騎士様の憂鬱 ――キュアン様は、私に大きな才能があると言ってくださった。 ――しかし結局のところ、私は弱く臆病な人間だ。 だって、あのとき。このまま遠くに行ってしまおうと、あの人が言ってくれたとき。 すんでのところで、すべてを投げ出してうなずいてしまいそうになったのだから。 抱きしめられた腕の中で、時が止まってくれたらいいとさえ考えていたのだから。 夢うつつに、なにがあったかは理解していた。ラケシスが連れてきた司祭に治療してもらったこと。リーフとナンナが喜びに泣いていたこと。教会らしき場所に運ばれたこと。だが、隙間風のない部屋で温かく清潔なベッドに横たえられると、意識は完全に闇に落ちた。身体は、貪欲に休息を求めていた。 寝ている最中は、様々な人を夢に見た。たくさんの光景が混沌と交じり合い、輝き、汚され、また煌めいて、消えていく。 最後に見たのは、いつかの厩の情景だった。 いつものように用具を持って、藁の散らばる通路を歩く。 見事な白馬が、自分の馬の横につけてあった。手入れも行き届いている。どこかの王族のものに違いない。 それにしても、毛並みといい、肉付きといい、良い馬だった。羨ましいな、と無邪気に考えながら、自分の馬に挨拶をし、手入れを始めたころ――。 ――驚いたわ。わたしより早い人がいるなんて。 はっと目蓋を開くと、視界の端に黄金の河が流れていた。 一瞬、天国かと疑って視線で追い、フィンは息を呑んだ。 すぐそばで、ラケシスが眠っていた。椅子に座り、上半身を柱にもたれている。 黄金の河に見えたのは、彼女の豊かな金髪だった。旅中は後ろでまとめ、それも汚れてしまっていたから、こんなにきれいな状態を見るのは久しぶりだった。 その合間から、白い顔が覗いている。頬には、血色が戻っていた。やわらかそうな唇が、規則正しい呼吸を繰り返している。 「――、」 知らずと右手が動いていることに気づいて、フィンはそっと左手で右の手首を押さえた。なにをする気だったのか、自分でもわからなかった。息を深く吐き出し、視線を彼女から引き剥がす。 それから彼女が起きるまで数刻ほど、フィンは右手を押さえたまま、視線を部屋の隅に固定し続けた。 そして、いま。 「わたしのお父さんになってください!!」 天にも届けと言わんばかりのナンナの咆哮に、レンスターの誇り高き騎士フィンの思考は完璧に停止していた。 しかも、思わずラケシスのほうに意識を動かしてしまったのだから、愚かとしかいいようがない。そのせいで、ラケシスと思いきり顔を見合わせることになったのだから。 「…………」 大きな瞳を見開いたラケシスは、呆然とこちらを見つめていた。頬がわずかに染まっているのは、気のせいか。 沈黙三秒。お互いに多大な労力を消費しながら、顔をそむけ合う。 「……ねえ、ナンナ? それはいったい、どういうことかしら? だれかにそう言えっていわれたの?」 所々つっかえながらラケシスが問うと、ナンナは満面の笑みを輝かせた。 「うん! わたし、とうさまがほしいって言ったの。そしたら、アスベルがそう言えばフィンがとうさまになってくれるって! わたし、フィンがとうさまになってくれたら嬉しい!」 ラケシスが「あとでお説教しなきゃ……」とつぶやき、頭を抱えた。 すると、ナンナは、ようやく状況が芳しくないことに気づいたらしい。へにゃっと眉を下げた。 「だめなの……?」 「…………」 この場から逃げ出したい衝動にかられながら、フィンは膝をつき、ナンナの顔を覗きこんだ。 「ナンナ。私はおまえの父ではない。おまえの本当の父親は、別にいる」 「し、知ってるもん。でも、死んじゃったんでしょ。会えないんでしょ。だから、わたし、わたし……」 うっ、とフィンは顔に出さずに怯んだ。俯いたナンナの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。 「やさしいとうさまに会いたいの。おはなしして、だっこしてもらいたいよう……ぅう、ぅぅぇぇっ……」 フィンの服にすがりつき、ナンナは大声をあげて泣いた。思わずうなずいてやりたくなるほどの痛々しさだった。 ――けれど。 フィンは大粒のため息をついて、流されそうになる自身を押し留めた。 「ナンナ。よく聞きなさい。おまえの父親は、確かにこの世にはいないかもしれない」 言葉を紡ぐのには毒を呑むに似た苦痛があったが、フィンは続きを告げた。 「だが、おまえの父親は、私よりもずっと強く、勇気のある男だった」 ラケシスの身が固くなる気配がした。