白き休息 泣きじゃくるラケシスの肩を、トントン、と叩く小さな手があった。 顔をあげると、瑪瑙色の髪と目をした子供が、ハンカチを差し出していた。利発そうな瞳が、気遣わしげに揺れている。リーフと同じくらいの歳の男の子だった。 「あ――ありがとう」 清潔な布など、手にするのは何ヶ月ぶりだろう。ぐしゃぐしゃになった顔を丁寧に拭うと、そこが礼拝堂であることがわかった。長椅子のひとつに大義そうに腰掛けた司祭が、隣を勧めてくる。 「まずは話を聞かせてもらいましょう。安心しなさい、ここには私たちしかいないから。――アスベル、この方に白湯を持ってきてあげなさい」 「はい、お父さん」 うなずいた子供の名は、アスベルというらしい。彼が踵を返すと、ようやくラケシスは我に返った。 「あ、あの! 助けてほしいのは、わたしの連れなんです! 彼は、その――!」 「落ち着きなさい、お嬢さん」 低く、ゆったりとした口調で、司祭は言った。 「もし私を信用してくれるなら、はじめから話してください。深いわけがあるのでしょう。こんな世の中だ、どんな話でも驚きはせんです」 「…………」 ラケシスは、司祭の灰色の瞳をじっと見据えた。信用できるかは、わからない。だが、状況が状況だった。 肚を決めると、ラケシスは事の起こりから話しはじめた。 「ラケシス! どこ行ってたの? ……あれ、そのひとは?」 廃屋に司祭をつれていくと、リーフは慌ててフィンを守るように立ち上がった。ナンナがその後ろに隠れる。 「大丈夫よ。この方にフィンを治していただくから、邪魔にならないようにしてなさい」 「…………本当なの? 本当に、フィンを治してくれる?」 大きな瞳が、疑わしげに司祭を見上げる。そんなリーフの姿を見て、司祭は痛ましげに眉根を寄せ、深くうなずいてみせた。 「できるかぎりのことはするよ。中に、入れてくれるかね?」 「……わかった。フィンになにかあったら、ただじゃおかないぞ」 ラケシスでさえたじろぐほどの強い眼光だった。司祭は物言いたげに口を開いたが、先にフィンの枕元に膝をつき、様子を確認した。そして、持ってきた杖を、胸の上にあてる。見たことのない杖だった。 「おそらくこの方は、ロプトの魔道士から闇魔法を受けたのでしょう。近頃、この半島にも帝国のロプト司祭が赴任してきたとききます。――これはレストの杖です。身体から邪気を払い、呪いや毒を解く力ががあります。しばらく、見ていなさい」 治療には、半刻ほどもかかった。毒はフィンの全身にまわっており、今日まで持ったのが信じられないと司祭は言った。 次第に彼の上半身に浮かんでいた黒い斑紋が消え、表情から苦しげな色が消えていくと、リーフは我が事のように喜んだ。ラケシスも、その場にへたりこんでしまった。 「毒は抜けたが、衰弱している。こんな家にいては死んでしまうだろう。私の教会に来なさい」 「でも……ご迷惑になりますわ。わたしたちは、追われる身ですから」 司祭は、フィンの手を握りしめているリーフに意味ありげな目線をくれてから、諭すように言った。 「そこの子供は、ただの少年ではありませんな」 「!」 「レンスターの生き残りであるあなたがたが守るその子の正体を、無理に聞こうとは思いません」 司祭はリーフの正体を薄々察している様子だった。ですが、と続ける。 「ですが、その子はなにか大きなものを背負った目をしています。――彼に読み書きができますか?」 どきりとして、ラケシスは首を横に振った。リーフは学問を必要とする年齢になっていたが、教育を行う余裕など欠片もなかったのだ。 「このような時勢でも――いいや、このような時勢だからこそ、学は必要です。特に、彼のような聡明な少年には。もちろん、そちらのお嬢さんにもです」 「…………」 ラケシスは胸に手を当てて考えた。王妃アルフィオナの声が蘇る。大切な人に、自分がなにをできるか考えなさい――。 ひとつ覚悟をきめて、うなずく。 「……わかりました、司祭さま。お世話になりたく思います」 そう答えると、司祭はようやくほっほと朗らかな笑い声を漏らした。 