ターラ公爵


 司祭の紹介状に目を通したターラ公爵は、驚くどころか、フィンたちの祖国について一言も触れなかった。唯一、彼が興味を示したのは、先ほどリーフと貴族が揉めた理由だった。

 問われるままにリーフが経緯を話すと、公爵はうなずいて問うた。

「なぜ頬を張られたのだと思う?」

 意図のわからない質問に、リーフ以外の面々は視線を交わしあう。リーフだけが、明瞭に答えた。

「ぼくの質問に答えられなかったからだと思う」

 礼を逸した言葉遣いを気にもとめず、ターラ公爵は質問を続けた。

「頬を張られて、大人に怒鳴られて、怖いと思わなかったのか」
「全然。フリージの兵隊に襲われたときのほうが、ずっと怖かった。いちばん怖いのは、フィンに怒られるときだけど」
「あのとき、おまえはあの場をどう収めようとしていた?」
「おさめる?」
「あのバカな貴族たちを、どうこらしめようと思ったのか訊いたのだ」

 リーフは一旦床に目を落として考え、顔をあげた。

「……わからなかったから、考えてた。でも、こらしめるっていうのは、なんか違う。ぼくは、ぼくの言いたいことをわかってもらいたかった。――ただ」
「ただ?」

 ターラ公爵が口の端をあげながら問う。リーフは答えた。

「あの子、ナンナのこともぶとうとしてた。もしナンナやアスベルをぶたれたりしたら、ぼくはぜったいにあいつらを許さない」

 悠然とソファに掛けていたターラ公爵の肩が、震えた。

「……く、ふふふ。ははは! よろしい、合格だ。きみたちを我が庇護の元に加えよう。ようこそ自由の都市ターラへ、レンスターのリーフ王子」

 はじめてリーフの正体を知ったアスベルが、目を見開く。フィンとラケシスも、どう反応していいかわからなかった。
 ターラ公爵は面白くて仕方ないといわんばかりに相好を崩し、眼を眇めた。

「騎士フィン殿にラケシス殿。よくこの子を連れてきてくれた。この子になにか特別な教育を?」
「……いいえ。追っ手から逃げるのに精一杯で、ようやく文字の扱いだけを」
「よろしい。むしろ歓迎すべき話だ。この少年、――王の器だぞ」

 物怖じしない態度。毅然とした気構え。思慮深さ。なにより、大切なものを守る意思の強さ。
 ターラ公爵はこのとき、この少年ならトラキア半島の新しき王になれるかもしれないと予感していた。
 ただ、相手はまだ7歳の子供だ。過度の期待や賞賛は、成長の妨げになると考え、彼はそれ以上のことを口にはしなかった。
 代わりに公爵は、目を光らせてこう申し出たのであった。

「この子の教育を、私に任せてくれるかね。――我が手で、後の君主として仕込んでみたい」

 ターラ公爵の勧めは、フィンにとって願ってもみないことだった。公爵は、ターラで20年にもわたって市長を務めた貴族の中の貴族だ。若干癖のある性格をしているが、教育者の身分としては、申し分ない。なによりリーフを気に入っていることは確かだった。

「わかりました。どうかよろしくお願いいたします」

 こうして、ターラの生活が始まった。フィンにとっては、久しぶりの貴族としての暮らしのはじまりだった。



 ターラ公爵は、執務以外のほとんどの時間を費やして、まずは地理学と歴史学からリーフに教えこんだ。
 はじめはナンナも隣で一緒に聞いていたが、話が難解になるにつれ、彼女にはまったくついていけなくなってしまった。代わりにナンナの目を引いたのは、公爵の娘リノアンの存在であった。

「はじめまして、ナンナ。今日から一緒のおうちで暮らすのね。仲良くしましょう」

 二歳上のリノアンの、貴族らしい、しとやかできらびやかな仕草や佇まいに、ナンナはすっかり魅せられてしまった。

「ぜったいに、リノアン姉さまみたいになる!」

 そう決意したナンナは、リノアンとともに行儀作法や淑女の嗜みを学ぶようになった。いつでもリノアンの後をついてまわるナンナを、彼女は妹のように可愛がってくれた。

 一方、アスベルは、貴族の従者として教育されることになった。ターラについてから程なくして司祭の死を知った彼は、長いこと落ちこんでいたが、リーフの励ましで元気を取り戻した。彼の正体を知ったアスベルは、いつか一緒にレンスターを取り戻すのだと息巻いている。

