きっと、届くと思った


 こんなことをしても、彼が笑ってくれるとは思わなかった。むしろ、なぜ助けにきたのかと怒られるのだと、わかっていた。
 しかし――。もしも彼の心がリーフにしか救えないというのなら。

 彼の身を救えるのは、自分だけではないか。

 全力で放ったファイアーの魔法に、自身の血の気が引く。苦手な攻撃魔法を一日に二度も使ったのだ。強烈な目眩が、足元をぐらつかせる。
 それでもラケシスは山道に身を踊らせ、魔力の糸から開放されて倒れたフィンの腕を肩にまわして担ぎ起こした。

「走るわよ!」

 意識が朦朧としているのか、フィンの反応はなかった。だが、足を動かす意思は感じられた。まだ、希望を捨ててはいけない。ラケシスは砕けそうになる膝を叱咤する。
 唐突に、炎が晴れた。無造作に腕を振りぬいた姿勢の魔道士が現れる。こんなに簡単にかき消されてしまうなんて。ラケシスは力を振り絞り、二人で茂みに飛びこんだ。闇が身体を隠してくれることを祈りながら、急斜面を登っていく。

 下方がにわかに色めき立ち、追っ手がかかる気配があった。矢が風をきる音が聞こえてくる。

 そのとき、どっ、と身体に衝撃が走った。四肢から力が抜けて、その場に倒れこむ。
 肩に熱い感覚。矢が刺さっている。苦痛が、じわじわと肚の底から湧き上がってくる。

「うぐっ……」

 ラケシスは歯を食いしばると、思い切って手を回し、矢を抜いた。目が眩むほどの痛みがあったが、立ち止まるわけにはいかなかった。ライブの杖をかけている時間もない。うめきながら立ち上がり、前進を開始する。

「…………け、シス、さま」
「しゃべらないで。このまま行くわ。もうちょっとの辛抱よ」
「…………私、のことは、……どうか、捨ておき、……先に行って、ください」

 ぎろりとラケシスはフィンを睨んだ。

「しっかりなさい、フィン。あなただって騎士のはしくれでしょう。こんなところで死んで、どうするの」

 風切り音が、悪魔の笑い声のように聞こえてくる。ただ、敵も当てずっぽうに撃っているらしい。うまく暗がりに隠れることができたのだ。
 これ以上当たらないことを祈りながら更に闇の深いところへ進んでいくと、ぞっとするほど暗い声が聞こえてきた。

「…………私には、無理です」

 足が――止まった。
 風にかき消されてしまいそうなほどに小さく、だが矢よりも鋭く、言葉はラケシスの心に突き刺さった。

「フィン……?」

 呆然と、その名を呼ぶ。表情を伺えぬ暗さの中に、絶望の言葉が染み渡る。

「……こんなこと……もう、続けられません。嫌です……どうして、どうして……私が、こんなことをしなくては、ならないのですか……」

 身体から体温が消し飛んでいく。のろのろと足を動かす彼から滴り落ちる水滴は、血なのか汗なのか涙なのか。暗闇は、なにもかもを覆い隠し、溶かしてしまう。彼の心を覆っていた分厚い鎧までも。

「こんなことがしたくて、騎士になったんじゃない……こんなに苦しむためにキュアン様と出会ったんじゃない……なのに……どうして……」

 一歩。また一歩と進むたびに、怨嗟と慟哭が交じり合った言葉が漏れる。ふいに木の根に足をとられて、身体が傾ぐ。それを、歯を食いしばり、手にした槍を地面について、無理矢理支える。そうやって、彼は生きてきたのだ。
 キュアンに仕えていたころの彼は、このような未来など予想だにしていなかっただろう。レンスターの騎士として叙勲され、キュアンに仕え、陽光の注ぐレンスター城でリーフとアルテナの成長を見守る。彼はそんなありふれた夢をみた、ただの少年だったのだ。

「だれもが私に光を見せて、押しつけて、死んでいく……。ドリアス卿も、セルフィナも、グレイドも、死んだでしょう。カルフ王も、王妃様も、エスリン様も、キュアン様も……っ」

 フィンの膝が、崩れ落ちた。槍が落ちて、乾いた音をたてる。体重を支えきれずに、ラケシスも倒れた。山腹に溜まった泥の中だったが、なにも感じられなかった。唇だけが、震えていた。ふたりとも、ぼろぼろだった。

「もう嫌です……戦いたくなんか、ありません……キュアン様、キュアン様……」
「――」

 あなたはレンスターの最後の希望を背負っているの。だから、前を向かなければだめ。

 他の人間のように、ラケシスは言わなかった。言えなかった。悲鳴を飲み込み、痛みを押し隠していた姿を知っているからこそ。意識的に、あるいは無意識に、リーフを頼むと告げる人々に、彼が静かに返事をする姿を見ていたからこそ。折れてしまいそうになりながらリーフを抱きしめた姿に、己の無力を噛み締めたからこそ。

「フィン」

 手を伸ばした。すぐそばにある彼の身体は、ひんやりと冷たかった。血に濡れた髪を撫で、ラケシスは彼の頭をそっと抱いた。フィンは、抵抗しなかった。

「……このまま、遠くに行っちゃう?」

 耳元に顔を寄せて囁く。

「なにもかも忘れて、ふたりで暮らすの。帝国もトラキアも関係ない、どこか遠い場所で。畑を耕して、その日暮らしをするの。――わたしは、それでもいいわ」

 自分で言いながら、涙がこぼれた。それは、大切な人たちを裏切る選択肢だった。けれど、ラケシスは半分本気だった。もう、彼がこれ以上傷つくところを見たくなかった。
 ――ただ、彼がどう答えるかは、十分に想像していたけれども。

