいぶん外れに来ちゃってるわ。中に戻りましょう」
「うん、でももうちょっと……」

 リーフはさりげなく自分の位置を確認する。玄関に近い会場のはずれに、彼はわざと移動していたのだ。
 彼らも、もうすぐ来るはずだ。彼らなら、きっとやってくれるはずだ――。

 そのとき、新たな来訪者を告げる鐘の音がした。数名の貴族たちが、ぞろぞろと入ってくる。
 そこにリノアンの手を引く青髪の騎士の姿を見て、リーフはニッと笑みを浮かべた。


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