「よろしい。それではまず、全員風呂に入って服を着替えていただきましょう。すごい格好と匂いですよ」 「?」 「…………!!」 きょとんとするリーフとナンナ。赤面したラケシスは、思わず自身を抱きしめた。 司祭の教会は、いつも閑散としていた。グランベル帝国がエッダの教えを弾圧しはじめたため、人が寄り付かなくなったのだという。 だが、リーフとナンナはここで大切な友人を得た。司祭の息子、アスベルである。リーフに同年代の友達ができるのは、アルスターのミランダ以来だった。 司祭は毎日、3人を集めて初等教育を施した。読み書きに算術、地理に歴史。 実はここで、リーフは勉学にずば抜けた能力を発揮し、先に習い始めたアスベルをすぐに追い抜いてしまっていた。だが思慮深い司祭は、決してリーフを特別扱いしなかった。彼の配慮によって、3人はそれぞれの能力を伸ばしていった。 他に、司祭には魔導の心得があったため、彼らは簡単な手ほどきを受けることになった。ナンナは「かあさまみたいになりたい」と言って、杖の練習をはじめた。 「アスベルは、かあさまがいないのね。わたしには、とうさまがいないの。……死んじゃったんだって」 ある日の午後、杖を必死で振りながらナンナが言った。努力はしているが、ライブの杖は、中々反応する様子がない。 椅子に座って本を読んでいたアスベルは、すこしだけ寂しそうに笑った。 「ぼくのお父さんは、本当のお父さんじゃないよ」 「……ほんとうの、とうさまじゃ、ない?」 「そうだよ。ぼくの本当のお父さんとお母さんは、病気で死んじゃったから。泣いているぼくを、司祭さまが引き取って、新しいお父さんになってくれたんだ」 ナンナの目が、丸くなった。 「しさいさまは、ほんとうのとうさまじゃないのに、アスベルのとうさまになってくれたの?」 「うん。そうだよ」 「それ、ほんと?」 「うん」 「ほんとにほんと?」 「うん」 ナンナはぎゅっと杖を握りしめて、つぶやいた。 「わたしも、とうさまがほしい」 それは幼い心が求めた、純粋な気持ちだった。 そしてこのとき、アスベルはなにも考えずに笑顔でこんなことを言ってしまった。 「いるじゃないか。きみにはお父さんになってくれる人が――」 フィンが目を覚ましたのは、教会に来てから十日も経ったころだった。つきっきりで看病していたラケシスは、自分がベッドの脇で眠りこけている間に彼が目覚めたので、恥ずかしい思いをすることになった。 教会に身を寄せることになった経緯を説明すると、フィンは「そうですか」と返し、それ以上なにも言わなかった。ラケシスの無鉄砲な行動に腹を立てるそぶりもなかった。 ただ、互いになんとなく気まずい気持ちにかられて、二人は黙りこんでいた。 この一年、様々なことがありすぎた。一番近くにいたはずなのに、どう話せばいいのか、お互いにわからなくなっていた。 今日もラケシスは、フィンの身の回りの世話をする。フィンは、ようやく立ち上がれるようになったばかりだというのに、訓練を始めようとしていた。 「無理をしてはだめよ。ぶりかえしては、元も子もないわ」 「平気です。いつ、ここを追われるとも限りませんから」 とってつけたような会話を、視線をあわさずに繰り返すことしかできない。ラケシスがため息をついていると、どたどたと盛大な足音が聞こえてきた。 なにかと思って振り向くと、ナンナが戸を破るようにして飛びこんでくる。 頬を上気させ、切迫した顔をしたナンナに、フィンとラケシスが素早く反応した。リーフになにかあったのだと思ったのだ。 「どうしたの、ナンナ!?」 「あのっ、フィン……!」 「ナンナ、どうした。落ち着いてあったことを話しなさい」 立てかけてあった槍を取ったフィンが、騎士の顔で問う。 ナンナはぎゅっと拳を握りしめ、小さな体でフィンを見上げ、大声で言った。 「わたしのお父さんになってください!!」 …………。 重い沈黙が、落ちた。ラケシスは停止し、フィンは凝然とナンナを見つめた。 窓の外では、ぴいぴいと呑気に小鳥が歌っていた。 続きの話 戻る |