「できません」

 振り絞るように、フィンは言った。

「私には――できません」

 俯き、両手で顔を覆う。指の間から、嗚咽が漏れる。

「うん。そうね……」

 震えるフィンの背を、ラケシスは撫で続けた。このまま暗がりに溶けてしまえれば、どれほど幸福だろう。夢想は甘く、優しく、残酷だった。人から引き受けた願いは重く、痛く、やはり残酷だった。
 ただ、彼に触れている時間は、永遠のように感じられた。


 やがて時が満ちると、フィンは鼻をすすりながら落ちた槍を取り、それに縋るようにして立ち上がった。

「……申し訳ありません、ラケシス様。詮ないことを申しました。どうか、お忘れください」
「……」

 フィンの面差しには、いつもの冷静な光が戻っていた。胸に冷たい水が広がっていく気がして、ラケシスは目を閉じた。

(これは、わたしが望んだことよ)

 はじめから彼の心が手に入らないとわかった上で、自分はついてきたのだ。このような立場に甘んじることは、覚悟していた。そうは思うけれども――ラケシスは痛みとともに理解する。

 きっといつかこの想いが彼の心に届くのだと、自分はどこかで期待していた。
 そして、期待し続けることがこんなにも辛いことだとは知らなかった――。


 二人でリーフとナンナを隠した岩屋に辿り着いたのは、夜明けが近くなってからだった。
 それからは、地獄のような日々がはじまった。

 フリージ家は、追撃の手を緩めなかった。たかが二人の騎士に多くの騎士や兵を殺され、彼らの矜持は大きく傷つけられていた。雪辱を晴らさんと、次々に動員された兵が執拗にラケシスたちを追ってきた。
 街や関所には隅々まで手配書がまわった。頼る先も持たない彼らは、荒野をさまようしかなくなった。時折、ラケシスが僅かな持ち物と引き換えに、近くの遊牧民に食糧を分けてもらう。だが、生活は、困窮していくばかりだった。

 しかも、フィンの傷は、ライブの杖を使っても治らなかった。一時的に傷は塞がるのだが、時間が立てばじわじわと開いてくる。強力な暗黒魔法を受けるとこうなることがあると、ラケシスは聞いたことがあった。
 はじめは無理を押して戦っていたフィンであったが、一ヶ月、二ヶ月、と時が進むごとに状況は悪化していった。
 年が明けるころになると、フィンは起き上がることもできなくなった。

 山奥の廃屋で、布を一枚敷いただけの上にフィンが寝かされている。毛布は食糧と引き換えてしまった。荒い呼気を繰り返す彼の上半身には、ラケシスの上着がかけられていた。
 リーフとナンナは、乞食のような姿になっていた。食べ物だけはなんとか調達していたが、文化的な生活など望むべくもなかった。リーフは唯一持ちだした光の剣を抱き、ナンナとともにフィンを看病していた。

「フィン。しっかりして。死んじゃいやだ……」
「かあさま、ライブをかけてあげて。フィンを助けてあげて」

 リーフが涙ながらに声をかけ、傷が開くたびにラケシスが杖で治療するが、フィンの意識は戻らなかった。
 ひたひたと、冬の寒さが迫ってきていた。このままでは、全員が凍え死んでしまう。

 フィンが目を覚ましたのは、とりわけ寒い日の明け方だった。リーフとナンナは、まだ抱き合うようにして眠っていた。
 口に耳を寄せて彼の途切れ途切れの言葉を聞いたラケシスは、ぞっとした。


「私を置いて、三人で行ってください」


 身体を起こし、フィンの頬を思い切り叩いていた。リーフとナンナが驚いて目を覚ます。ラケシスは着の身着のまま、小屋を飛び出していた。

 フィンが、死んでしまう。

 そう考えるだけで、胸が張り裂けそうだった。残される痛みを味わうのは、二度と嫌だった。その辛さは、彼だって知っているだろうに。そして、ラケシスが抱いているこの気持ちだって、わかっているだろうに。

「ばか……ばか、ばかっ!! あなたなんて、大馬鹿よ!!」

 叫びながら、街道を走った。敵の存在など、どうでもよかった。殺せるものなら殺せと思った。冷たい風が、切り裂くように吹きつけてくる。大地は果てしなく、冬の空は晴れ渡り、薄く美しい色をさしかけていた。そんな空と大地の合間を、ラケシスは憎悪すらこめて見据えながら走った。

 そこには、フレストという静かな街があった。帝国兵の姿は少なかったが、手配書が回っていたため、これまで入ることは叶わなかった。だがラケシスは構わず城門を抜けた。番兵の男が怪訝そうに見ていたが、物乞いの女か娼婦だと思われたらしく、咎められることはなかった。

 向かった先は、エッダ教会だった。
 エッダ教会は悩める者への最後の救い手だ。頼れる先は、そこしかなかった。ただし、教会は貧しい人に施しをしても、罪人には厳しいと聞く。助けてくれる可能性は限りなく低かった。だが、ゼロではない。

 なにふり構っていられなかった。閉ざされた教会の大きな門を叩く。渾身の力で。血が滲んでも構わずに。

「助けて! お願い、助けてっ!!」

 疲労と苦悩で、頭はぐちゃぐちゃだった。ここで死ぬのなら、もうそれで構わなかった。
 錠前の開く重たい音。わずかに扉を開けて顔をだしたのは、優しそうな顔をした司祭であった。ただならぬ気配を察したのだろう。彼の顔がこわばる。すぐに閉められるかもしれない。

 だが、司祭は、そっと扉を開けてくれた。

「どうしたのです。とにかく中に入りなさい」

 ラケシスは扉を抜けると、その場に崩れ落ち、子供のように大声で泣いた。


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