夕闇に立つ騎士


 それから数日後のことである。

「あれっ、あれ、セリフの紙がなくなっちゃった」
「ナンナ。右のポケットは調べてみた?」
「あっ、ありました! よかったー……」
「ほんとに大丈夫? 本番で間違わないでよ」
「へ、平気です! ちゃんとひとりでできますっ」
「……アスベル、やっぱ心配だからついてってあげて」
「ちゃんとできますから!」
「でも、これ、成功するんでしょうか……ぼくもあまり自信がないです」
「必ずうまくいく。みんなの力で成功させるんだ」

 リノアン、ナンナ、アスベルの顔をひとりずつ確認しながら、リーフは重々しくうなずいた。

「いいか、これは戦いだ。僕を信じて行動してほしい。みんな、よろしくたのむよ」

 ターラ公爵直伝の指揮力を遺憾なく発揮するリーフに、一同はうなずいて返し、それぞれの位置に散っていった。


 今日は、月に一度の舞踏会の日である。
 ターラ公爵が主催するこの晴れやかな舞台に、フィンとラケシスは何度か招かれたものの、二人して丁重に断っていた。
 前者の理由はいわずもがな。後者の理由は、いまはそんな気分になれないというものだった。ターラ公爵もまた、無理を押して二人を誘うような人柄ではなかった。

 夕日がターラの街を紅に染める頃になると、ターラ公爵邸からすこし離れた会場に、次々と馬車が訪れる。絢爛豪華な馬車が石畳を進む音の賑やかさは、自由の都市ターラの風物詩ともいえた。

「いまから行っても良いのですぞ。特に今日は、とりわけ美しい娘がきているらしい」

 フィンが振り向くと、通りがかったらしきターラ公爵の皮肉げな笑みがあった。窓の外をぼんやりと眺めていたから、馬車の行く手が気になっていると思われたらしかった。

「……いえ、お気遣いだけありがたくいただきます。公爵こそ、行かれなくてよろしいのですか」
「祭りの主はもったいぶって最後に登場するものだ。代わりに娘を先に行かせておる。ところで、リーフはどうした」
「お部屋で休んでいらっしゃいます」

 ふむ、と意味ありげに目を細めたターラ公爵は、唇の端をゆがめた。

「珍しいな。貴公はリーフが部屋にいるときは、かならず控えの間にいると思ったが」
「…………すぐに戻ります」

 フィンは逃げるように視線を外す。あの日から、リーフとはほとんど会話らしい会話をしていなかった。
 公爵は低い独特の笑い声を漏らしながら、窓に備えつけられたソファに腰をおろした。

「良い良い。たまにはさぼれ。貴公の仕事ぶりは、見ていて時折、息苦しくなる」

 心にさざなみを立てる指摘。レースのカーテンから、橙色の斜光が自らの身体を染めている。

「息苦しい……のでしょうか。私は、ただ」
「亡国の再興を夢見て日々努力を重ね、主君に尽くしているのだろう。騎士としては理想的な人間だ、貴公は。だからこそ、リーフを託されたともいえる」

 ターラ公爵の声音には、言葉とは裏腹に、賞賛の響きが一切ない。続く声は、やはり刃の形をしていた。

「同時に、貴公は面白みのない人間だ。感情を排し、心を失い、苦痛を呑みこむことが美徳と考えている。ゆえにリーフもおまえに反発しているのだろう。自分の保護者が心を失った人形では、かなわんからな」

 じわりと胸を傷つけられる。しかし、とフィンは窓の外に視線をやったまま心の中で反論する。

 それ以外に、やりようがなかった。
 心を抱えたままでは、生きてなどいけなかった。

 目蓋の裏には、これまでに死んでいった者たちがフィンを見つめている。
 覚悟を決めた静謐な光。希望を受け渡した者特有の、満足気な微笑み。期待。切望。懇願。それらが、いつもフィンの有り様を八方から監視している。

 だから、背筋を伸ばして向き合うしかない。
 大切な人の祈りを、守るために。

「なあ、前から気になっていたのだが――貴公に、夢はないのか」

 つと胸を押された気がして、フィンは振り向き、答えた。

「あります。リーフ様とともに祖国を取り戻し――」
「ああ、却下却下! それはおまえの使命であって、夢ではないだろう」
「同じ……ではありませんか?」
「違う。まったくもって違う」

 手を振ったターラ公爵は、ソファーごしにフィンを見やった。橙色に染まった瞳が、深みを増す。

「貴公が見る夢。貴公が目指す未来。――そこには、誰がいる?」

 一瞬、息が詰まった。

 反射的に脳裏に弾けた光景は、キュアンとエスリンのいるレンスター城だった。
 穏やかで、優しく、希望に包まれていた空間……。

「もしもいま、貴公の思い浮かべているものが過去の光景であれば、貴公の心はいつか本当に死ぬだろう」

 はっとして、フィンは頬を歪めた。ターラ公爵は微笑んで続ける。

「ちょうど貴公はいま、夕闇に立っている。どちらに進むかは貴公次第だろうが……考えてみい。貴公の進む先で、共に笑っていてほしい人の顔を」
「…………」

 言われるままに、改めて、取り返したレンスター城の想像を思い起こしてみる。
 立派に成長し、王冠を戴いたリーフ。美しい女性となったナンナが、ドレスを着て踊っている。弾けるような笑顔。細い足が動くたびに豊かに舞う、あのひとと同じ色の金髪。
 ドリアス、グレイド、セルフィナ――。生きているだろうか。彼らも、いてくれたらいい。笑っていてくれたらいい。
 新しく編成された騎士団。見事な物の具をつけた騎士たち。彼らは皆、誇りを胸にリーフを見上げている。そして、若き王と騎士団を、歓呼をあげながら迎えるレンスターの民――。

 夢のような光景だった。
 なのに、おかしい。
 なにかが足りない。

 それらの情景が現実になって尚、心は満ち足りないだろうという確信がある。

「――」

 夕日に焼かれながら、拳を握りしめる。
 ――足りないものの正体など、わかりきっていた。

「そうそう、貴公に言い忘れていたが」

 思索にふけっていたフィンに、ターラ公爵は立ち上がりつつ、昨日の晩飯のことでも言うかのように告げた。

「リーフは部屋にはおらんぞ。舞踏会に行った」

 …………。

「――!? ぶ、舞踏会に!?」
「ああ。貴公には内密にして行くゆえよろしく、と言われている。む? そういえば、内密と言っていたか。悪い、忘れてくれ、わっはっは!」

 忘れろ、で素直に忘れられる情報ではない。すぐに支度しなければならなかった。

「し、失礼します」
「待て」

 早足で去ろうとしたフィンの肩を、ターラ公爵は掴んで止めた。
 そのまま顔を寄せ、低く囁く。

「おそらくすぐに、貴公に尋ね人が来るだろう。――笑わず付き合ってやれ、あれでやつらも貴公を思って懸命なのだ」
「……?」

 疑問符を返すフィンの肩を激励するように叩くと、ターラ公爵はスタスタと歩み去っていった。
 その後姿を呆然と見送り、――我に返って、慌ててフィンも自室に戻ろうとする。

 そのとき、愛らしい声がかけられた。

「あの、フィンさま……」


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