涙と鼻水でべとべとになった顔を、ナンナがあげる。 「フィンは、わたしのほんとうのとうさまを知っているの?」 「ああ」 遠い記憶にある野卑で不遜な笑みを思い起こしながら、フィンはうなずいてみせた。 「父親を恋しく思う気持ちはわかる。だが、軽々しく本当の親を忘れてはならない。戦いに散った父親を誇りにして、きちんとしていなさい」 それは、自戒でもあった。ラケシスがいてくれる現実に甘えてはならないのだ。本当に大切なものを守るためには、感情に流されてはいけない。たとえそれが、ラケシスを傷つけることになったとしても。 「……うー、いや。フィンがとうさまなのがいい」 「駄目だ。考えてみなさい。リーフ様はお父上もお母上も亡くしている。なのに、おまえと違って、しっかりされているではないか」 ナンナは反論しようと口を開いた。だが、うまく気持ちを伝えられないようで、とうとう爆発した。 「やだ!! フィンにとうさまになってもらう!!」 「ナンナ、いい加減に――」 「とうさまになってくれないフィンなんて、嫌い! 大っ嫌い!!」 フィンを突き放したナンナは、わんわんと泣きながら部屋を出ていった。 後には、微妙な沈黙と、廊下の奥から響いてくる泣き声だけが残される。 ラケシスの視線を強く感じたが、フィンは意図して無視した。己の意思は、はっきりさせた。嫌われるかもしれなかったが、それならいっそ楽になると思った。 そのとき、フィンは鋭い眼差しを窓側に向けた。すると、窓枠の向こうからこちらを覗いていた瑪瑙色の目と暗い赤銅色の目が、ぎょっと見開かれて、下方にひっこんだ。続いて、隠そうとしているのだろうが全く隠せていない逃げ足の音が聞こえてくる。 ああもう、とフィンはうんざりして、槍を手に「訓練してまいります」と残して部屋を出ていった。 「ば、ばれたかな」 「大丈夫、すぐに逃げたし。ぜったい、気づかれてないよ」 そう言いながらも、リーフは何度も背後を確認している。追っ手がないことを確認すると、ふたりは裏庭の樹の下に座りこみ、ほっと息をついた。 「もう、無茶しすぎだよ。大人の話は、勝手に聞いちゃいけないって、お父さんが言ってたじゃないか」 「アスベルがナンナにあんなこと言うからだよ。お父さんになるなんて、フィンが許してくれるはずがないのに」 「なんでわかるの?」 「……? だって、フィンだもん」 逆になぜわからないのか不思議だというように、リーフは首をかしげた。アスベルは余計わからなくなって、二人して不思議そうな顔を突き合わせる結果になってしまった。 「ナンナは子供だなあ」 つとリーフは、膝の上で頬杖をつき、虚空に向けてつぶやいた。 「お父さんがほしいなら、心の中でフィンをお父さんだって思ってればいいんだ。そうすれば叱られないで済むのに」 「リーフは、そう考えてるんだ?」 「うん。本当のお父さんとお母さんは、ぼくが赤ちゃんのころに戦争で死んじゃったから。ぼくは、ふたりの顔もよく知らないんだ」 「…………」 「でも、かわりにフィンとラケシスがずっといた。ふたりとも、ぼくの家族で、お父さんとお母さんだ。だから、悲しくはないよ」 リーフの横顔に、ごまかしや嘘の気配はなかった。物事の本質を捉えるまっすぐな双眸が、広い空を見上げている。 このひとはなにか特別な人間なのだと、アスベルは幼い本能で感じていた。いまだリーフがレンスターの王子なのだと知らなかったこのころから、アスベルはリーフの力になりたいと思うようになっていった。 そういえば、とアスベルは、疑問をそのまま口にした。 「フィンとラケシスって、結婚してないの?」 なんの気なしに問うたのだが、返ってきたのはリーフのつり上がった眉ときつい眼光、そして低い口調だった。 「その話、ぜったいにフィンとラケシスの前でしちゃだめだよ」 「な、なんで?」 「フィンの機嫌が、ものすごっっっっく悪くなる」 「ええ…………?」 アスベルは首をひねった。あの無口で無表情の若者に、上機嫌と不機嫌の違いがあることからして謎だったからだ。 「いい? わかった? 言ったら怒るからね。約束して」 「う、うん……」 よくわからないまま、首を縦にふる。 その後3回も同じことを誓わせてから、リーフはやれやれと言わんばかりに膝を抱え、息をついた。 ようやく6歳になった少年は、眉を悩ましげに寄せて、大人のような口をきくのだった。 「――ぼくだって、苦労してるんだ」 続きの話 戻る |