槍と剣と少年と、彼の甘え


 聖戦士の聖痕は、わずかな例外を除いて直系の長子にのみ現れる。
 キュアンの第二子であるリーフに聖痕が現れなかったのは当然といえば当然であったが、アルテナを失ったレンスターの家臣の中には、この事実にため息をつく者も多かった。もしリーフに聖痕があれば、いつかトラキアからゲイボルグを取り戻して戦うことができたものを、と。

 幼い頃のリーフは、そのような現実など知らずに伸び伸びと生きていた。もしかすると、自分もいつかゲイボルグを持って戦えると信じていたのかもしれない。

 だが、勉学を進めていく内に、ついにターラ公爵から真実を聞いてしまったのだ。どれほど努力しても、自分に聖戦士の武器を扱うことはできない、と。

「で、どうしたの?」
「公爵にお願いして、剣の師をつけてもらった。いまはそちらに入れこんでいらっしゃる」
「ふーん……」

 情けないと思いながらも、悩みを打ち明けた先はラケシスだった。
 この一年、彼女は公爵家のテラスで、ぼんやりとしていることが多かった。時折リノアンやナンナの相手をしているが、あまり楽しそうではなかった。今も眼差しはどことなく憂いを帯びている。

「気持ちはわかるわ。あの子は、ゲイボルグを持って戦うキュアン王子の勇ましさを寝物語に聞いて育ったんだもの。他ならぬ、あなたの口からね」
「……私のやり方が、間違っていたんでしょうか」
「いつかはこうなってたわよ。武芸を嫌がっているわけじゃないんだから、まずは好きにやらせておいたら?」
「しかし……レンスターの王となるお方が槍を使えないというのは……」

 夜風を受けながら、フィンは目をそばめた。リーフを立派な槍騎士にできなくては、亡きキュアンに申し訳が立たない。
 返事がないことに気づいたのは、随分な時間が経ってからだった。
 フィンが顔を向けると、ラケシスは思案にふけるように、じっと膝元に眼差しを注いでいた。

「あの、ラケシス様……?」

 呼びかけると、目線だけがこちらに向けられる。歪むような笑みを湛えた瞳に、フィンはどきりとした。

「あなたはいいわね。辛くなったらわたしを頼って、そうでないときは放っておけばいいんだもの」
「っ!」

 息がかすれ、思考が凍りついた。心地よい関係に、一歩踏みこまれるざらついた感触。
 双方の間に、張り詰めた沈黙が落ちる。言葉を探そうとしても、喉に刃を突きつけられたように声がでなかった。

「ごめんなさい」

 ラケシスの身体がわずかに傾ぐ。備えつけられたテーブルに腕をもたれさせ、ラケシスは髪で表情を隠し、つぶやいた。

「……でも、すこし、疲れちゃった」

 消え入りそうな囁き声で、ラケシスは続ける。

「報われないことは、はじめからわかっていたつもりなのにね。わかっていて、あなたについてきたのにね。……ふふ。いやだわ、わたし。なにを言ってるのかしら」

 この一年、――いいや。もっと前から、ラケシスの眼差しの意味には気づいていた。
 だが、あえて無視した。ターラ公爵の屋敷の中でも。フィンはさりげなく、自分でも無意識に、彼女の視線を避け続けていた。
 それがどれほどに彼女の心を傷つけていたか、――幾分か、想像はしていた。
 ただ、想像するだけなら、だれにでもできることだった。

「…………申し訳ありません」

 口をついて出た謝罪に、ラケシスの肩が動いた。彼女は立ち上がると、フィンの胸ぐらを掴み、思いきり頬をはたいた。

「なに、それ。なんで謝るのよ――謝らないでよっ!!」

 熱さと痺れと、遅れてやってくる痛み。フィンが見上げた先で、ラケシスは目に溜まった涙を流すまいと、指で拭っていた。

「そんな言葉が聞きたくて言ったんじゃないの。わたしをだれだと思っているの? あなたから哀れみを受ける筋合いなんてないわ……!」

 夜闇にランプの明かりで照らされたラケシスの輪郭は、精霊のように美しかった。傷ついた自分を労ってくれた指が、いまは涙に濡れている。誇り高く、屈することを知らず、それでいて繊細な心を踏みにじったのは、自分自身だ。それを、今さらながらに悟る。

 ラケシスは自らを抱くようにして、そっとソファに掛けた。泣き疲れた彼女には体重すらないのか、ソファは軋む音すら立てなかった。

「…………わたし、イザークに、もうひとり子供がいるの」

 とつとつと、ラケシスはデルムッドをシャナンとオイフェに託した経緯を話した。フィンは、黙って聞くしかなかった。

「エスニャ様にお願いして調べていただいたときには、居場所どころか、生死もわからなかったわ。でも、公爵から聞いたのよ。イザークの辺境で、シャナン王子が反乱を計画しているって……」

 シャナンが生きている。それは、シグルドの息子であるセリスも生きているということに他ならなかった。そして、ラケシスのもうひとりの子供も。

「わたしは、あの子を産んだことを一度は後悔した、ひどい母親だけど……でも、生きているなら、ちゃんと守ってあげたいの」
「まさか……イザークに行かれるおつもりですか」

 呆然とフィンが問うと、ラケシスはうつむいて、悲しい笑い声を漏らした。

「ちょうどいいでしょ。しばらくあなたから離れられて。いまあなたと一緒にいても、辛いだけだもの……。一人旅でもして、頭を冷やしてくるわ」

 なにかを言わなければならないと思った。いや、言わなければならない言葉は、わかっている。なのに、唇は虚しく宙を食む。

「平気よ。ターラは平穏な都市だし、リーフ王子もナンナもしばらくは安全でしょう。イザークに行って、あの子を……デルムッドを、反乱に巻きこまれる前に連れ帰ってくるわ。あの子は、まだ子供だから」

 ――行っては駄目だ。

 その一言が、でてこなかった。言えば、己の使命を裏切ると同時に、彼女の心をまた傷つけることになる。

「突然で、ごめんなさい。でも、わたし、もう決めたの。明日、公爵にお話するわ」

 彼女が立ち上がると、豊かな金髪が鮮やかに舞って目に焼きつく。自身の腕を抱きしめながら、ラケシスは、フィンに背を向けた。
 彼女はそれがフィンの心を抉る言葉だと気づいていただろうか。仕返しのつもりだったろうか。わからなかった。ただ、言葉だけが紡がれた。


「だから、さよなら」


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