 あっという間に一年が経った。木を隠すなら森の中とはよくいったもので、人の出入りの激しいターラは、フィンたちの存在を自然に覆い隠してくれた。
 また、フィンにとっては、ラケシスに貴族らしい生活をしてもらえるのも安心できた。美しい彼女には、流浪の旅など似合わない。人の多い公爵家では、自然と顔をあわせる機会も減っていった。それは、フィンが自分から彼女に会いにいかないからでもあったが――。
 その行動がどのような結果をもたらすのか。リーフの警護で頭が一杯だったフィンには、考えられるはずもなかった。



 今日も、ターラ公爵の執務室では、中央に大陸の地図が広げられ、リーフと公爵が議論を交わし合っている。

「レンスターは、なぜグランベルのヴェルダン、アグストリア遠征に参加を?」
「カルフ王が大国グランベルとの協調路線をとったからだ。おまえの父、キュアン王子はグランベルの仕官学校に留学し、当時のグランベルの名家シアルフィの娘を妻に娶った。戦においても、当時の両国は互いに共闘する仲であったのだ」
「…………」
「気になることがあるなら、遠慮なく言ってみろ」
「地図をみると、グランベルに比べてレンスターはこんなに小さい。一緒に戦うっていっても、……フィンと僕くらいの力の差がありそうだ」

 ターラ公爵は満足気にうなずいた。

「それが戦乱の時代を生きるということだ。レンスターの立場は、実際に弱かった。半島内での戦ではグランベルの支援で連勝できたものの――さきほど言った遠征では、レンスターの主力部隊が、何年にも渡って辺境を転戦させられることとなった」
「父上は、その点についてどう考えていたんだろう」
「キュアン王子は遠征軍の総大将、シアルフィ家のシグルド公子と親友の関係であったという。公子のためなら協力を惜しまないと、彼は様々なところで口にしていたそうだ」

 ぞわりと、リーフの背筋に寒気が走った。公爵に教えられたことが、光り輝く祖国の印象に、大きな闇を投げかけたのだ。
 言ってはいけない。本能がそう叫んでいる。だが、リーフは口にせずにはいられなかった。

「……それって、おかしいよね。だって、父上はレンスターの騎士たちを連れていたんだよね。レンスターを、国を背負っていたんだよね」
「そうだ。情と政治とは、分けて考えねばならない」

 突き放すようなターラ公爵の言葉に、リーフは自分が深い奈落の底に落ちていく錯覚を覚えた。

「じゃあ、父上は…………!」

「――失礼します」


 戸をノックして入室したフィンは、ただならぬ気配に立ち止まった。ターラ公爵と地図を挟んで向き合ったリーフが、こちらを見て、さっと目を逸らした。

「リーフ様をお迎えにあがりました」
「ああ……もうそんな時間か。リーフ、続きはまた明日だ。今日の話に関連する書物を、部屋に届けさせておく。興味があれば、読んでおけ」
「……はい、公爵。ありがとうございました」

 リーフは会釈をすると、伏目がちにフィンの元に歩いてきた。
 その姿は、一年前からは別人のように成長している。ターラ公爵に帝王学を叩きこまれたせいだろうか。背が伸びたのはもちろん、ただ歩いているだけで人の目を惹く知性と気品を漂わせるようになった。澄んだ双眸が放つものは、まちがいなく王族の風格であった。

 しかし、だからといって、リーフを取り巻くすべてがうまくいっているわけではなかった。

「参りましょう」
「……うん」

 リーフは答えながらも、フィンと目を合わさずに、先に歩いていってしまう。
 最近のリーフは、しばしばフィンを避けるようになった。話をするにも気後れした様子があり、返事はどこかそっけない。
 そういう年頃なのね、とラケシスがぼやいていたが、彼の拒絶はフィンに対して特に顕著だった。

 8歳になったら始めると約束していた槍の練習も、リーフはなんやかんやと理由をつけて先伸ばしにした。今日になって、ようやく初練習にこぎつけたのである。

 練習場に向かう間、リーフは一言も喋らず、馬車の窓から外を眺めていた。昔は顔を見れば考えていることがすぐに察せたものだが、今、彼の瞳に映るものが何なのか、フィンにはわからなくなっていた。

 公爵が手配してくれた練習場の武器庫に行くと、リーフはとうとう立ち止まった。彼に見合った練習用の槍を探していたフィンに向け、リーフは言った。

「……フィン、ごめん。僕は、槍じゃなくて、剣を習いたいんだ」

 フィンは手を止め、振り向いた。
 言葉は耳から入ってきたはずなのに、心の表面を滑り落ちて流れていった。

「……なぜですか?」

 ようやく、それだけ言えた。自分がひどく無防備な顔になっていることを、フィンは自覚した。
 リーフはうつむいたまま、ぼそりと答えた。


「――だって僕は、聖痕を持たないから。槍の修行をしたって、僕にゲイボルグを持つことはできないんだろう?」


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